悪魔来たりて紐を解く [ 1−1 ]
悪魔来たりて紐を解く

1.魔力とタブレット(1)
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「つまり、愛人契約を結ぶということでしょうか」
 泉子(もとこ)は目の前にいる男に尋ねた。
 男が座っているのは、1DKの間取りのうち奥のフローリングに置いてある、泉子のベッドである。
「人間の言葉に置き換えると、そういうことになるな」
 ベッドの端から見上げる形で、男がにやりと笑う。
 美しい男である。彫刻のように整った顔だちの中で、黒目がちの目が愛嬌たっぷりに輝いている。短めの黒髪はつややかで濡れたように光っている。ベッドに後ろ手をついた両腕も、ぞんざいに組んだ脚もおそろしく長い。三つ揃いのスーツは墨で染めたような黒、その中に来ているシャツはさらに深い黒だが、はだけた襟元に覗く首だけがまぶしいほど白い。
 男は、悪魔、だと言う。
 泉子が信じるか否かは別として、とにかく本人はそう名乗った。
「信じられないけど、信じるしかない、という顔をしているな」
 男が顎を引き、上目遣いで泉子を見つめる。
「だが、そなたは物わかりのいいほうだ。前の愛人は何度も説明しなければ呑み込めなかったし、その前のは俺を見ただけで悲鳴を上げて説明どころではなかった」
 それはそうだろう。泉子だって驚いているのだ。なぜ自分がこの状況下に冷静でいられるのか。
 一人暮らしの部屋に帰ってきて、荷物を置いて電気をつけたら、ベッドに知らない男が座っていた。
 これだけでも悲鳴を上げていい事態だが、泉子が凍りついているうちに男はにやりと笑い、切り出したのである。そなたが気に入った、愛人にしたい、と。
「もちろん無償ではないぞ。俺を楽しませてくれたら、そのぶんだけ報酬をやる」
「報酬って、どんな」
「聞いたことがないか。悪魔と契りを結んだ人間は、魔力を手に入れる」
 警察に電話をして、頭のおかしい男が部屋にいると言って、引き取りに来てもらうべきだろうか。
 だが、男の微笑みは美しかった。明るいのに陰があり、どこか哀れっぽくもあり、人が心の内に隠している何かに訴えかけ、解き放とうとでもしているような、それこそ悪魔のような笑み。
 泉子は男を見つめて立ち尽くした。外から帰ってきたばかりなので、コートもマフラーも手袋も身につけたままだ。
「私も座っていいですか」
 自分でも呆れるほど落ち着いた声で、泉子は言った。
「ああ。好きなように寛ぐがいい」
 私の部屋なんですけど。
 泉子は手袋とマフラーを取り、コートを脱いで半分に折り、まとめてベッドの上に投げ出した。1DKの部屋は密閉性が高くあたたかいので、ニットとスカートだけでも暖房なしでどうにか過ごせる。
 男の隣に座るのはさすがに気が引けたので、書き物に使っているテーブルの下からスツールを出し、ベッドとは少し離れた位置に置いて座った。
「それで、さっきの続きですけど」
「敬語も使わなくていいぞ。俺は愛人とも心安く接する類の悪魔だ」
「あなたの愛人になれば、私も魔力を使えるようになる。そういう契約のお誘いってこと?」
「そうだ」
 男――悪魔は膝の上で頬杖をつき、二粒の黒い瞳で面白そうに泉子を見つめた。
「そなたにだっているだろう。消えてほしい人間の一人や二人」
 いくつかの顔が、アニメーションのように同時に頭の中でひらめいた。
 一人や二人どころではない。三人、四人――ことによっては、もっと多くの顔が次々と浮かんでくる。
 泉子はとっさに首を振り、その考えを追い払った。悪魔の目はまだ泉子の顔を見つめている。自分自身にさえ見せまいとしていたものを見透かされているようで落ち着かない。
「まあ、愛人になったその日から、一人二人三人と消せるようになるわけではないが」
 悪魔は続けた。
「消すまでは行かなくとも、災いを及ぼすことはできる。怪我を負わせたり、財産を失わせたり、ちょっとした不幸を与えることだな」
「愛人になってから時間が経つほど、大きなことに魔力を使えるってこと?」
「時間ではなく、重要なのは回数だ。俺を楽しませた回数」
 悪魔の視線が泉子に近づいてきた。
 ベッドから一歩も動いていない、首を動かしてもいないというのに、近づいてきた、となぜか思った。
「キス一回で、階段を下りる人間の足を踏み外させることができる。抱擁ひとつで、刃物を扱う人間の手を滑らせることができる」
 悪魔が泉子の足もとまで目を走らせ、また這い上がって再び目をあわせた。
「一回ごとにそのつど魔力を使わなくてもいいのだぞ。何回分か貯めておいて、大きな災いをもたらしたい相手にまとめて使うこともできる」
 ポイント制なのか。泉子は全身から力が抜けるのを感じた。
 同時に、自分の体が知らず知らず強ばっていたことに気がついた。
「――ちょっと時間をもらえない?」
「もちろんだ。いくら物わかりのいいそなたとて、すぐには決断できまい」
「いま考える元気がないの。一年でいちばん疲れる仕事を片づけてきたところだから」
「新しい年のはじめにか。そなたの仕事は休みだと思っていたが」
 両親と弟夫婦が暮らす実家に帰り、大晦日と三箇日を過ごすという重労働をこなした。トラブルがあったわけでも、大きな家事を手伝わされたわけでもないが、二十九歳独身の女にとって気力を要する仕事である。
 帰ってきた部屋に知らない男がいて、その男が悪魔を名乗って、愛人にしたいなどと言い出しても、大騒ぎする気分になれないのは、単に疲れているせいかもしれない。
「ていうか、なんで私の仕事が年末年始は休みって知ってるの」
 泉子の仕事は衣料品メーカーの事務だ。土日祝が休みで、年末年始とお盆にも休暇がある。この国で働く人間の多くがそうだと思うが、なぜ泉子がその一員だと悪魔が知っているのか、そもそもこの現実味のない美貌の男、いや悪魔が、休暇や正月といった概念を理解できるのか。
 いや、それ以前に、鍵をかけていたはずのこの部屋にどうやって入ったのか。一つ一つ考えると面倒になってきて、どうでもいいような気がしてくる。
「もちろん知っているぞ。一月以上もそなたを見ていたからな」
「――は?」
篠山(ささやま)泉子。二十九歳、一人暮らし。職場までは電車で三十分。仕事は営業事務。朝と夜は自炊だが、平日の昼は外で食べる。趣味は読書と映画鑑賞。図書館と映画館に一週おきに交互に通っている」
 絶句した泉子の前で、悪魔は笑顔で言った。
「俺が手当たり次第に愛人にしたがる悪魔だと思ったか? よく吟味した上で、そなたを気に入ったから選んだのだぞ」
 喜んでいいのか、気持ち悪いと突っぱねるべきなのか。
 素性はともかく、この世の者とは思えないほどの美男である。時間をかけて捜し出さなくても、自分から愛人になりがたる女性がいくらでも寄ってきそうだが。
「私のどこが気に入ったの?」
 気がつくと、泉子はそんな素朴な問いを口に出していた。
 泉子はどこにでもいるような三十歳手前の会社員だ。見苦しくない程度に整えてはいるつもりだが、まかり間違っても絶世の美女ではない。社交的でも話し上手でもなく、職場では無愛想な女だと思われている。
 それとも、この世の者ではない悪魔というのは、愛人の趣味も一風変わっているものなのだろうか。
「骨」
 悪魔が短く答え、泉子は思わず自分の身を見下ろした。タートルネックのニットを着てスカートの下にはタイツをはいているので、見えている部分といえば頭と両手だけだ。
「えっと……顎のラインとか?」
「顎もいいが、すべてだ。そなたの骨はどこもかしこも美しい」
 悪魔が再び泉子の全身に目を走らせた。心から感嘆しているような表情で。
「頭蓋骨のフォルムがいい。肋骨の並びは均一だし、頸椎も胸骨もまっすぐだ。上腕骨と前腕骨のバランスも理想的だし、関節の形もみな素晴らしい」
「……見えてるの?」
「見えているぞ。ああ、気に障ったのなら謝ろう。人間の女は服の下を勝手に見られるのを嫌がるものだとは知っている」
 服の下のそのまた下のさらに下を見られたところで、嫌がって泣き叫ぶべきなのか、泉子にはもはやよくわからない。
「とにかく、俺はそなたの骨が気に入った。愛人にしたい。俺を楽しませてくれれば、そのぶんだけ報酬を払う。その使いみちも、使う時機も、そなたの自由にしていい。悪い話ではないと思うが」
 悪い話ではないと思うが、いかんせん突拍子もなさすぎる。
 信じていいのか、それともすぐに警察を呼ぶべきか。いや、そもそもこれは現実なのか。年始の重労働からくる疲れが見せた夢なのではないか。
「すぐに決められないと言うなら、少しだけ試してみてもいいのだぞ」
 泉子は悪魔の目を見た。小動物のような円らな瞳は、可笑しそうに、同時に真剣味を帯びて輝いていた。
「お試しもできるの?」
「そうだ。やってみるか」
 悪魔がベッドから腰を上げた。立ち上がってみると悪魔は肩が広く、思っていたよりも大きく見えた。
 泉子は動かなかった。逃げるべきなのかもしれないとは考えたが、疲れのせいか、投げやりになっているのか、それとも別の何かのためか、スツールから腰を浮かす気にもなれなかった。悪魔の大きな影が覆い被さるように近づいてきた。
 膝の上に置いた左手に、何かが触れた。そこに目を落とすと、悪魔の手が泉子の手を拾い、まるで大切なもののようにゆっくりと持ち上げるところだった。
 悪魔はわずかに身を屈め、泉子の手に、人差し指と中指の関節のあたりに口づけた。
「これでいい」
「……これだけ?」
 拍子抜けしたように問い返しながら、それでも泉子は体が熱くなるのを無視できなかった。誰かの唇を肌に触れさせたのが何年ぶりだったか、もう思い出せない。
「充分だ。これでそなたの身には魔力が備わった。わずかだが、他人に小さな災いを与えることはできる」
「小さな、って、どのくらい?」
「命に関わることはできない。再起不能になるような害を及ぼすのも無理だ。まあ、ほんの一時、不愉快な思いをさせる程度だな」
 悪魔の手が離れた自分の指を、泉子ははじめて見るように見つめた。ここに口づけされた、たったそれだけのことで、自分は人を傷つける力を手に入れたのか。体がまだ少し熱いことの他は何も変わったように思えないのに。
 視線を上げ、見慣れた部屋を見まわしてみたが、今ここにいるのは自分と悪魔だけだ。試してみようにも、その相手がいない。
「言っておくが、悪魔が与えた魔力は悪魔には効かないぞ」
 うっすら考えていたことを見抜かれたのか、悪魔が挑発するように言った。
「急いで使ってしまうこともない。今日はよく考えて、明日にでも他人のいる場所で試してみたらどうだ」
「私、明日も仕事は休みなんだけど」
「ならば明後日でもいいし、なんなら数日後、いや数週間後でもいいぞ」
 悪魔は優しそうに見えなくもない笑顔で、ゆったりと鷹揚に話した。
「いくらでも待ってやる。俺はこう見えて一途な悪魔だからな」


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