悪魔来たりて紐を解く [ 2−2 ]
悪魔来たりて紐を解く
2.悪徳とフルーツタルト(2)
休み明けの月曜日、朝の通勤の電車を待ちながら、泉子はタブレットで「七つの大罪」を検索してみた。
ウェブ上の百科事典によると、キリスト教における罪とは、虚栄、貪欲、色欲、暴食、憤り、嫉妬、怠惰。
――怠惰も罪のひとつに数えられている。さぼるという概念がないと言ったのはどこの悪魔だ。
「さぼってどこかに行きたくなりますねえ、課長がいなくて、こんなにいい天気だと」
朝礼を終えて営業メンバーを送り出し、事務の四人でそれぞれの仕事に取りかかりはじめたころ、新人の佐伯和華が窓のほうを眺めながら呟いた。
「だめだよ、和華ちゃん。仕事があるんだから」
「言ってみただけだって。千鶴はほんとに真面目だよねー」
もう一人の新人、松川千鶴が隣からたしなめ、佐伯が適当にあしらうのを、主任の片瀬が向かいで苦笑しながら眺めている。
課長の横田が工場のある群馬に出張しており、フロアにいるのは女性ばかりの四人だ。この場合は主任が他の三人を見る立場になるが、片瀬は高圧的な雰囲気の先輩ではないので、フロアの空気はほどよく緩んでいる。一月にしては暖かい陽射しが窓の外を漂っているのも一役買っているだろう。
「篠山さん、そのニット可愛いですね」
佐伯がモニターの向こうから顔を出して言った。
泉子が今日着ているのはミントグリーンのアンゴラ風ニットだ。襟ぐりがなだらかな曲線を描いてやや深めに開いている。
「ありがとう」
「篠山さんがそういう露出多めの服って珍しいですよね。今日の帰り、何かあるんですか」
「別に。たまたまだよ」
「デートですか?」
「和華ちゃん、篠山さん困ってるって。女同士でもセクハラだよ」
松川が隣から佐伯をつついている。
泉子は二人の後輩を見比べて、小さく笑った。
「セクハラとは言わないけど、私語はこのくらいにして、仕事しようね」
「はーい」
「すみません、篠山さん」
佐伯が適当に応え、悪くない松川がなぜか謝っている。
清楚で真面目な松川と、派手でおしゃべり好きの佐伯。対照的な新人二人だが、入社した当初からお互いとは仲がいいようだ。昼休みには決まって一緒にランチに出かけるし、終業後も連れだって帰っていくことが多い。
「篠山さん、顧客情報管理システムの移行のことなんですけど」
キーボードを打つ音だけがしばらく響いた後、今度は松川が首を伸ばして話しかけてきた。
「私、今週は手が空いてるので、できる範囲で進めていっていいですか?」
「ほんと? お願いして大丈夫?」
システムの移行が通達されたのは去年の夏のことだ。実際に移行するのは新年度が始まる四月。その前に繁忙期がやってくるので、早めに分担して作業を進めておくべきだったのだが、社員の出入りもあって何かと忙しく、一月中旬の今日まで放置してしまっていた。
主任の片瀬が首を動かして泉子を見た。
「顧客情報の移行、まだ済んでなかったの?」
「すみません片瀬さん、もっと早く相談するべきだったんですけど」
片瀬が異動してきたのは去年の秋のことだ。当然、移行の作業は終わっているものと思っていたのだろう。
「ちゃんと確認すれば良かったね、ごめんね」
「いいえ――今後は早めに分担するとして――今日のところは松川さんにお願いしていいでしょうか」
「そうだね。松川さん、やり方はわかる?」
「マニュアルをもらっているので。わからないところは訊いていいですか?」
松川はいつの間にか立ち上がり、二人の先輩を交互に見つめている。控えめな態度だが、表情には迷いがない。
「もちろん。ありがとう、助かる」
「他の業務が入ったらそっち優先してね」
片瀬と泉子が口々に言うと、松川は微笑して再び椅子に掛けた。
入社した当初の松川は真面目なだけに小さな失敗を気に病み、新しい業務に怖じ気づくようなところもあったが、今では少しずつ自分の意見も口にできるようになっている。泉子や片瀬が忙しい時は率先して手を貸し、業務の割り振りについて提案してくれることもある。新人の指導は大変だったが、苦労したぶんこういう嬉しいこともついてくるわけだ。
斜めから松川の顔を覗きこんで微笑み、泉子は再び自分のパソコンに集中した。
すでに年始モードは終わり、顧客からの連絡も通常どおり入るようになっている。四人それぞれキーボードを叩き、何本かの電話を取って置いたころ、フロアの入口の扉が勢いよく開いた。
「横田ちゃん――あれ、いない? 今日休み?」
ノックもせずに入ってきたのは、隣の部署の課長である瀬野だった。横田と同じ四十代で仲がいいらしく、用もないのにここへ来ては長話をしていく。
瀬野がデスクの島へ歩み寄ってくるにつれ、泉子は顔をしかめたくなるのをこらえた。着崩したスーツの全身から煙草の臭いが漂ってくる。泉子がこの世でいちばん嫌いなものの一つだ。
「横田課長は前橋工場に出張です。何かご伝言をお預かりしましょうか?」
片瀬が椅子を引いて立ち上がり、瀬野ににこやかに問いかけている。
「ふーん……いや、いいわ。明日は出てくる?」
「明日は有休で、明後日の水曜から出勤されます」
「じゃあ、明後日にまた来る」
そう言いながら、瀬野はフロアをだらだらと歩き、いちばん奥の横田のデスクを覗きこんでいる。用がないならさっさと出ていってほしい。ニコチン臭で気分が悪くなりそうである。
瀬野はデスクの島をまわって引き返し、入ってきた時とは反対側の、松川と佐伯の背後を歩いてきた。横田と雑談するあてが外れて暇なのか、新人たちのパソコンのモニターを横目でちらちら眺めている。
松川の背後に来た瞬間、立ち止まってデスクに向き直った。
「なんだ、顧客情報の移行を今ごろしているのか!」
真上から怒声を浴びた松川が、華奢な肩をびくりとすくめた。泉子と片瀬は顔を上げ、佐伯も首を動かして隣を見た。
「今が何月だと思ってる、一月だぞ!」
「す、すみません――」
「うちの部署はとっくに終わっているぞ。担当なら責任を持って計画的にしたらどうだ!」
「すみません、瀬野課長、それは私のミスです」
泉子は急いで立ち上がり、松川を怒鳴りつけている瀬野に言った。
「早く分担して進めなければと思っていたんですが、なかなか手がまわらなくて。松川さんはそれに気づいて、自分がやると申し出てくれたんです」
「私の不監督です、課長。異動してきた時に確認するべきだったのに怠っていました。申し訳ありません」
片瀬も泉子の隣で立ち上がり、瀬野に向かって言ってくれた。
ベテランの女性社員二人に真摯に謝罪されて、瀬野は怒りのやり場を失ったらしく目を泳がせた。
泉子は学生時代にアルバイトしていた店のことを思い出す。そこのバイトリーダーもこの手のタイプだった。全体の流れを見ず、たまたま目についた不手際を見咎めて、責任の所在も確認せず、目の前にいる部下を頭ごなしに怒鳴りつける。そもそも他部署の社員に注意する時はそこの上長を通すのが筋ではないのか。
「申し訳ありませんでした」
ニコチン臭さっさと出ていけと心の中で呟きながら、泉子は深々と頭を下げた。作業が遅れていたのは明らかにこちらの非である。
「わ、わかってるなら今後はちゃんとやれ」
「はい、気をつけます」
「謝れば許してもらえる年でもないだろう、二人とも。いつまでも若い女子の気分でいて」
瀬野がすごすごとデスクの島から離れ、フロアから姿を消す間、泉子と片瀬は無言で頭を下げ続けていた。
ドアが閉まってすぐに泉子は後悔した。瀬野が次に喫煙室に行った時、煙草の灰がスーツの上に落ちるよう、魔力を使っておけば良かった。
「ごめんね松川さん、嫌な思いさせちゃったね」
フロアが静かになってから、先に頭を上げた片瀬が、松川に向き直って声をかけた。
「本当にごめん。松川さんは何も悪くないのに」
泉子も急いで口を添えた。松川が瀬野に叱責された原因のほとんどは泉子にある。他部署の課長である瀬野に謝る義理はどこにもないが、松川には心の底から申し訳ないと思う。
その松川は瀬野に怒鳴られた時のまま、力なく席について身をすくめ、真っ青な顔で小刻みに震えている。大きな目から今にも涙が溢れ出しそうだ。
「わ……私が余計なことをしたせいで、篠山さんと片瀬さんが怒られることに」
「違うって。完全に私のミスだよ」
「私が悪かったんだよ。主任としての自覚が足りなくて」
「いやいや私が」
「ううん、私が」
泉子と片瀬が責任の奪いあいをしている間も、松川の顔色は青白いままである。入社から半年以上かけて成長し、ようやく自主的に業務に取り組むようになってくれたというのに、このままではまた真面目すぎて自信のない新人に逆戻りだ。
泉子は片瀬と視線を交わしあい、同時に松川に向き直った。二人がそれぞれ口を開こうとした瞬間、別のところから甲高い声が上がった。
「あいつ超うざい! 何も知らないくせに急に怒って、勝手に怒鳴って。千鶴は何も悪くないのに!」
泣き出しそうな表情でうつむいていた松川が、ぱっと顔を上げて隣を見た。泉子も、片瀬も、松川から視線を離して、声を上げた佐伯に目を向けた。
「佐伯さん――声が大きい」
「千鶴もだけど、篠山さんと片瀬さんも何も謝ることないじゃないですか。移行作業は四月までに終えればいいんだから」
「そうだけど、もうちょっと小さな声で。瀬野課長は隣の部署なんだから」
先輩らしく佐伯をたしなめながら、泉子は内心で拍手を送りたくなった。佐伯は感情が素直すぎて周囲をはらはらさせることも多いが、こういう時は全員の本音を代弁して溜飲を下げさせてくれる。
「千鶴、あんなのに怒られて泣くことないよ。どうせあいつ、あれ以上は出世しないって。いっつもうちの課長としゃべるか、喫煙室にいるかのどっちかだし」
「和華ちゃん……」
瀬野に怒鳴られて以来、雨の日の捨て猫のようになっていた松川の顔に、少しずつ太陽の光が射しはじめた。
「ありがと、和華ちゃん」
「だから泣くことないって。仕事しよ。それからランチ行こ」
「うん……」
松川はパソコンに向き直ろうとして、立ち上がったままの泉子と片瀬に気づき、小さく会釈した。
「片瀬さん、篠山さん。すみませんでした」
「あ、いいえ」
「こちらこそごめんね」
後輩たちの様子に気圧されて、泉子は所在なく立ったまま気のない言葉を返した。
持つべきものは仲のいい同期、ということか。
なんとなく隣を見ると、片瀬も同時に顔をこちらに向け、しばらく二人の目線があった。
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