Sasha [ 2−8−2 ]
Sasha 第二部

第八章 答え(2)
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 出立は早朝。
 それまでに現れなかったら、もう会えない。

「では、伯父上はこのまま都にはいらっしゃらないのですか?」
 朝のシーアは、珍しく明るい青空だった。雪が朝日を浴びて輝いている。空気は冷たいが、風がないのでそれほど寒くなかった。
 城門の内側で馬車の準備を待つ間、サーシャたちは外に立って話していた。
「あいにく、地元の仕事が残っておりまして。お送りできずに申し訳ありません」
「そんな。お忙しいときにご迷惑をおかけしたのはわたしのほうです」
「即位式までには再び伺わせていただきます。帰り道は、代わりの護衛を頼みましたので」
 サーシャが首を傾げると、伯父の隣でイヴァンが顔を出した。
「都まで来てくれるの?」
「ああ。昔の仕事の仕上げもあるしな」
 彼はパイプを弄びながら言う。
「本当なら、イリヤさんが来てくれれば一番いいんですけどね」
 マリアの発言に、近くにいた数人の侍女の肩が跳ね上がった。取り繕うように、彼女たちは皇女を見る。サーシャは気にしないで、と言うように微笑んだ。
 出立の準備を始めてから、無邪気なマリアを除いて全員がその名を禁句にしているようだった。もうこの国を出ようと言うのに、イリヤは一向に姿を現さないからだ。
 気を遣ってくれるのはありがたいが、当のサーシャには禁句も何もなかった。
 自分にできるのは、待つことだけだ。
 タチアナと摂政の一派が見送りに来たときも、イリヤはいなかった。出立の時間は知っているはずだ。
 旅に出る前の自分だったら、落ち着きをなくしていただろう。だが、今は騒ぐことなく答えを待っていられる。
「イヴァン殿、一つだけ聞いていい?」
「どうぞ、皇女さん」
 彼はどこか遠くを見ながら受け流した。
「どうしてわたしを人質に取ったりしたの? 神殿に遺産がないことは知っていたのでしょう? 第一、新女王派に協力する理由がないし」
「……ちょっと試してやろうと思ってね」
「誰を?」
「手放すと言っておきながら助けに来やがって。頭のいい馬鹿は一番たちが悪いな。自覚してるから尚更救い様がない」
 イヴァンは答えるというより、独り言のように長々と呟いた。
 サーシャは首を傾ける。言っていることがよくわからない。
「もう一つ聞いていい?」
「お好きに」
「あなたおいくつ?」
「あんたの父上より十は若い」
 無精髭の商人は、抑揚なく言い捨てた。
「皇女さま」
 マリアが声をかけた。
「荷積みが終わりました。馬車の準備もできてます」
「ありがとう」
 出立だ。
 自分でも驚くほど、サーシャは落ち着いていた。
「忘れ物はないわね?」
 馬車に乗る前に、マリアに聞く。
 パヴェル公とイヴァンは既に前の馬車に同乗し、数人の侍女と従者も別の車にまとめて乗った。あとは、サーシャとマリアだけだ。
 サーシャは座席に入るため、馬車の扉に手をかけた。そのとき突然、腕をつかまれた。
 顔を上げると、マリアがすぐ側に立っている。彼女は左右を見たあと、耳元に顔を寄せてきた。
「あたしこれから、皇女さまをここに忘れていきます」
「――は?」
「うっかり置いていってしまうんです。決して、わざと置き去りにするんじゃないんですからね」
「意味がわからないのだけど……」
「大丈夫です。ちゃんと送り届けてくれる人がいますから」
 マリアは明るく笑って、馬車のずっと後方を指差した。サーシャはわけがわからないままその先を辿る。
 まばたきも忘れて、目を見開いた。
 凍りついたままマリアに視線を戻すと、彼女は満足そうに頷く。
「いいですか、うっかり忘れていくんですからね?」
 答えられなかった。
 呆然と立ち尽くしているうちに、マリアは一人で馬車に飛び込んだ。
 残されたサーシャは再び、恐る恐る後方を見る。
 雪景色の中に立つ背の高い影。離れていてもわかる穏やかな笑顔。昨日もずっと一緒にいたのに、どういうわけかひどく懐かしい。
 名前を呼ぼうとしたが、声が出なかった。
 代わりに、その人物が口を開く。
「サーシャさま」
 イリヤの声が響いた。
 どちらからともなく歩み寄り、気がつくと、向かい合って立っている。マリアを乗せた馬車は、とっくに行ってしまっていた。
「どうして……」
 やっと振り絞った声を、サーシャはイリヤに向けた。
「こうでもしないと、お話できる暇がありませんでしたから」
「そうじゃなくて……」
 どうしてここにいるの、という言葉の代わりに、両の目から温かいものが溢れ出した。
 見下ろすイリヤの顔から、笑みが消える。
 サーシャはこわごわと、自分の頬に触れた。濡れた指先を見て、自分でも驚く。旅が始まってから、涙など一度も流さなかったのに。何があっても泣かずに乗り越えてきたのに。
 イリヤが気遣うように手を伸ばす。
 その手が届く前に、サーシャは引き寄せられるように彼の胸に身を預けていた。
 時が止まったかと思う瞬間、イリヤの腕が背に回される。神殿から助け出されたときとは違う、包み込むような温かさだった。
 このひとは、ここにいる。
 サーシャの涙は、今度こそ止まらなかった。胸にしがみついて、こみ上げてくるものを抑えようとするほど、とめどなく溢れ出した。肩は震え、息苦いほど胸がつまった。
 あいたかった。
 離れるのがどれほど辛かったか、初めて思い知った。どれほどこのひとを必要としていたか、自分でもやっと気が付いた。
 今このとき初めて、イリヤが側にいるような気がした。
 言いたいことはたくさんあるのに、声は少しも出ない。温かい腕に包まれて、ただ泣き続けることしかできなかった。
 イリヤは何も言わず、サーシャの涙が止まるまで髪を撫でてくれていた。

「これから、どこへ行くの?」
 イリヤの胸に身を寄せたまま、サーシャはやっと言葉を押し出した。
「どこへでも。あなたの行きたいところにお供します」
 腕はサーシャを包んだまま、声がゆっくりと降りてくる。
「一緒に帰れるの?」
「はい」
「皇宮まで、来てくれるの?」
「はい」
「ずっと?」
「はい」
「命令だからじゃなくて?」
 イリヤの手がサーシャを支え、自分から少し離した。涙で曇った目をサーシャはこする。
「わたしが望んで、あなたの側にいたいのです」
 イリヤは微笑んで見下ろしていた。
 サーシャはただ、まばたきを繰り返す。
「皇女は一人の娘として人を愛してはいけないのかと、あなたは聞きました」
 サーシャは小さく首を傾げた。涙が止まった代わりに、心臓が早鐘を打ち始める。まっすぐ見上げて、イリヤの答えを待つ。
「答えは、『いけない』です。個人として生きるには、あなたの立場はまだ弱すぎます」
 俯きかけた、そのとき。イリヤの青い目に視線を捕らえられた。
「でも――よく聞いてください」
 イリヤは念を押すように、サーシャの目の高さまで身を屈めた。
「わたしが側にいる限り、あなたにそれが許されるようにしてみせます。あなたが一人の人として生きられる場所はわたしが守ります」
 サーシャは涙の中で笑い、イリヤの首に抱きついた。



 深雪のシーアとは違い、レストワールの都は雪解けを迎えようとしていた。抜け出した日よりずっと明るくなった皇宮を見回して、サーシャは陽だまりのように微笑む。
 皇女の帰還は、言うまでもなく大騒動に迎えられた。
 宰相には死にそうな顔でお叱りを受け、侍従長には嫌味を言われ、乳母でもある女官長には泣き付かれ、侍女たちには何があったのかさんざん聞き込まれた。
 彼らが最も驚いたのは、皇女の隣に、姿を消したはずの従者がいたことである。
 だが人々の不満と興味は、現皇帝の一声によって鎮められた。サーシャの父は自らの前に、娘とその従者を呼び出したのである。
「父上、ご心配をおかけしました」
 沈黙に耐え切れなくなって、サーシャは深く礼をした。皇帝は口を閉ざし表情も閉ざし、前に立った二人を見比べている。
「本当にごめんなさい。でもわたし、無事でした。もうこんな騒ぎは二度と起こしません」
「皇女殿下がこのようなことをなさったのはわたしの責任です。裁きはわたしに」
「当然だ」
 隣で頭を下げたイリヤに、皇帝の重い声がかけられる。
「そなたには再び、皇女誘拐罪の疑いがかけられている」
 一瞬まばたきした後、サーシャはイリヤと目を見合わせた。
「事実だな?」
 皇帝は有無を言わせない口調で聞く。
「はい」
「――違います!」
 サーシャは慌てて打ち消した。
 だが父は、恐ろしく鋭い目でイリヤを睨んでいる。
「一年前と同じ手口を使ったか」
「え?」
「皇女を連れて行って、あろうことか計画の主謀者に担いだ。そういうことか。おかげでシーア王国との同盟も決まった」
 サーシャは固まったまま、隣のイリヤを見上げた。彼は穏やかに笑って皇帝に頷いている。わかっていて言ったのかと内心毒づいたとき、
「アレクサンドラ」
 父に呼ばれ、慌てて顔を上げた。
「そなたは知っていたのだな?」
「はい」
 サーシャは頷きながら明るく笑う。イリヤを見上げると、彼も振り返って微笑んだ。
「こんな計画はもう最後にするように」
 皇帝は肩をすくめて言った。諦めたような口調だったが、目はまだ何か言いたげにイリヤを睨んでいた。
「……アレクサンドラ、部屋に戻れ。式までもう日がない。これから休む間もなく準備に追われるぞ」

 父の言った通りだった。
 帰国してから即位式までの十日足らず、サーシャは眠る時間も削って走り回ることになった。一月かけて準備するはずだったものを、半分以下の日数に減らしてしまったのだから当然だ。
 式場を何度も訪れ、祝賀に来る使者たちを迎え、衣装を合わせ、儀式の段取りを覚える。そうやって埋め尽くされてしまった昼間の代わりに、夜は学問を叩き込む。文字通り休む間もなかった。
 そしてそれは、即位式当日を迎えた朝まで続いた。

「殿下、お願いです。あと髪飾りを一つだけ」
「いやだったら! これでも多すぎるくらいなのに」
 きらびやかな宝石を差し出す侍女から、サーシャは手で頭を守る。鳶色の長い髪は器用に編み込まれ、柔らかな絹の紐でまとめられていた。
 華奢な身体を包むのは、落ち着いた(あかがね)色の衣装。袖は手首まで隠し、細身の裳はかかとまで届く、質素な礼服だ。胸には金細工の付いた長い首飾りをかけられ、耳元でも小さな石が輝いている。
「物足りなさ過ぎますわ。こんなおめでたい式典なのに」
 付け損ねた装飾品を持て余しながら、侍女たちは口をそろえる。
「そうですよ。耳飾りだってもっと華やかなのにすれば、殿下の鳶色の髪にそれは映えますわ」
「十六歳の新女帝陛下を見るのを楽しみにして、国中から民がやって来ているんですよ」
 サーシャは苦笑した。
 皇子を演じていたころは、姫君らしいきらびやかな服にそれは憧れていた。だが実際に着てみると落ち着かなくて仕方ない。贅沢なものだ。
「即位式はお祭りじゃないのよ。婚礼とは違うのだから、着飾る必要なんてないでしょう」
「じゃあ婚礼のときには、盛大に飾らせてくれるんですね」
 側でマリアが言うと、侍女たちは色めきたった。好奇と期待のまなざしに囲まれて、サーシャの頬は薄く染まる。
「そ、そんなこと言ってない」
「期待してますわ」
「お決まりのときは教えてくださいませね」
 若い侍女たちは口々に言う。
 扉の前にいた一番幼い少女が持ってきた知らせに、彼女たちの興奮は頂点に達した。
「ご入場のお時間ですが」
 一礼して入ってきたイリヤは、妙に沸き立つ侍女たちを不思議そうに眺める。
「……どうかされましたか?」
「なんでもないの。気にしないで」
 顔の端まで真っ赤になりながら、サーシャは立ち上がった。

 レストワール歴代皇帝の即位式は、皇宮の正面にあるバルコニーで行われる。
 この日、雪が解けた広大な庭園は、式を一目見ようと帝国中から押しかけた人々で埋め尽くされていた。バルコニーにサーシャが立つと、空に響くような歓声が沸き上がる。
 サーシャは手すりから顔を出し、友人にそうするように手を振った。一人一人の明るい笑顔が見え、優しい言葉が聞こえる。高い空は、早くも春を思わせる澄んだ青だった。
 やがて名を呼ばれ、バルコニーを振り返る。中央に立つ父帝の前まで歩き、膝を着いた。
「アレクサンドラ・オルシア・レストワール」
 皇帝の声に、庭のざわめきも静まり返る。
「地上を永久(とわ)に統べる皇帝アレクサンドル一世の御名において、女帝(オルス・メア)の称号を与える」
 皇帝は傍らに置いた冠を取り、サーシャの頭上にかざした。鳶色の髪にそれが載せられた瞬間、庭園が、皇宮中が再び沸く。
 第五代レストワール皇帝、アレクサンドラ一世即位。
 皇冠を戴いたサーシャは再び手すりに走り寄り、歓声で迎える人々に笑顔を向けた。



 即位式は、戴冠の儀式だけで終わらない。むしろ、その後夜まで続く祝宴のほうがはるかに長い。
 十六歳の新帝アレクサンドラ一世は、明るい色の衣装を纏って賓客の一人一人に受け答えしていた。
 おっとりと可愛らしいだけに見えた少女は、舌をまくほど回転の速い利発さを備えている。人の話に傾ける耳と、すべてを呑み込んで自分のものにしてしまう深い瞳。鳶色の髪も肩まで伸びて、美しくなったという声もあちこちを飛び交った。
 だが、夜も更けて皇宮の上を月が横切るころ。少女帝の姿は、人々の知らぬ間に会場から消えていた。

 澄みきった冷たい空気の中、サーシャは音を立てぬよう足を動かす。
 回廊を経て、人気のない中庭へ。
 思った通り、先客がいた。
「こんなところで、何をしているの?」
 歩み寄りながら聞く。
「女帝陛下こそ、宴はどうされました?」
 噴水の向こうで振り返りながら、イリヤが聞き返した。サーシャは小走りになって、彼の隣に行く。
「こんなところに来ると、またさらわれますよ」
「衣装で疲れたの。少し休ませて」
 サーシャは言って、重かった首飾りを外した。
 雪は解けたとはいえ、まだ冬は終わっていない。夜は身が張り詰めるような寒さだ。空を仰ぐと、澱みない藍の中で冴えた星が輝いている。
 二人はしばらく黙って、ただ並んで空を見上げていた。そのうちに落ち着かなくなって、サーシャはこっそり隣のイリヤを見上げる。
(良かった。ここにいる)
 確かめるのは何度目だろう。未だに夢ではないかと思ってしまうのだ。彼が隣にいることも、一緒に帰ってきたことも。シーアで聞いた答えも、包んでくれた腕の温かさも。
 でもこうやって、顔を見ていれば安心する。もう距離は感じない。このひとは今、確かに、サーシャの隣に立っている。
「ご即位おめでとうございます」
 突然、イリヤが言った。顔を向けられて、サーシャはちょっと驚く。
「ありがとう」
「これからが大変ですね」
「そうね。がんばるから、助けてね」
「はい。とりあえずわたしも、実績を作って少しは昇格しないと」
 そぐわない単語に、サーシャは首を傾げた。
「どうして?」
「さすがに一介の従者では、皇――いえ、上皇陛下に申し出られませんから」
「……何を?」
「あなたのご息女と、一緒に生きさせてくださいということです」
 一瞬、固まったあと。
 サーシャは背伸びしてイリヤに飛びついた。
「……こんな場面(ところ)を誰かに見られたら、わたしは昇格どころか極刑になりますよ」
 言葉とは裏腹に、抱きとめてくれる手は限りなく優しい。サーシャはその胸に頬を寄せ、自然に微笑みながら呟いた。
「ありがとう」
 包みこむ腕も、温かい手も、伝わってくる鼓動も、何もかもが嬉しくて心地良い。
「……それはわたしの言うことです」
 降りてきた声に顔を上げる。
 そしてそのまま、唇が重なる。

「生涯かけて、あなたの側にいます。サーシャさま」

 同じ誓いが大聖堂で交わされて、民の祝福を受けるのは、もう少し先のことである。



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