悪魔来たりて紐を解く [ 2−1 ]
悪魔来たりて紐を解く
2.悪徳とフルーツタルト(1)
「私はあなたの愛人になったんだよね」
向かいに座っている悪魔を見据えて、泉子は言った。
「そうだぞ。俺の可愛い人」
悪魔――ゾールはテーブルに頬杖をつき、黒光りする二つの瞳で泉子を見つめている。
「じゃあ、なんで私があなたに、フルーツタルトをご馳走してるの」
二人の間にあるこたつテーブルには、二枚の小皿にそれぞれ載せたタルトと、コーヒーを注いだマグカップとペーパーカップが置かれている。
毎週の日曜日、図書館と映画館に交互に通うのが、泉子の大切な習慣であり充電の時間である。
今週は図書館に行って二時間ほど過ごして帰り、最寄り駅から歩く途中でコンビニに寄った。のど飴と炭酸水を手に取ってレジに向かおうとした時、ゾールが急に姿を現し、泉子に手招きして、レジカウンターに近い生菓子の棚に導いた。シュークリームやロールケーキといった定番の商品と並んでひときわ目立っていたのが、色鮮やかなフルーツを飾りつけた四種類のタルトだ。有名パティスリーとコラボした期間限定の販売らしい。
それから小一時間後、泉子は自分の部屋のこたつテーブルで、タルトを挟んでゾールと向かいあっている。
「俺が食べたいと言ったからだろう」
ゾールは悪びれもせず、長い指でタルトを持ち上げて口に運んだ。タルト台の上では三種のベリーが、悪魔の瞳と同じように輝いている。
「フォーク使ってよ」
「手で食べたほうが美味い」
泉子はため息をつき、自分の皿のタルトにフォークを入れた。こちらはつやつやとした黄色のレモンタルトだ。口に運ぶ前から柑橘類の良い香りがする。
ゾールと愛人契約を結んで、そろそろ二週間が経とうとしている。
泉子の生活に大きな変化はない。今までと同じく職場と自宅を行き来して、家事を片づけ、映画と本を楽しみ、週末には充電に出かける日々だ。愛人としての報酬――魔力のほうは、お試し期間に課長の足をデスクにぶつけて以来、今のところ一度も使っていない。
ゾールは四六時中べったりくっついてくるわけでもなく、姿を見せたり見せなかったりさまざまだ。職場にはついてこないでと泉子が頼むと了承したが、姿を消すことができるらしいので本当のところはわからない。部屋では泉子に構いたがることが多い一方で、本やテレビを見て一人で楽しんでいることもある。そうかと思えば、気がつくと視線をこちらに向け、泉子の骨に萌えている。
近すぎず、遠すぎず。お互いに過干渉をしない適切な距離だ。人間の同居人ではこうはいかないだろう。
「美味しい?」
幸せそうにタルトにかぶりつくゾールに、泉子は自分の手を止めて訊いた。黒い瞳が輝きを増しているところを見ると、答えは訊くまでもなく明瞭なのだが。
「美味いぞ。泉子はどうだ?」
「美味しい。コンビニにしてはいい値段だけど、それだけのことはあるよね。専門店で買うよりは安いわけだし」
一人で食べるご馳走よりも、家族と食べる粗食のほうが美味しいとはよく言うが、泉子がこの世でいちばん美味しいと思うのは一人で食べるコンビニスイーツだ。
仕事の帰り道、あるいは今日のように休日に出かけた後、通い慣れたコンビニに気まぐれに寄ってみる。ペットボトルの水などの常用品を買うついでに、生菓子のコーナーをついつい覗いてしまう。コンビニのくせに高い、あと二百円出せば有名店のケーキが買えると思いつつ、ふわふわしたクリームや色鮮やかなフルーツの魅力に負けて、選び抜いた一品をレジに持っていってしまう。
崩れないように気をつけて部屋に持ち帰り、着替えて荷物を片づけた後、ドリップのコーヒーを淹れて、座椅子に座って一人ゆっくりとスイーツを味わう。これを至福の時間と言わずして何と言おう。
――今は一人ではなく、甘党の悪魔が一緒に食べているのだが。
「美味かったぞ、泉子。礼を言う」
結局一度もフォークを使わずに、ゾールはベリーのタルトを平らげた。指先をぺろぺろと舐めているのを見て、泉子は顔をしかめる。イケメンなら行儀が悪くても許されると思ったら大間違いだ。
「また食べさせてくれ」
「――だから、なんで愛人の私があなたに食べさせるの」
「俺はちゃんと報酬を与えているだろう。人間の愛人の定義は知らん」
泉子は呆れながら、レモンタルトの最後の欠片にフォークを刺した。
「まあ――他の種類も食べてみたいよね」
フルーツタルトは全部で四種類あった。ミックスベリー、レモン、桃、りんごだ。
ゾールの黒い瞳がそれまでに増して輝き出す。
「本当か。約束だぞ、泉子」
「売ってる期間中に買えたらね」
最後の一口を味わって食べ、コーヒーを飲み干すと、泉子はテーブルに手をついて立ち上がった。
皿を重ねて持ち上げようとした時、向かいから流れてくる視線に気づいて、動きを止める。
「――何?」
「鎖骨に触れたい」
二つの黒い瞳が、泉子のデコルテのあたりに向けられている。潤んだような目は憐れっぽくもあり、不敵そうでもあり、完璧なラインの唇は片方の端が持ち上がっている。
――悪魔的な美貌、という形容は、本物の悪魔にも使っていいものだろうか。
「その前に手を洗って」
激しくなった動悸をごまかすように、泉子はそっけなく言った。
「手で触れるとは言っていない」
いつの間にか、ゾールはカーペットの上を這い、泉子の目の前までにじり寄ってきていた。両手は宙に浮かせたまま、上体を傾けて泉子のデコルテに顔をうずめる。
ゾールは泉子の鎖骨が大好きである。
――と言うと何やら色っぽいような響きだが、何のことはない、ゾールは泉子の骨というすべての骨が大好きで、中でも皮膚ごしにいちばん感触を楽しめるのが鎖骨なのだという。
他にもあるだろうと泉子は言ってみたのだが、悪魔曰く、指節骨は数が多すぎてゆっくり味わえない、肩胛骨は後ろからになるので趣味にあわない、膝蓋骨は大きすぎて口に含みづらい――うっかり泉子まで、骨の種類に詳しくなってしまった。
文字どおり目と鼻の先にある艶やかな黒髪を見て、泉子はなんとなく肩の力を抜いてみる。
まあ、貯められるうちに魔力ポイントを貯めておくとしよう。
二枚の皿とマグカップを洗い終えると、泉子は再びカーペットに座り、図書館から借りてきたばかりの文庫本を開いた。
芥川龍之介の短編集だ。『煙草と悪魔』という作品があったことを思い出し、読み返してみようと思ったのである。
物語の舞台は戦国時代、西洋の文化が渡来し始めたころの日本。極東の島国を目指してやってきた宣教師の船に、悪魔が密かに紛れ込んでいる。西洋の善と悪が同時に日本に入ってきたというわけである。
新天地で人間を誘惑するため意気揚々と渡ってきた悪魔だが、到着して早々にのっぴきならない事実に気づく。まだキリスト教の伝道が始まったばかりの日本には、誘惑の対象となる信者が一人もいなかったのである。
途方に暮れた悪魔は、持て余した暇を埋めようと園芸などを始めてしまう――。
文庫本を手にしたまま泉子はくすりと笑った。芥川龍之介が悪魔を見たことがあるのかは知らないが、あったとすればその悪魔も愛嬌のある生き物だったらしい。
「ねえ、ゾール」
ふと気づいて、泉子は現実のほうの悪魔に声をかけた。
ゾールは泉子が借りてきた別の本を勝手に開いて眺めている。こちらは翻訳ものの長編小説である。
「なんだ、泉子」
「あなたはこんなところにいていいの?」
「いいとは、どういうことだ」
「悪魔って、キリスト教徒を誘惑して堕落させるのが仕事でしょ。うちの実家は仏教なんだけど」
泉子は信心深いわけではないが、実家の法事には嫌々ながら顔を出す。盆休みには親兄弟と墓参りにも行く。面倒だが、欠かすと父がうるさいのでもっと面倒になるのである。
「ああ、龍之介の書いた悪魔の話か」
泉子が手にした文庫の表紙を覗き込んで、ゾールがつぶやいた。龍之介の知り合いか何かか。
「読んだことあるの?」
「前の前の愛人が読めと言ってきて、泉子と同じことを俺に訊いた」
「で、どうなの。この話に出てくる悪魔みたいに、キリシタンを誘惑しに行かなくていいの?」
日本にも一定数のキリスト教徒はいるはずである。その中には骨のきれいな人間だっているだろう。
「えらく真面目なやつだな、この悪魔は」
「真面目?」
「人間を誘惑するために、わざわざ船に乗り込んで知らない土地に行く。行ってみて誘惑する相手がいないとわかれば、人間の真似をして畑などを耕し始める。暇なら愛人をつくるか、その土地の甘味でも楽しめばいいものを」
泉子は呆れて思わず口を開けた。
「要するに、あなたは悪魔の本業をさぼってるってこと?」
「さぼるという概念は悪魔にはない。人間の物差しで考えるな」
「この話に出てくる悪魔が真面目すぎるの? それともあなたが不真面目なの?」
「他の悪魔のことは知らん。悪魔は好きなところへ行って好きなようにやるだけだ」
「自由でいいね」
皮肉でもなんでもなく、泉子は素直に言った。まったくもってうらやましい。
文庫本に目を戻しながら、泉子の考えはあらぬ方向へ飛んでいく。
さぼるという概念は悪魔にはない――ということは、勤勉な人間を誘惑して怠けさせることは、悪魔の仕事のうちに入らないということか。
怠惰が悪魔の与えたものでないのなら、悪魔が人間に与えるものとは何なのだろう。宣教師の船が西洋の善とともに運んできた悪というのは。
殺生? 妄語? いやこれは仏教の悪だ。
「……なんか難しくなってきた」
活字を目で追いながら、泉子は思わずつぶやいた。
「龍之介の小説は文体が凝っているからな」
「そうじゃなくて。……もういいや、今日は他の本を読む」
せっかくの休日だというのに、なぜ自分は人の善悪について哲学しているのだろう。
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