悪魔来たりて紐を解く [ 1−3 ]
悪魔来たりて紐を解く

1.魔力とタブレット(3)
[ BACK / TOP / NEXT ]


 パソコンに表示された時刻が十二時きっかりになったことを確かめると、泉子は自分のデスクから立ち上がった。
 一月の初旬はまだ休暇の明けていない顧客も多く、泉子たち事務の仕事は落ち着いている。電話もほとんど鳴らず、挨拶まわりに出ている営業からの頼まれごともない。この様子なら昼休みの一時間はゆっくり外で過ごしても大丈夫そうだ。
「松川さん、佐伯さん。どちらかお茶淹れてくれる?」
 課長席から横田が声を上げ、立ち上がろうとしていた新人の二人が静止した。
 またか、と泉子は内心で舌打ちする。
 こういった場面でいつも率先して働く片瀬は、あいにく経理部に出向いていて不在だ。片瀬がいない時、課長の横田は必ず新人のどちらかに茶を淹れさせようとする。引き受けるのはたいてい押しの弱い松川である。
「あ、はい。課長」
 今回も松川がすごすごと立ち上がり、その隣で佐伯が不機嫌に押し黙った。二人とも昼は泉子と同じく外に出ることが多い。一緒に出かけて行き帰りもおしゃべりを楽しんでいるようだ。今日もそのつもりで、休暇が明けて最初のランチを心待ちにしていたに違いない。
「松川さん、私がやるからいいよ」
 給湯室に向かおうとしていた松川を、泉子は小声で呼び止めた。
「――いいんですか?」
「大丈夫。佐伯さんとランチ行ってきて」
「ありがとうございます」
 松川にも佐伯にも仕事を教えたのは泉子だ。半年かけてようやく戦力に育ってくれたのに、こんなことで不満を溜めて辞められてはたまらない。

 後輩たちを送り出して給湯室でお茶を淹れた後、泉子は横田の席にそれを届け、コートとバッグを持って今度こそ出かけようとした。
「あ、篠山さん」
 不運なことは重なるものだ。フロアから出ようとドアノブに手を伸ばした瞬間、ドアが開いて片瀬が姿を現した。
「お疲れさま。これからランチ?」
「はい。お先にいただきます」
「私もこれからなの。良かったら一緒にどう?」
 ナチュラルメイクに笑顔を載せて、片瀬が優しげに尋ねる。
 絶、対、に、ごめんである。
「片瀬さんお弁当ですよね。私は持ってきていないので」
「テイクアウトできるものを買えばいいでしょ。良かったらご馳走するよ」
「いえそんな、結構です」
「遠慮しないで。これでも私が先輩だから」
 遠慮しているのではなく、あなたと食事するのが嫌なのだとは言えず、泉子は曖昧に微笑んでおく。
 いつの間にかドアが閉じられ、泉子は廊下に出て片瀬と対峙していた。
「篠山さんはいつも控えめだよね。物静かだし、人にあまり頼らないし」
「愛想がなくてすみません」
「責めているわけじゃないよ。でも、一緒に仕事していく仲間なんだから、もっと素の自分を出してもいいんじゃないかな」
 これが素の自分なんですが、と泉子は言いたくなる。
 自分を出せ、素直になれと言いたがる人間は、なぜそれがおしゃべりになって他人と打ち解けることだと思っているのだろう。泉子にとっては一人で過ごす昼休みこそが、素のままでいられる大切な時間だというのに。
「ずっと気になってたの。松川さんや佐伯さんは課長とも仲良くしているのに、篠山さんだけ会話が少ないよね」
「業務のことはちゃんと話してますので」
「仕事の話だけじゃ味気ないでしょう。今はなんでもセクハラだ、パワハラだって騒ぐ人が多いけど、仕事をしていく上で人間関係を円滑にするために、多少はお互いの懐に踏み込んでいくことも必要だと思うの」
 上層部のおじさん役員が聞いたら泣いて喜びそうである。課長の横田も間違いなくその一人だ。
 去年の秋まではそうでもなかった。以前の横田はどちらかというと寡黙な上司で、部下たちと必要以上に馴れあうタイプではなかった。それが今や朝礼で喜々として自分語りをし、休憩のたびに部下にお茶を淹れさせ、プライベートな質問をしては新人たちにひっそり引かれている。
 何もかも、変わってしまったのは片瀬が異動してきてからだ。以前は仕事では協力しあうがそれ以外では一線の引けた、泉子にとって働きやすい職場だったのに。
「篠山さん、LINEもしていないよね」
「スマホを持っていないので」
 苛立ちを隠しながら、泉子は一瞬だけ目線を天井に向ける。
 片瀬のちょうど頭上には、二本の蛍光灯が並んで白く光っている。
 この瞬間、何かの拍子に、あの一本が落ちてきたらどうなるだろう。
 今の泉子には魔力がある。誰かに小さな災いを与えることができる。命に関わることは無理だというが、例えば奇跡的に小さな怪我で済むとしたらどうだろう。あるいは寸前に片瀬が避けたとしたら。どちらにしても不快な出来事には違いない。
 留め具が外れて蛍光灯の片側が天井から離れ、片瀬の一糸乱れない黒髪の上に落ちてきたとしたら。
「私と松川さんと佐伯さんとでグループを作ってるの。篠山さんにも入ってほしいんだけどな」
「ガラケーしかないんです」
「スマホにしたら? LINEで仕事の相談もできるし、ちょっとした愚痴も言いあえて楽しいよ」
「そうですね。考えておきます」
 天井から意識を離して、泉子は答えた。同じやり取りを何度したかわからない。
「ランチの後、時間があったら携帯ショップを見てきます」
「あ、うん。呼び止めてごめんね。ゆっくりしてきてね」
 この時点で昼休みの半分近くが過ぎているのに、ゆっくりできるはずがない。片瀬の笑顔に見送られながら、泉子は足早にエレベーターに向かった。

 時間が少ないので、ランチは近くのコンビニで済ませることにした。イートインスペースが広いので半時間くらいは気兼ねなく居座れる。
 オフィスビルに入っているコンビニはいつも混雑しているが、休暇中の企業が多いせいか今日はそれほどでもなかった。泉子はパスタサラダとレーズンサンド、ホットのカフェラテを買い、カウンター席の壁際に腰を下ろした。
「なかなか決意がつきかねているようだな」
 隣から聞き覚えのある声がして、泉子は飲みかけたカフェラテを口から離した。
 黒スーツの美貌の男こと悪魔が座って頬杖をつき、泉子を横目で見つめている。
「……なんで付いてきてるの」
「悪魔は好きなところへ行く」
「昼間でも?」
「今の時代は夜でも明るいからな。昼も夜もない」
 泉子はさりげなく周囲を見まわした。カウンター席には泉子の他に客の姿はない。背後のテーブル席には男女の二人連れと女性のグループがそれぞれ座っているが、どちらも自分たちの会話に夢中で周囲を気にしている様子はない。
「安心しろ。俺の姿は他の人間には見えていない」
 泉子の考えていることを読んだのか、悪魔が鷹揚にささやいた。
 明るいオフィス街の中で見ると、悪魔は芸能人かと思うような美形である。こんな男と一緒にいるところを同僚に見られたら、どんな噂を立てられるかわかったものではない。かといって、見えなければそれはそれで問題である。泉子が空気と会話しているおかしな人間になってしまう。
「職場では声をかけないでね」
「ああ、そうしたぞ。そなたがいつ魔力を使うのか楽しみに見ていたが、なかなか慎重なのだな」
 午前中も近くにいたのか。泉子は薄ら寒さを覚えつつ、バッグからタブレットを取り出した。
 スマホは持っていないがタブレットは持っている、ということは職場の人間には言っていない。これで電子書籍を読みながらランチをとるのが昼休みの貴重な息抜きである。調べものにもネットショッピングにもすべてこれを使う。スマホを持たないのはLINEやSNSに誘われるのが面倒だからだ。
 タブレットを出した後、バッグの底に異物があるのに気づき、泉子はそれも拾い上げた。片瀬がくれた個包装のクッキーだ。横長の袋に可愛らしいうさぎの絵が描かれている。
「ねえ、お願いがあるんだけど」
 できるだけ声を絞りながら、泉子は悪魔にクッキーを差し出した。
「これをどこかに置いてきてくれない?」
「どこかとは、どこだ?」
「どこでもいい。欲しがりそうな人がいるところなら」
 本当は捨ててきてほしいのだが、さすがに口に出して言うことはできなかった。
 旅行に行った時もそうでない時も、片瀬は何かと同僚にお菓子を配りたがるが、そのたびに泉子は始末に苦労している。食べたくないもので余分なカロリーを採るのは嫌だが、食べ物を粗末にするのも気が引ける。自宅で職場のことを思い出したくないので持ち帰るのも避けたい。そうなると、昼休みのうちにどうにかするしなかない。
「泉子さんは食べないのか」
「食べない。ていうか、なんでさん付け?」
「愛人にするまでは一定の距離を置いて敬意を払う主義だ」
 だったらその尊大な態度と口調はなんなのだ。
 泉子が真面目に問い返したいのをこらえていると、悪魔はクッキーを受け取って嬉しそうに笑った。
「食べないなら俺がもらう」
「――悪魔は食べなくてもいいんじゃなかったの」
「食べなくていいが、食べてもいい」
 言うが早いか、悪魔は袋を切ってクッキーを取り出し、笑顔のまま一口かじった。
「なかなか美味いぞ。これをくれた女に災いをもたらしたいのか?」
 泉子はぎくりとしたが、平静を装ってパスタサラダの蓋を開けた。早く食べなければ昼休みが終わってしまう。
「もう少し詳しく聞きたいんだけど」
 ドレッシングをかけてかき混ぜながら、小声で尋ねる。
「今の私に与えられるのは小さな災いだけで、命に関わるようなことは駄目なんでしょ」
「そうだ」
「命に関わるような大事故だったけど、結果的に小さな怪我で済むようなケースは?」
「小さな怪我で済んでほしいと、そなたが願っていればそうなる」
「結果までコントロールできるの?」
「そう。肝心なのは、そなたが相手にどの程度の災いを望んでいるかだ」
 悪魔はクッキーの最後の欠片を名残惜しそうに口に入れ、さくさくと噛んでから続けた。
「命を奪えるほどの魔力があって、実際にそれを使おうと思っても、どこかにためらいが残っていれば、それほど大きな惨事にはならない。反対に、小さな災いで済ませようとしても、心の底にある殺意が働けば、相手にとっての不運が重なって命に関わることもある」
「でも、今の私には小さなことしかできないんでしょ」
「もっと大きな魔力がほしいか? いつでも与えてやるが」
 悪魔が急に陰りのある目つきになり、泉子の鎖骨のあたりを見つめた。
 泉子は体をねじってその視線を避ける。そういえば、悪魔に出会った女性が魔力を手に入れるという内容の絵本があったなと思った。
 エドワード・ゴーリーの『失敬な招喚』だ。泉子は絵本好きというわけではないのだが、ゴーリーは数年前の展覧会で観て惹かれ、何冊か所有している。
 『失敬な招喚』のヒロインは魔力を存分に活用し、食べ物を腐らせたり隣人を死に至らしめたりしていたが、再び現れた悪魔に連れ去られ、最後は地獄の業火に落とされる。
 ということは、悪魔と正式に契約を結んだら、自分もいずれそうなるのだろうか。まだ一度も魔力は使っていないし、これから使うのかどうかもわからないが。
「――でも、小さな怪我で済ませることもできるんだ」
 泉子はひとりごとのように呟いた。
 先ほどのような場面なら、片瀬の頭に蛍光灯を落とすことはできる。片瀬は反射的にそれを避け、無傷か軽傷で済ませられる。
 ただし、肝は相当に冷えるはずだ。それこそ死ぬかと思うほどに。
 セクハラされても笑顔を崩さない、いつも感じのいい片瀬さんが、髪を振り乱して真っ青な顔で、廊下の床にへたり込む。
 その光景を想像して、泉子は一人でほくそ笑んだ。
 やはり自分は地獄に落ちる運命なのかもしれない。


[ BACK / TOP / NEXT ]

Copyright (C) Kizugawa Yui.All right reserved.