悪魔来たりて紐を解く [ 1−4 ]
悪魔来たりて紐を解く

1.魔力とタブレット(4)
[ BACK / TOP / NEXT ]


 結局、泉子が魔力を使うことはないまま、仕事始めの一日は終わろうとしていた。
 業務は午後も落ち着いていたので、フロアでは頻繁に私語が飛び交っていた。泉子は声をかけてくる同僚たちを適当にかわし、メールボックスの整理などをして時間を潰した。片瀬が口を開くたびに、その頭に蛍光灯が落ちてくるのを想像して楽しんだ。
「それじゃ、お先に失礼しまーす」
 コートを着た松川と佐伯が、ドアの手前に並んで小さく頭を下げた。午後五時三十五分。定時を少しまわったところだ。
「片瀬さん、これ」
 泉子がロッカーに向かおうとすると、横田がデスクに向かったまま片瀬に声をかけた。パソコンから目を離さず、空になったマグカップを手で押しながら。
「はい、課長――あ」
 笑顔で応じようとした片瀬のすぐ側で、ほとんど同時に電話が鳴った。
「はい、ユニフォーム事業部営業第一課の片瀬です。あ、今日はありがとうございました。はい、はい――」
 長くなりそうだ。横田はマグカップを押したままパソコンから目を上げない。フロアには他に外から戻ってきた営業の男性が二人いるが、どちらも我関せずで互いとの会話に没頭している。
 舌打ちしたくなるのをこらえながら、泉子は無言で横田のデスクからカップを取った。以前の横田は洗い物くらい自分でしていたのに、片瀬が来てから当たり前のように部下にさせるようになってしまった。
 また戻ってくるのが嫌なので、コートとバッグも持ってフロアを後にする。

 給湯室は廊下の両端それぞれに設けられているが、泉子の所属部署はその中間にあるのでどちらも近くない。エレベーターの前をいったん通り過ぎる時、後輩たちの姿はすでになかった。
 横田がマグカップを差し出したのが、松川と佐伯が帰った後で良かったと思った。あの場で二人が残っていたら松川が洗う流れになり、待たされる佐伯が不機嫌になる。
 そんなことを考えながら歩いていくと、扉のない給湯室の中から、その佐伯の声が聞こえてきた。
「勘弁してほしい。明日から十五分前に出勤とかさ」
「今までそんなことなかったのにね」
 松川もいるらしい。二人も何か洗うものがあったか、冷蔵庫に入れていたものでも取りに来たのか。
 朝礼のための早めの出勤には、やはり二人とも不満なのだ。今朝の応酬の時には黙っていたが、それは片瀬の醸し出す空気に抗えなかったせいだろう。
 こういった些細なストレスは降り積もると離職の遠因になる。入社したばかりで、まだまだ転職先を選べる年齢ならなおさらだ。ここで声をかけて愚痴を聞いてやるか、片瀬か横田に改めて訴え出るか、どちらが適切だろう。
「――篠山さんのせいだよね」
 急に聞こえてきた自分の名に、泉子は立ちすくんだ。
 佐伯である。小さく落としてはいるが、機嫌の悪さが滲み出た声だ。
「篠山さんは反対していたじゃない」
「でも、最初は十分前だったのに、篠山さんがゴネたせいで十五分前になったんだよ。篠山さんて言ってることは正しいんだけど、言い方があんまり賢くないよね」
「確かに、同じことでももっと柔らかく言えばいいのにね」
 松川までが同意している。泉子のいる位置から二人の姿は見えないが、うなずきあう姿が目に浮かぶようである。
「特に片瀬さんには突っかかるよね。やっぱり嫉妬してるのかな」
「なんの嫉妬?」
「主任になれなかったから。去年、中澤(なかざわ)さんが辞める時、篠山さん自分が主任になれると思ってたんじゃない?」
「それはない気がするけど――」
「いや、そうだって。それで別の主任がよそから来たんじゃ面白くないよね。片瀬さん、課長のお気に入りだし」
「そうなのかな――」
 泉子は給湯室に背を向け、エレベーターの隣にある階段室に向かって歩きはじめた。マグカップは下の階の給湯室で洗うことにする。

 気にしない、気にしない――と心の中で呟きながら、泉子はマグカップを洗って水ですすいだ。
 陰口を叩かれたことくらい何度もある。まして松川と佐伯は新人なのだから、指導者に対する不満くらいあるだろう。泉子は無愛想だし、雑談も得意ではないし、決して親しみやすい先輩ではない。
 マグカップを置いて手を拭くと、泉子はシンクに置いてあったコートを羽織り、バッグを肩にかけて廊下に出た。
 エレベーターに向かって歩きながら、ああいう時に魔力を使うこともできるのだな、と考える。何かの拍子に水が跳ね、佐伯のお気に入りのスカートにかかるとか。食器棚からグラスが落ちて松川のすぐ側で砕け散るとか。
 エレベーターの前で立ち止まると、泉子は深呼吸してボタンを押した。
 新しい年のはじめだというのに、今日は苛立つことばかりだ。なまじ魔力などを手に入れてしまったせいだろうか。気がつくと、その使い道のことばかり考えている気がする。
 エレベーターが着くまでしばらくかかりそうだった。泉子はバッグからタブレットを取り出し、電源をオンにした。職場では決して見ないようにしているが、ここは所属部署とは別の階なのでいいだろう。ネットニュースの記事でもチェックして、少しでも気分を紛らわせたい。
 メールが届いていたので開いてみると、昼休みに注文した本の発送連絡だった。明日には届くらしい。それなら明日も定時で帰って、ポストに不在票が入っていないか確認して――と考えていると、音が鳴ってエレベーターの扉が開いた。
 タブレットから顔を上げ、乗り込もうとして、泉子は足を止めた。
「あ、篠山さん?」
 片瀬が一人で乗っていた。まだコートは着ておらず、手には書類の入ったクリアファイルを持っている。
「――お疲れさまです」
「お疲れさま、洗い物ありがとうね。――あれ? それってタブレット?」
 この階にある総務か経理にでも向かうところだったのか、片瀬はドアに手を添えながらエレベーターから降り、泉子の手もとに目をつけた。
「そうです――では、お先に」
「なんだ、スマホのかわりにそれを使ってたんだ? だったら今すぐLINEできるよね。ねえ、良かったらこの後――」
「やめてもらえませんか!」
 エレベーターに乗ろうとしたところへ片瀬に腕をつかまれ、泉子はとっさに声を上げた。一刻も早く立ち去りたかったのと、エレベーターの扉が閉まりそうだったので、勢いで大きな声になってしまった。
「あ――ごめんね」
 片瀬が眉を下げて泉子を見つめる。悲しそうに、困ったように、誰かにいじめられでもしたかのように。
 いや、この場合、いじめているのは間違いなく泉子なのだろう。
「すみません。急ぎますので」
 エレベーターの扉が閉まりかけているのを見て急いでボタンを押す。再び開いた隙間から泉子は体を滑り込ませ、閉ボタンを押して外に小さく頭を下げた。片瀬の顔を見ることはできなかった。

 職場のあるビルから最寄り駅まで歩いて五分。電車に乗るのは十五分。降りた駅からマンションまでまた歩いて十分。
 いつもの道のりを進む間、泉子は息苦しいような嫌悪感に耐えていた。タブレットで時間を潰すことも、寄り道を考えることもできなかった。
 マンションの階段を上がり、ドアの並ぶ通路を歩いていくと、背後で男の声がした。
「どうした、泉子さん。何かあったか?」
 先ほどの職場での場面を見ていなかったのか。いつから泉子の側にいて、いつまでいなかったのか。泉子は悪魔を無視して自分の部屋の鍵を開け、音を立てながら中に入った。
「――消えたほうがいいのは、私なんだよ」
 泉子は声を絞り出した。靴を脱いで床に上がり、玄関の照明を点けたところで、それ以上は進む気分にならず、肩にかけていたバッグをどさりと落とした。
「なんだって?」
「消えたほうがいいのは私なの。私さえいなかったら、みんなうまくいくんだよ」
 佐伯の言ったとおり、片瀬は課長に気に入られている。営業の男性たちも愛想が良くて気遣いのできる片瀬を嫌ってはいない。松川と佐伯は時に面倒そうな顔を見せつつも、片瀬がつくる和気藹々とした空気にうまく馴染んでいる。
 いつまで経ってもその流れに乗ろうとしないのは、同じ部署の中で泉子だけだ。
 無愛想で、気が利かなくて、せっかくのいい雰囲気を台無しにする、入社七年目の困った中堅社員。
「あなたのせいだよ」
 絞り出した自分の声が震えていることに、泉子は気がついた。
「あなたが私に魔力なんかくれたから――おかげで気づいちゃったじゃない!」
「気づいた? 何に」
「自分の性格の悪さに!」
 悪魔は玄関のドアを背に立ち、床には上がらずに泉子を見上げていた。面白がるようないつもの笑みは浮かべていなかったが、かわりに何を考えているのかは読みとれなかった。
 恐ろしいほど整ったその顔を見つめていると、腹が立つような、気が抜けるような、さまざまに入り交じった感情がこみ上げてきた。
 自分は性格が悪い。誰のことも好きになれず、誰にも好かれないから、いつも一人だ。何かあるたびに他人に苛立ち、消えてしまえなどと思っている。人に災いが起こるところを想像しては心の中で笑っている。
 そんな自分は心の奥に縛りつけ、見ないようにしてきたのに。悪魔がやって来て泉子に魔力を与えてから、気づきたくなかったあらゆるものが紐解かれてしまった。
「私はあなたが現れてから――ううん、それよりもずっと前から、誰かが嫌いだとか、うざいとか、消えてしまえとか、そんなことばっかり考えてる。きっと地獄に落ちるんだよ」
「地獄は俺の故郷だが、それほど悪いところではないぞ」
 ドアに背をもたれ、腕組みをしたぞんざいな姿勢で、悪魔がつぶやいた。
「なんなら一度来てみるか?」
「え?」
 泉子が返事に詰まった一瞬のうちに、悪魔はドアから離れ、泉子の目の前に立って見下ろしていた。
「俺はそなたが気に入っている。このまま場所を変えずに愛人にするのもいいが、そなたが付いてくると言うなら地獄に連れていってもいいのだぞ」
 悪魔の瞳は黒々と輝いていて、美しかった。両手でも唇でも、いつでも触れられる距離にいながら、ほんのわずかな距離を空けて泉子と向きあっていた。
 この男は本当に自分を気に入っているのだ。何の脈絡もなく、泉子はそう思った。
「――そんなに私を愛人にしたいの」
「ものすごく」
「性格悪いのに」
「骨さえ美しければ他はどうでもいい」
 悪魔が唇の端をつり上げ、泉子から一歩下がった。
「もっとも、そなたが言うような意味でなら性格も悪いに越したことはないな。誰も消えてほしいと思わないような人間が相手では、魔力などいらないと言われて商売にならん」
 商売なのか。これは魔力と骨のトレードなのか。
 体から力が抜けると、同時に高まっていた感情も冷え込んだ。
「――まだ、契約するって決めたわけじゃないから」
 泉子は床に落としたバッグを広い、悪魔に背を向けて部屋の奥へ向かった。
 悪魔がまだにやにやと笑っているのが気配でわかった。


[ BACK / TOP / NEXT ]

Copyright (C) Kizugawa Yui.All right reserved.