悪魔来たりて紐を解く [ 1−2 ]
悪魔来たりて紐を解く
1.魔力とタブレット(2)
夢ではなかったらしい。
一晩眠って目を覚ましてみると、黒いスーツで身を固めた男が、依然としてベッドの端に座っていた。長い脚を組み、頬杖をつき、寝ぼけまなこの泉子をにやにやと見下ろしながら。
「おはよう、泉子さん」
「おはよう――まだいたの」
「返事をもらえるまでは待つ。気にするな、悪魔は食事も睡眠もとらなくていいからな」
返事をもらえるまで、ということは、泉子が魔力を使ってみて、その感触を試してみるまでか。
とはいえ、近くに他人がいなければ災いを及ぼしようがない。
泉子は言われたとおり気にしないことに決め、悪魔を無視して予定を片づけ始めた。洗濯機を回し、掃除機をかけ、おかずを作りおきして冷凍する。悪魔はその間もベッドに、あるいは床に座りこみ、忙しく立ち働く泉子を楽しそうに眺めていた。
泉子の骨に見とれているのだろうか。だったらそのぶんの報酬も寄越せと言いたい。
そうして最後の休暇は何事もなく過ぎていき、泉子は明日の仕事始めに備えて早めにベッドに入った。悪魔は壁際に置いたスツールに腰かけ(寝ている間はベッドに座らないでと泉子が頼んだ)、暗闇の中の猫のように息を殺して目だけを光らせていた。
「篠山さん。あけましておめでとうございます」
朝の出勤時、エレベーターの前で同じ部署の後輩と居合わせた。
「松川さん、おめでとう。今年もよろしく」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
松川千鶴は去年の春に入った新人の一人である。栗色の髪をフィッシュボーンにして肩に垂らし、清楚なパステルブルーのコートに黒タイツをあわせている。
服装は泉子も似たようなものだが、泉子にない初々しい雰囲気が滲み出ているのは、若さとおっとりした愛想の良さのせいか。
「お正月休み、どこかへ行かれました?」
「実家に帰ったくらい。松川さんは?」
「私も似たようなものです。大晦日の夜から初詣には行きましたけど」
新年早々タイミングが悪い、と泉子は密かに思う。
エレベーターに乗る前に同じ部署の人間と居合わせてしまうと、これから階を上がって仕事場に着くまで一緒にいることになる。その間ずっと会話を持たせなければならない。
松川だったのはまだ幸いだった。もう一人の後輩と比べれば――
「あ、待ってー! 乗ります!」
松川と二人でエレベーターに乗り込み、閉ボタンを押そうとしたところで、甲高い声が響きわたった。急いで開ボタンを押し、閉まりかけた扉が再び開いたところへ、黒いファーつきコートが滑りこんできた。
「おはよう、和華ちゃん。あけましておめでとう」
「おめでとう。あっ、篠山さん。あけましておめでとうございます。すみません助かりました」
「おめでとう、佐伯さん」
泉子は扉の外に人がいないのを確かめ、再び閉ボタンを押した。上昇していくエレベーターの中で、佐伯和華のせわしない呼吸と声が響いている。
「あー走った……髪こわれてない?」
「大丈夫、可愛いよ。走らなくてもまだ時間あるのに」
「千鶴と篠山さんが見えたら乗りたいって思うじゃん。次の回にして他部署の営業の人とか来たらうざいし」
佐伯は明るい色の前髪を鬱陶しそうに耳にかけている。松川と同時に入社した新人だが、松川と違っておしゃべりで服装も派手である。声が大きく、雰囲気が騒々しいので、エレベーターのような狭いところで居合わせるとこちらまで落ち着かない。
だが、松川と佐伯が同時にいてくれたのは良かった。二人は同期だけあって仲がいいので、一緒にいればお互いとの会話に集中してくれる。泉子は罪悪感を覚えることなく黙っていることができる。
三階で停まったエレベーターから降り、泉子は二人の後輩とともに自分の部署に向かった。
九人分のデスクとパソコンが並ぶ、広くも狭くもないオフィスである。
「――おめでとうございます。これお土産です、今年もよろしく――あっ、星野さん、おめでとうございます――」
ドアノブに手をかけたあたりで聞き覚えのある声が耳に入ってきて、泉子はすでにうんざりしていた。
「あけましておめでとうございます」
息を吸ってドアを開き、声を張りながら中に入る。松川と佐伯が、おめでとうございまーす、と呟きながら後に続く。
「あ、篠山さん。松川さん、佐伯さん」
デスクの側に立っていた細身の女性、片瀬真樹が、三人に気づいて笑顔で駆け寄ってきた。
「あけましておめでとう。今年もよろしくね」
「よろしくお願いします」
「これお土産です。年末年始に山陰に行っていたの。一人ひとつずつ、どうぞ」
片瀬は手にしていた平たい箱を差し出した。中身は個包装の細長いクッキーで、半分くらいなくなっている。
泉子は礼を言って一つ手に取り、松川と佐伯に場所を譲るふりをして、早めにその場を離れた。
片瀬は部署内唯一の女性の主任である。三十二歳、泉子よりも三歳年上だ。去年の秋、退職した社員の後任として、名古屋の営業所から異動してきた。
「片瀬さん。山陰てことは、ひょっとして縁結び願い? あ、これセクハラになっちゃうかな?」
「うふふ、違いますよ課長。行ったのは鳥取のほうです」
いちばん奥の窓を背にした席から課長の横田が声をかけ、片瀬が笑顔で答えている。フロアにあるデスクの半分にはすでに営業の男性たちがつき、パソコンを起動させている。
泉子はコートと荷物をしまうためにロッカーを開け、片瀬から受け取ったクッキーをバッグに入れた。秋の連休にも片瀬は北陸に行ってきたと言って煎餅を配っていた。有給休暇を取って旅行したわけでもないのに、同僚への気遣いを欠かさないのである。
「それじゃ、みんな揃いましたし、朝礼を始めましょうか」
泉子と新人二人が席に着くと、横田が課長席で立ち上がった。四十代の小柄な男性で、いつもにこにこしている。
「えーっ、まだ始業まで五分ありますけど」
「佐伯さん。始業時間というのはね、準備や朝礼を終えて、業務そのものを始める時間のことなの」
不満そうに声を上げた佐伯に対して、課長ではなく片瀬が穏やかに答えた。
「さっき、課長ともそのことを話していたんだけどね、年も改まったことだし、明日からは出勤時間を見直してもらいます。去年までは始業の八時半ぎりぎりに来て、パソコンを開けてから朝礼をして、やっと仕事に入るような状態だったけど、これからは始業の十分前には来て、八時半から業務に取りかかれるようにしてください」
佐伯が松川と顔を見あわせている。営業の四人の男性たちはすでに話を聞いていたのか、苦笑いを浮かべるだけで口を開こうとしない。
「そういうわけですから、明日からはお願いしますね」
片瀬はあくまで笑顔を崩さない。ハーフアップにした癖のないセミロングの黒髪といい、ブルーグレイのニットに長めの白いタイトスカートという服装といい、好感度の見本のような女性なのである。
営業の男性たちが曖昧な態度のまま立ち上がった。松川と佐伯も戸惑いを顔に残したまま、それでもゆっくりと席を立った。横田はにこにこと満足そうに部下たちを眺めている。
「あの――すみませんけど」
誰も何も言おうとしない。ならば自分が言うしかないと観念しながら、泉子は口を開いた。同時に自分の席から立ち上がった。
「篠山さん。何か質問?」
「なぜ急に十分早く出勤ということになるんでしょうか。これまでの勤務時間で業務は充分まわっていましたし、繁忙期は残業して調整していましたよね」
「でも、朝の五分か十分は、始業準備や朝礼で潰れていたわけでしょう。その間もお給料は発生しているのに、会社に対して申し訳ないと思わない?」
思わない。準備も朝礼も業務のうちである。そう言いたいのを泉子はぐっとこらえる。
理詰めで抵抗しても勝てないのはわかっているが、簡単に引き下がるつもりもない。始業前の十分はコーヒーを淹れたり手帳を見たりする貴重な時間だ。給料も出ていないのに、なぜ朝礼に捧げなければならないのか。
「それなら――朝礼の頻度を減らすのはどうでしょう。週一回か二回くらいに」
本当は毎日なくしてしまえと言いたいが、妥協して泉子は言ってみる。
去年の秋に片瀬が異動してくるまでは、朝礼そのものがなかったのだ。スケジュールは各自ホワイトボードに書き込んでいるし、業務上の報告はメールでやり取りできる。対面でなければ難しい相談や頼みごとがある場合も、朝礼を終えてから切り出す者がほとんどである。
企業理念を唱和して課長の小話を聞くだけの朝礼など、今どき欠かさずしているのはここくらいではないか。
「篠山さん、それは良くないですよ」
たしなめるように口を挟んだのは、課長の横田だった。
「朝礼というのはね、一日の業務を始めるために気持ちを切り替える、大切な習慣なんです。毎日やらなければ意味がない」
去年の秋まで一度もしていなかったという事実をもう忘れたのか。毎朝、課長から一言、と振られるたび話題に苦労して、デスクの引き出しにネタ本を隠しているくせに。
「大切なことならなおさら業務時間内にやったほうがいいと思います。始業前の慌ただしい時間帯ではなくて」
給料の出ていない時間に朝礼や掃除をさせるのは法律違反で、過去にはその是非をめぐって訴訟も起きていて、原告である労働者側の主張が認められている、などと言ってはいけない。そんなことを言ったところで、横田は不機嫌になり、男性たちは苦笑し、片瀬はいじめられでもしたかのような困った表情を見せるだけである。
松川と佐伯はやり過ごすことに決めたようで、気配を消して息をひそめて、自分のデスクに視線を落としている。二人とも始業前はおしゃべりをしたりスマホを見たりして過ごすのが常だ。内心では泉子のほうに賛成なのに違いないが、決してそれを表に出したりはしない。
泉子と片瀬。どちらがこの場の空気をつかんでいるのか、誰の目にも明らかだからである。
「だったら、慌ただしくならないように、十五分前に出社ということにしましょうか」
手のかかる後輩を辛抱強くたしなめる、穏やかで優しげな女性主任の顔で、片瀬がゆっくりと言った。
横田が深くうなずき、松川と佐伯が同時に顔を上げる。男性たちは曖昧な笑みを浮かべたままである。
負けた、と泉子は思った。
これまでも片瀬に勝てたことなど一度もなかったけれど。
「そういうことで、いいですね、篠山さん」
「――はい」
「じゃ、遅れてしまったけど、朝礼を始めましょう」
泉子は口をつぐんだ。すでに始業から十分近く経っているし、外まわりに出る男性の一人は腕時計を気にしている。ここで食い下がっても、無駄な話しあいで時間を潰す面倒な人という烙印を、泉子が押されるだけである。
「篠山さんの言い分もわかるよ。最近は働き方改革だなんだってうるさいしね」
営業の中で最年長の阿佐田が、態度と同じくどっちつかずな言葉を述べた。それでフォローしているつもりだろうか。
「では、理念の唱和から行きますよ。今年初ですから、大きな声でお願いしますね」
片瀬のかけ声に続いて七人の男女が口を開き、真心だの大志だの抽象的な単語を散りばめた、誰にも意味のわからない理念を唱えはじめる。横田は生き生きと楽しそうに、男性たちは苦笑を浮かべたまま、松川と佐伯は無の表情で。
どいつもこいつも消えてしまえばいいのに。
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