悪魔来たりて紐を解く [ 1−5 ]
悪魔来たりて紐を解く

1.魔力とタブレット(5)
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 気の滅入るようなことがあった翌日でも、朝はやってくる。
「おはようございます」
 帰りたい帰りたいと心の中で唱えながらドアを押して、目の前に拓けた光景に泉子は拍子抜けした。
 いつものフロアにいるのは、黒やグレイのスーツを着込んだ五人の男性――課長の横田と、営業メンバーの四人だった。それぞれデスクやパソコンから顔を上げようともしない。
「おはようございます、篠山さん」
 入り口に一番近い席にいた男性が気づいて挨拶を返すと、他の者たちも次々にそれに続いた。片瀬も、松川も、佐伯も、どこにも姿が見あたらなかった。
 ひとまずほっとして、泉子はフロア奥のロッカーに向かう。
「課長、ごめんなさい。遅くなりました!」
 ドアが開く音と同時に、明るい女性の声がフロアに響いた。
 泉子はびくりとしたが、振り返らずにコートを脱ぎ、ロッカーの中のハンガーに掛ける。
「お湯がなかなか沸かなくて。お待たせしました、アメリカンです」
 片瀬は横田のコーヒーを淹れに行っていたのか。いつもはこの時刻には給湯室から戻っているのに――と考えかけ、泉子は反射的に振り返った。
 コーヒー。給湯室。片瀬が課長デスクに置いているのは、古いアニメのキャラクターが描かれた横田の私物のマグカップ――昨日、泉子が下の階の給湯室で洗ったものだ。
「すみません、片瀬さん」
 何も考える間もなく、泉子の口から言葉が飛び出した。
「マグカップ、探しましたよね。私が昨日、下で洗ってそのまま置きっぱなしにしたんです」
 今朝の出勤時に下の給湯室に寄り、いつもの場所に置き直すつもりだったのに、すっかり忘れていた。忘れていなくても片瀬が給湯室に行くタイミングには間に合わなかったかもしれないが。
「え? ううん、すぐに見つかったよ。洗ってくれてありがとね」
 片瀬は課長デスクの前で振り返り、一月にしては温暖な朝の空気にふさわしい、朗らかで気持ちのいい笑顔を見せた。ハーフアップの黒髪は今日もサラサラのツヤツヤで、人を不愉快にさせる要素はどこにも見つからない。
「それより篠山さん、昨日はごめんね」
「はい?」
「私ちょっと強引だったなと思って。友達に相談したら叱られちゃった。SNSをやりたくない人もいるって」
「あ――」
 電車に乗って出勤する間、片瀬にこの件をどうやって切り出すか、さんざん悩んだというのに。片瀬のほうからいとも簡単に触れてくるとは思わなかった。
「私こそすみませんでした、大きな声を出して。えっと、あれは」
「あ、いいの。LINEの話はもうしないから、安心して。話したいことがあれば会社にいる時にすればいいんだしね」
 あの時は急用が入ったばかりで気が動転していたとか、あのタブレットは家族との連絡にしか使わないもので通信量を抑えているとか、幾通りもの言い訳を用意していたのに、どれも使わずに済んだ。
 気の抜けた泉子の側に片瀬が歩いてきて、笑顔のまま小さく手招きをした。泉子が歩み寄ると、片瀬は自分のロッカーの扉を開けて、その陰に隠れるようにして泉子の耳にささやいた。
「これ、昨日のお詫び。ランチの後にでも食べて」
 片瀬の手が差し出したのは、ホワイトチョコレートがかかった透明な小袋入りのワッフルだった。
 またお菓子か。甘いものを配れば誰をも手懐けられると思っているのか。こちらは要らない食べ物をもらっても困るだけだというのに。
 心の中の自分が毒づき始めたが、ふと気づいて泉子は冷静になった。今ならもらい手のあてがあるのだった。
「昨日もいただいたのに。いつもすみません」
「男の人たちの分はないから、内緒ね。松川さんと佐伯さんには朝礼の後であげる」
 有給休暇を使って逃げたりしなくて良かった、と泉子は思った。
 どれだけ気の滅入るようなことがあった翌日でも、会社員の朝はやってくる。二度と職場に顔を出したくない、同僚の誰かと口を利きたくないと思っていても、習慣に従っていつも通り出勤してしまえば、流れが変わって何とかなってしまうことは少なくない。
 自分の手に収まったワッフルの袋を、泉子は無言で見つめる。
 同じようなことを片瀬も考えたのかもしれない。そりのあわない後輩に手を焼き、気まずい思いをさせられたとしても、いつもの笑顔でお菓子を配れば、平穏で単調な時間が戻ってくる可能性は高いと。泉子より三年長い経験で片瀬が身につけた知恵の集結が、このローカルブランドのワッフルなのかもしれない。
「女の子同士で、こそこそと何の話だ?」
 しみじみした空気をぶち壊すような、妙にはしゃいだ男性の声が、泉子と片瀬の頭に降りかかった。
 泉子はワッフルを自分の後ろに隠し、ロッカーに背を向けて振り返った。横田がわざわざ自分の席から立ち上がり、薄気味悪いような笑顔で泉子たちを眺めていた。
「片瀬さん、篠山さんをいじめてるんじゃないだろうな?」
「――はい?」
「いくら三十を過ぎたからって、若い子に八つ当たりするようになったらおしまいだぞ。お局様って呼ばれちゃうぞー」
 楽しそうに笑い声を上げる横田とは反対に、泉子の感情は急激に冷えていく。
 お局様などという単語を実際に口に出して使う人間を初めて見た。女性が二人いれば年上のほうが年下をいじめるとか、昭和何年の話だ。
「やだ課長、私いじめたりしてませんよ! そこまで落ちぶれてませんからー」
 不自然なほど明るい声を出して、片瀬が笑顔で横田に手を振って見せる。横田はにやけた笑みを浮かべたまま、ほんとかなーなどと呟いてしつこく片瀬に絡んでいる。営業の男性たちのほうから、苦笑とも失笑ともつかない生ぬるい空気が流れてくる。
 泉子は自分のロッカーにワッフルをしまいながら、片瀬はよくこのノリにつきあってやれるなと思った。
 片瀬がやって来てからの半年間で、横田はすっかり絵に描いたようなセクハラ上司に成り果てた。甘やかす片瀬も片瀬だが、その上に胡座をかく横田も横田だ。マグカップくらい自分で洗え。職場の部下を女の子と呼ぶな気色悪い。デスクの角に足の小指でもぶつけてしまえ。
「――あいたっ」
 間の抜けた叫びが聞こえ、泉子は反射的にロッカーから振り返った。
 自分のデスクに戻りかけていた横田が、左足を持ち上げて両手で抱え、片足で跳ねながら悶絶しているのが見えた。
「か、課長――大丈夫ですか」
 片瀬が笑顔を引きつらせながら声をかけているが、横田は声にならない呻き声を上げるばかりである。スリッパの先から出ていた指をデスクにまともにぶつけたらしい。
 その光景を呆然と見つめたまま、泉子はしばらくロッカーの前から動けなかった。
 今のが魔力だったのだろうか。指の関節に受けたキスがこれで帳消しになったのか。
 おはようございまーす、と無邪気な声がして、松川と佐伯の二人がフロアに入ってくる。

「言ってあっただろう。肝心なのは、そなたが相手にどの程度の災いを望んでいるかだと」
 ワッフルを嬉しそうに頬ばりながら、悪魔が泉子に説明した。
 今日も定時退社することができたので、泉子はまっすぐ自分の部屋に帰った。悪魔は今日は職場まで付いてこなかったのか、それとも姿を見せなかっただけなのか、部屋で出迎えて泉子の話を聞いてくれた。
「災いが起こればいいのにって考えるだけでは足りなくて、実際に起こるように心の底から願わないとだめってこと?」
 片瀬の頭に蛍光灯が落ちることは想像して楽しんだだけだったのに対し、横田がデスクに足をぶつけることは現実に起きればいいと思っていた。だから魔力が働いたということなのか。
「もっと言えば、苦しめ、消えろ、と漠然と願うだけでもだめだ。具体的にどんな災いが起こるのか想定する必要がある」
「隕石に当たれとか、落とし穴に落ちろとか?」
「そういうことだな。ただし、未確認生物に喰われてしまえというような現実離れした願いは効かない。その場で実際に起こりうるケースでなければだめだ」
「――意外と難しいんじゃないの」
 もっと単純な話だと思っていた。他人に災いを及ぼしたいと願うことがこんなに奥深いとは。
 食べかけのワッフルを手にしたまま、悪魔が暢気に笑った。ベッドの上でものを食べてほしくないので、今日は悪魔がスツールに、泉子がベッドに座っている。
「はじめは誰でもそう言う。まあ、経験を積むうちに慣れていくから心配するな」
「なんで私が愛人になる前提でしゃべってるの」
「ならないのか?」
 悪魔が小さく首を傾げ、憐れみを乞うように泉子を見つめた。
 黒光りする二つの瞳。ワッフルを齧っていても絵になる長い手足。あいかわらず憎々しいほど綺麗である。
 まあ、綺麗なだけでは役に立たないが、お菓子の処分に困ることはなくなりそうだ。
「――なる」
 泉子は言った。それから間を空けずに質問した。
「契約に期限はないの?」
「ない。そなたがやめたいと思った時にやめることができる」
「あなたのほうがやめたいと思ったら?」
「俺は一途な悪魔だと言っただろう。そなたの骨に飽きることは断じてないと誓うぞ、泉子」
 いきなり名前を呼ばれた。愛人になったら敬称が取れるのか。その口調でさん付けされても違和感しかなかったからいいのだが。
「私はあなたをなんて呼べばいいの?」
 泉子は質問を重ねた。悪魔に名前があるのかどうかは知らないが、いちおう尋ねておこうと思った。少なくとも泉子から契約を切るまでは一緒にいることになりそうだから。
「なんとでも。そなたの好きなように呼ぶがいい」
「好きなように?」
「これまでの愛人からもさまざまな名で呼ばれてきた。片恋の相手の名で呼ぶ愛人もいれば、好きな小説の主人公の名で呼ぶ愛人もいたな」
 なかなか業が深そうな話だが、悪魔はどこまでも楽しんでいる様子である。
 しかし、好きな名で呼べと言われても困ってしまう。片想いの相手などもう何年も存在しないし、好きな小説はいくらでもあるが、悪魔にあった名前の主人公となると難しい。
 ふと、ベッドの枕元に置いた小包が目に留まった。
 昨日ネット書店で注文し、今日届いていた本だ。不在票を受け取ることになると思っていたのだが、帰宅してみると商品そのものがポストに入れられていた。
 泉子は包装を開け、縦よりも横がやや長い、羊毛色の本を取り出した。
 エドワード・ゴーリーの『失敬な招喚』である。ゴーリーの絵本の中でこれはまだ持っていなかったので、昨日思い出したのを機に注文しておいたのだ。
「ベエルファゾール、ってどう」
「ベエルファゾール?」
「この絵本に出てくる、悪魔の使いの名前」
 『失敬な招喚』のヒロインが悪魔に出会った翌日、悪魔に使わされた鳥がヒロインのもとにやってくる。全身が黒く、悪魔と同じ角と尻尾を持つ、その奇妙な鳥の名がベエルファゾールだ。
 邪悪な存在ながらどこか愛嬌があって可愛らしく、ヒロインのベッドの上ですやすやと眠ったり、ヒロインと一緒に怪しげなお菓子を作ったりする。
「ああ、この本なら見たことがある」
 泉子が『失敬な招喚』を差し出すと、悪魔は目を輝かせて受け取った。
「懐かしいな。前の前の前の前の愛人も持っていた」
「――ベエルファゾールでいいの」
「泉子の好きな名でいいと言っただろう」
 悪魔なのに悪魔の使いの名で呼ばれて平気なのか、プライドはないのか――などという泉子の心配をよそに、悪魔は『失敬な招喚』を楽しげにめくっている。悪魔が悪魔の出てくる絵本を読んでいるというのも奇妙な話である。
「ベエルファゾール」
 泉子は試しに呼んでみた。
「ちょっと長いかな」
「そうか?」
「呼ぶ時はゾールでいいかも。ゾール」
「なんだ、泉子」
 悪魔が律儀に応え、泉子はつい笑ってしまう。
「ところでだな、泉子」
 ひとしきり一緒に笑ったあと、悪魔――ゾールが改まった様子で切り出した。ワッフルはもう食べ終えており、空の袋がテーブルに置かれている。
「俺はいつ本懐を遂げさせてもらえるのだ?」
「本懐?」
「そなたの美しい骨に、ずっと触れたくてたまらないのだが」
 泉子はなんとなく視線を泳がせた。帰宅してすぐにゾールと会話を始めたので、コートもマフラーもまだ身につけたままだ。
「触れるだけにしてね。その先はまた後でね」
「承知した」
 事前に合意を得るとは、悪魔は意外と良識的である。緊張から気をそらすためにそんなことを考えていると、ゾールの大きな影が目の前に近づいてきた。
 ベッドに座る泉子の隣に腰を下ろし、泉子の目を覗き込んでくる。長い指が泉子のマフラーにかかり、大切な贈り物の包みを開けるように、丁寧に解いていく。
 そういえば、『失敬な招喚』のヒロインも、悪魔のしるしを胸に受けたのだったな――と泉子は思った。


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