Sasha [ 2−8−1 ]
Sasha 第二部

第八章 答え(1)
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「いつから、気付いていた?」
 イヴァンがサーシャに聞いたのは、あらゆることが片付いた後だった。
 神殿の火事はやはり、ウラジミル大臣の手によるものと判明した。裏の抜け道から侵入し、迷宮の入り口で火を点けたらしい。石造の神殿に火が回りやすいよう、古い布まで敷き詰めてあったという。
 大臣と直接手を下した犯人は、摂政によって拘束された。
 神殿は入り口の扉が焼け落ちる程度で済んだが、迷宮に充満した煙を換気するにはかなりの時間を要した。
 その間、サーシャはマリアに引きずられて王城に戻り、煙で汚れた服をかえて休まされた。
 伝書鳩は保護され、怪我がないことを確かめられた。今は大きな籠に入り、サーシャの前に置かれている。
 部屋には摂政とイリヤはもちろん、タチアナも強引に同行していた。ニコライを含む摂政の重臣たちもそろい、パヴェル公も立ち会う。
 そしてイヴァンが聞くと、サーシャは落ち着いて答えた。
「伯父上に鳩のことをお聞きしたとき、まさかと思ったの。でも遺産は神殿にあると誰もが言っていたから、すぐには結びつかなかった。確信したのは、煙の中でこの子が道を案内してくれたときよ」
「なぜ、これだとお思いになったのです?」
 セルゲイが聞くと、サーシャは鳩を見た。
「考えたのです。女王陛下がなぜ、こんな形でご遺言を残されたのか」
 全員がサーシャの視線を追う。
「政権の行方を決めるだけなら、遺産は何でも良かったはずです。でも陛下はもしかして、遺産を見つけると同時に何かを汲み取ってほしかったのかと」
「何かとは?」
「陛下がこの鳩を残されたのは、本当は政権の行方のためではないのではないかと思ったのです」
 サーシャは顔を上げた。
「ご自分の亡くなられた後この国はどうなるのかと、陛下も憂えておられたでしょう。できれば乱れることなく、平和に続いていってほしい。政権を争って国が割れることなどないように。この鳩が、政権争いの道具などではなく、大切な方々への形見であるように――。そんな願いを込めて、残されたのではないでしょうか」
 全員がサーシャの言葉に聞き入り、鳩を見つめた。鳩は何も知らぬ顔で首を傾げるばかり。
 厚い翼が羽ばたくと同時に、セルゲイが口を開いた。
「先程、書簡室で陛下の遺言が見つかった」
 その手元には、浅い木箱に入れられた一枚の書状があった。
「確かに、ソフィア陛下の印章がある。帝国の使者の署名も――イヴァン殿、確認を」
 箱ごと遺言状が手渡され、イヴァンは細い黒目を走らせる。頷いて、セルゲイに返した。
「遺産を見出した者に政権を委ねると、確かに書いてある」
 セルゲイは書状を見つめ、俯きがちに言った。
「だが陛下は、これが使われないことを祈っておられたのだな」
 部屋中に、深い沈黙が広がった。誰もが書状を見つめ、鳩を見つめる。
 サーシャも鳩に見入りながら、密かに思った。
 女王ソフィアが残した最初で最後の意志。神と政事と運命に翻弄されながらも、彼女は人形ではなかった。
 おそらくソフィアの名は、歴史には残らないだろう。シーアの女王は神に近しい存在とされるため、個人的な情報は一切記録されないという。
(でも、わたしは覚えている)
 シーア王国の最後の女王。
 そしてサーシャは、レストワール帝国の最初の女帝。
 湖水の瞳をした若き女王の意思は、きっと引き継いでみせる。
「――ともあれ、遺産が見つけられた以上」
 セルゲイの声が沈黙を破り、サーシャに顔を上げさせた。
「シーアの政権はたった今、アレクサンドラ皇女殿下の手に委ねられたことになる」
 サーシャは小さく口を開け、二、三度まばたきをした。セルゲイは無表情でサーシャを見ている。決意一色だった意識が、いきなり現実に引き戻された。
「あの、わたしそんなつもりは」
「女王陛下のご遺言です」
「でも見つけたというより、この子が遺産だと気付いただけです」
「それで充分じゃないかね」
 イヴァンが口を挟む。
「女王の遺産だけでなく、“遺志”まで汲み取ったのは間違いなくあんただけだ」
 サーシャは目を見開き、再びセルゲイを見た。相変わらず表情を動かさない。
 タチアナは腕を組み、ただ肩をすくめている。
 そしてイリヤを見る。目が合うと、彼はそれとわからない程度に微笑んで、頷いた。
「お受けいただけますか」
 呆然としていたサーシャは、セルゲイの声に引き戻される。
 だが数秒黙った後、ゆっくりと首を振った。
「わたしは自分の国だけで精一杯です」
「しかし」
「摂政殿、この国はあなたが引き続き治めてください。そして同盟国として、わたしを助けていただけませんか」
 セルゲイの目が微かに動いた。
「一年前に領主の謀反が発覚して以来、レストワールには北の要がありません。隣国であるシーアと国交を取り戻せたら、この上なく心強い盟友になります」
「そう易々と手放してしまってよろしいのですか? 小国とはいえ一国の領土を」
「レストワールは十二分に大きくなりました。わたしの役目はこれ以上国を広げることではなく、今の国を守っていくことです」
 サーシャが言い切ると、重臣たちが顔を見合わせた。セルゲイは表情こそ変わらないが、しばらく言葉を返してこない。
 沈黙を破ったのは、別の声だった。
「あたしに聞きなさいよ。シーアのこれからを考えるのはあたしだと言ったでしょ」
 全員がタチアナを見る。彼女はサーシャを見下ろし、青い目を細めた。
「本当に大変なのはこれからよ」
 タチアナは続けた。
「シーアの民が帝国を憎む気持ちは、まだ何も解決していない。百年途絶えた国交を取り戻すには、百年では足りないかも知れないわ」
「わたしは、わたしにできることをするだけです」
 タチアナはふと視線を留める。サーシャが頷くと、彼女もそれに習った。
「いいわ。あたしはあたしの国を守る。あなたはあなたの国を守るのね」
「はい」
「協力しましょう。次期女帝陛下」
 白い手が差し出される。
 サーシャも同じく差し出し、しっかりと握り合った。

 会議は無事に終わり、全員が部屋から立ち退き始めた。外で聞いていたらしいマリアが入ってきて、サーシャと手を取り合う。
 サーシャは、書類をまとめるセルゲイに歩み寄った。
「長い間、お邪魔して申し訳ありませんでした。自国に帰らせていただきます」
 マリアが隣で何か言いかけたが、セルゲイの声に打ち切られた。
「今日はもう遅い。冬の夜に出発は無理でしょう」
「そうですね。もう一晩だけ、お世話にならせていただけますか」
「もちろんです」
 セルゲイは頷き、ふと目を細めた。
「即位式には――私は無理かも知れませんが、名代を送らせていただきます」
「ありがとうございます」
「皇帝陛下と、亡き皇后陛下によろしくお伝えください」
 セルゲイは淡々と言い、頭を下げた。サーシャも礼を返す。
 顔を上げると、セルゲイは既に背を向けていた。
 後に続くイリヤが、一瞬だけこちらを見る。サーシャは自然と微笑んだ。イリヤも微笑み返してくれた。それきり、すぐに部屋を出て行った。
「――皇女さま」
 マリアがおずおずと声をかけてくる。
「あの、明日帰るんですか? イリヤさんは……」
 サーシャは再び微笑んだ。
「わからない。本人が決めるでしょう」
「でも」
「騒がせておいてごめんね。でもわたしはもう、あのひとの答えを待つだけなの」
 無事でいてくれたら何もいらない。その後、イリヤがどんな答えを出しても受け入れられる。
 サーシャの左手は無意識のうちに、右手の甲を包んでいた。



 ドアの開く音を聞いて、タチアナは顔を上げた。
 外はもう暗い。吹雪は静まり、木枯らしの鳴く声が響くだけだ。
 不寝番の女官しか起きていない時間だったが、タチアナは父と議論を続けていた。シーアのこれからのこと。政権の立て直しと、女人禁制の撤廃から始めるべきだと話していたころだ。
 イリヤが番兵も介さずに部屋に現れた。
「先程、奥方にご挨拶をしてきました」
 彼が何を言いに来たのかはわかっていたが、タチアナは黙って耳を傾ける。
「明日の朝、ここを出ます」
 短く言い切ると、イリヤは少し表情を和らげた。
「それだけご報告に来ました。夜遅くに申し訳ありません」
「うそつき」
 タチアナの口から、鋭い言葉が飛び出した。
「もう出て行ったりしないって言ったくせに」
「そうですね。偽りになってしまいました。本当に申し訳ありません」
 涙が出そうな気がして、タチアナは唇を噛み締めた。だが、視界が曇ることはなかった。
 ただ黙って、摂政に向き合っているイリヤを見つめる。
「十一年間とこの数日間、本当にありがとうございました」
「私は、そなたを利用しようとしていたのだ」
「はい。教育していただいたのに、思い通りに育たず申し訳ありません」
 タチアナは改めてイリヤを見た。本気で言っているらしい。
 セルゲイも少し目を開いたが、やがて言った。
「私はつまり、異国の他人の役に立つ人材をわざわざ育てていたのだな」
「そのようですね」
「あの皇女を君主の道に進ませたのは、そなたか」
 セルゲイは肩をすくめた。
「見込み違いだ。君主は信念だけでは立っていられない。あの純粋すぎる姫では、すぐに現実の波に呑まれて倒れてしまう」
「支える者がいれば、あの方は信念で立って歩いていけます」
 二人は視線を繋げたまま、口を閉ざした。タチアナは黙って見つめていたが、父と若者が何を考えているのかは読み取れなかった。
 やがて先に動いたのは、イリヤだった。
「それだけです。失礼致しました」
 セルゲイは穏やかに頷くだけ。
 イリヤは背を向けると、入ってきた扉に向かって歩き出した。
 タチアナは弾かれたように立ち上がる。
 扉の向こうで、イリヤが振り向いた。走り寄ると、彼は微かに笑みを浮かべた。驚くほど大人びた表情だった。
 本当に行ってしまう。その実感が、タチアナの胸を貫いた。いや、もう行ってしまったのだ。幼いころ、夢の傍らにいつも立っていた少年は、遠くの険しい現実の中に消えてしまった。
 だが、泣いて引き止める気はもうなかった。
「……あたしは一人でもこの国を守っていける」
 イリヤの表情が微かに動いた。
「でも、あの世間知らずで馬鹿正直で、そのくせ信念だけは一人前で無鉄砲なお姫さまは、あなたでも付けておいてあげなくちゃ危なっかしくて見ていられないわ」
 負け惜しみではない。イリヤがいなくても、一人でこの国を守れる。それを気付かせたのがあの皇女の言葉だったというのは、少し悔しいけれど。
 張り詰めた視線を送るタチアナの前で、イリヤは突然笑い出した。
「何よ」
「相変わらずですね」
 改めてタチアナを見ると、彼は言った。
「あなたなら大丈夫です。ずっとそのままでいてください」
 一転して明るくなった青い目を見て、タチアナの胸を別の思いが締め上げた。
 行ってしまう。それは単に、タチアナの側を離れていくということではない。
「……もう少し強かで賢い人だと思っていた」
 タチアナは言った。
「あんなお姫さまに仕えたら、絶対に長生きできないわよ。女帝の伴侶なんて、皇帝の后の何十倍も苦労するに決まってるわ」
「そうですね」
 血の繋がらない兄は、穏やかに答えた。
「でも、引き返せないようです」
 どうしてこんなに明るいのか。引き返せないのは状況ではなく、自身の気持ちの問題だろう。自覚して受け入れてしまった今だから。それがわかりすぎて恨めしい。
「……元気でね」
「あなたも」


 同じころ、王城の奥の塔の一室で、サーシャはシーアで見る最後の月を眺めていた。
 即位式まであと十七日。
 答えはまだ、聞いていない。


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