Sasha [ 2−7−3 ]
Sasha 第二部

第七章 女王の遺産(3)
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 サーシャを抱き寄せたまま飛び退くと、剣が紙一重ですり抜けていった。切っ先が石の壁にぶつかって音を立てる。
「――やめて!」
 腕の中でサーシャが叫んだ。振り向くと、三人目の兵士が斬りかかって来る。剣でなぎ払う。
「サーシャさま、下がってください」
「いやよ」
「危険です」
「あなただって!」
 短い会話の間に、兵士が再び襲いかかる。サーシャはイリヤの腕から逃れ、手を広げた。
「やめて。殺さないで!」
 老兵の動きがぴたりと止まった。もう一人と剣を交えていたイヴァンも、手を止めてこちらを向く。辺りに静寂が落ちた。
「おまえは、帝国の皇女だな」
 老兵が剣を構えたまま言った。
「退いてくれ。我々は帝国の血に用がある」
「だめです。このひとは殺させません」
 イリヤは止めるのも忘れ、サーシャの背に見入った。
 細い身体を盾にして立っている少女。剣で払えば簡単に倒れるだろう。だがその姿には、弱々しさは微塵もなかった。
 腕を広げ、瞳を持ち上げ、何の武器も持たず兵士と向き合っている。
 まるでその存在自体が盾であるかのように、誰の剣も声も近付けさせない。
「武器を下ろしてください。このひとを傷付けないで」
「なぜおまえが、その男を庇う?」
「わたしの臣下です」
「一人の臣下のために、皇女が命を投げ出すのか?」
「皇女だから、わたしはこのひとを守らなければなりません」
 イリヤは刺された後のように呆然とした。
 サーシャの後ろ姿は少しも動かない。
 イヴァンも、その前にいる兵士も、先程押し伏せた二人も、時が止まったように立ち尽くしている。
 サーシャの前に立つ兵士が、イリヤを見た。驚きと憎しみがせめぎ合い、戸惑うような視線が向けられる。
「我々は、この男が許せない」
 静かに語る老兵の声は、歳月の重みを含んでいる。
「帝国の血が――いや、それを受け入れた女王が」
 おそらく、これが真実にシーアを愛した者の言葉なのだろう。帝国の人間に憎しみをぶつけながらも、最も憎いのは最後の女王。神を信じた彼らにとって、女王のしたことは裏切りに値する。
「あなたがたの恨みはわたしが受けます」
 全員が引き寄せられるようにサーシャを見た。
「わたしはレストワールの次期女帝。シーアを追い詰めた歴代皇帝の血を引いています」
「父祖の功績を、どうやって償う気だ」
「隣国としてシーアと助け合います」
 サーシャは言った。
「だからお願い、このひとを殺さないで」
 広げられた腕がいっそう張り詰める。
 老兵は捕らえられたように、サーシャを見つめていた。
 気の遠くなるような沈黙が続く。
 やがて、老兵の腕が動いた。全員が見入る中、手にした剣を下ろして鞘に収める。
「レストワールの皇女」
 凍りついた時間を溶かすように、彼は言った。
「あなたが人形でないことを、見せてもらう」
 その言葉を境に、他の三人の兵士も剣を下げる。
 彼らは一人ずつイリヤに視線を残すと、入ってきた空洞から階段を下りていった。
 広げていたサーシャの腕が落ちる。
 と同時に、イリヤはその肩に手をかけ、力ずくで振り向かせた。
「お怪我は?」
 サーシャは目を丸くして首を振った。
「どういうおつもりですか」
 驚くほど低い声が響く。
「間違えれば殺されるところでした。どれほど危険なことをしたか、あなたは――」
「わたしにも心配させて!」
 突然弾かれた細い声に、イリヤは言葉を止めた。手をかけたサーシャの肩が震えている。
「どういうつもりかって? あなたを助けたかったに決まってるじゃない。何なの、自分が殺されかけていたくせに、わたしの心配ばかりして」
「サーシャさ」
「わたしにだって、あなたを案じる権利があるはずよ」
 まくし立てて少し息を切らすと、サーシャはふっと表情を緩めた。肩に置かれたイリヤの手に、自分の手を重ねる。
「無事で良かった」
 イリヤは重ねられた手をただ見つめた。冬の空気のため指先は冷たいが、その意思が込められているように重い。
 離そうとすると、思わぬ方向から声がした。
「あー……悪いがね、一言だけ言わせてくれ」
 二人は同時に振り向く。
 イヴァンの姿を見つけたサーシャは、即座に手を離した。頬がみるみる染まっていく。
「い――いたの?」
「ひどい言い草だな」
「新女王派は神殿から手を引いたわ。だからあなたも諦めて。――あの、遺産は?」
 恥ずかしさと焦りで混乱しながら、サーシャはようやく我に返ったようだった。
「遺産はここじゃないよ、皇女さん」
「え?」
「だからゆっくり見つめ合ってもらって構わんがね。おれが出て行ってからにしてくれ。見ているほうが恥ずかしい」
 言葉とは逆に、相変わらずの無表情でイヴァンは言った。サーシャは彼とイリヤを何度も見比べ、紫の目を丸くしている。
 イヴァンは肩をすくめ、階段を下りていった。
「あの、どういうこと? 遺産は? イヴァン殿は手を引いたの?」
「大丈夫です。あの人は、女王の遺言を預かった者ですから」
 サーシャの目が見開く。
 二人の間に、不用意な沈黙が訪れた。サーシャはいたたまれなさげに俯いている。
「どうして来たのですか?」
 先に波を立てたのは、イリヤだった。
 助けたかったと、つい先程サーシャは言った。
 だが今だけではない。何度距離を置こうとしても、サーシャは無鉄砲に追ってきた。自らの危険も構わずに。
「どうして出て行ったの?」
 答える前に聞き返された。
「わたしのためだと思うのは、うぬぼれている?」
 答えられなかった。しかし否定もできない。
 枷になるくらいなら、離れようと思った。
 返さなければならなかった皇女。従者になっても、長くは側にいられない。今までもそうだったように。
 永遠にただ一人の側にいることなど有り得ない。
 何を失うのも怖くはない。
 誰とも深く関わらずに生きていくのだと、そう思っていた。
「わたしは皇后陛下の親族です」
「ええ」
「しかも、実母は父の正妻ではない」
「そうね」
祖国(シーア)の事情からも解放されていません」
「そうね」
「皇女が一人の従者に深入りしていると、皇宮内でも噂されています」
「そう」
「皇帝陛下はお気の早い勘違いをされているようですし」
「そうみたいね」
「ご縁談が進まないと、重臣方もお困りです」
「そうね」
「これだけそろっても、離れるより側にいたほうがあなたのためですか?」
 身をかがめ、皇女の顔を覗き込む。サーシャは強く見開いた目を持ち上げた。
「勝手に決めないで」
 細いが、しっかりとした声が響き渡る。
「ためになるかならないかは、わたしが決めることよ。何が支えになって、何が枷になるのか。何が必要で、何がそうでないのかも」
 サーシャは一段と声を高めた。
「あなたは、必要なの」
 イリヤの目が見開くと同時に、サーシャの頬に赤みが広がった。だが表情だけは変えず、紫の目をしっかりと向けて先を続ける。
「従者一人のせいで立場が悪くなるなんて、わたしをその程度の女帝だと思っているの? 甘く見ないで。周りが何を言おうと、自分とあなた一人くらいちゃんと守れます。そのくらいできなくて、何が女帝なの」
 言い切ると、サーシャは唇を結んだ。紫の瞳はまだあどけないが、しっかりとした意思を宿している。
 初めて会ったときから一年間。自分の存在を見つけ出せずにいた、十五歳の少女はもういない。これからもこの皇女は変わり続けてゆくのだろう。強く頼もしく、だが危なっかしいほどの純粋さは残したまま。
 自分の表情が和らいだのを、イリヤは感じた。それに気付いて目を丸くするサーシャに微笑み、右手を取る。
「あなたには、適いません」
 持ち上げた細い手を大切に掲げ、イリヤはその甲に、そっと唇を当てた。



「無事かしら」
 タチアナは先程から、一定の間隔でそう呟いている。
「もう一時間近く経つんじゃない?」
「まだ半時間も経ってない」
 ニコライが隣で言った。
「心配するな。イリヤは殺しても死なない」
「そんなわけないでしょ」
「大丈夫。二人は絶対に戻ってきます」
 はっきりそう言ったのはマリアだった。落ち着かないタチアナと違い、神殿の前でしっかりと立っている。
 この確信は経験から来るものなのだろう。マリアが見ていた一年前の二人を、タチアナは知らない。悔しかったが、今は経験者の証言にすがるしかなかった。
 群がっていた兵士たちは次第に散り始め、ウラジミル大臣の姿も既になかった。神殿の周りにいるのは三人の他、摂政がよこした数人の兵だけだ。
 サーシャが中に入ってから半時間ほど。無事に迷宮を辿れたかも、イリヤの安否もわからない。こうして立っている以外にできることはなかった。
「――おい」
 突然顔を上げたニコライが、低い声で言う。
「どうしたの? 何――」
 聞きながら視線を辿ったタチアナは、そのまま凍りついた。
 神殿の上、正確には裏側からどす黒い雲が伸びている。いや、雲ではない。空に襲い掛かるように登っていくそれは――煙だ。
「神殿が燃えてるの!?」
 マリアが叫ぶと同時に、ニコライが駆け出した。タチアナも慌てて後を追う。
 煙は湧き出るように広がり、刻々と空を覆い始めていた。

「どうしたの」
 突然顔を上げたイリヤに、サーシャは聞いた。窓の側まで歩き、振り返った彼は即座に答えた。
「火が出ています」
「え?」
「早く出ましょう。来てください」
「火って? 神殿が?」
 足早に歩き出したイリヤを追いかける。
「新女王派が何かしたの?」
「わかりません。とにかくここを出ないと」
 イリヤは出口に立つと、階段に促した。わけがわからないまま下りる。
 二階にはまだ、火も煙も届いていないようだった。一階まで下りると、イリヤが前に立って言う。
「一番近い抜け道を使います。付いてきてください」
 頷こうとした瞬間。
 頭の中で、鋭い光が閃いた。
「待って」
「サーシャさま?」
「伝書鳩がいない! 一緒に上まで来たのに!」

 神殿の二階は環状の廊下が続き、規則正しく扉が並んでいた。サーシャはその間を駆け、灰色の翼を探し求める。
「二階にはいないわ。下かも知れない」
「迷宮ですか?」
「だって最上階にはいなかった。まだ逃げていないなら、下しかないわ」
 サーシャは走り、石の階段を駆け下りた。一階に続く扉に手をかける。
「待ってください!」
 追ってきたイリヤが叫んだが、既に扉は開いた。同時に黒い煙が視界を遮り、顔面を襲う。イリヤの手で煙の渦から引き出されたサーシャは、激しく咳き込んだ。
「鳩は諦めてください。早く出ないと」
「だめよ」
 かすれた声で言い返す。
 扉に向き合い、深く息を吸い込むと、煙の中に飛び込んだ。
「サーシャさま!」
 イリヤがすぐに追ってくる。
 右も左もわからない煙の中、サーシャは迷宮の壁にぶつかった。顔を上げ、狭い空間に声を響かせる。
「どこにいるの? お願い、出てきて!」
「サーシャさま」
 イリヤが側に来て、咳き込みながら言った。
「もういいのです。火が回る前に、早く逃げてください」
「だめ! だってあの子は――」
 言いかけたサーシャの視界に、黒いものが横切った。
 顔を上げ、天井と壁の境を見る。翼をはためかせて二人の側を通り過ぎたのは、間違いなくあの鳩だ。
 サーシャがほっとした瞬間、鳩は床に降り立った。二人を見て、小さく羽を広げる。
「案内してくれるの?」
 呟き終わらないうちに、足が床から離れるのをサーシャは感じた。気が付くとイリヤの腕の中に収まっている。慌てて離れようとすると、頭を押さえつけられた。
「走りますから、しっかりつかまってください」
 一瞬、目を見開いたが、おとなしく頷いた。イリヤの首に腕を回す。
「抜け道のほうは火が近いので、表に出ます。なるべく煙を吸わないように」
 もう一度頷く。サーシャは息を止めると、イリヤの肩に顔を(うず)めた。

「タチアナ」
 走ってきたニコライの声に振り向いた。
「火は消えた。イリヤと皇女さまは?」
「まだよ。出てこない」
 タチアナは唇を噛み、神殿の扉を見つめる。
「ひどく燃えてたの?」
「石造だから、火はそんなに回ってない。でも煙が中まで充満してる。あの迷宮じゃ出てくるのは難しいかもしれない」
「……そんな」
 呆然と呟いたときだった。神殿のほうから物音がして、扉が開く。
 二人は同時に顔を上げたが、出てきたのは老けた黒髪の商人だった。
「……おじいさん」
「じいさんは勘弁してくれ。おれはあんたの父上より十は若いんだ」
「嘘ばっかり。それより、イリヤは無事なの? お姫さまは?」
「……まだ中なのかね?」
 イヴァンのほうが目を見開いている。
 荒いため息をついていると、丘に走ってくる人物があった。セルゲイだ。パヴェルも隣にいる。
「タチアナ。神殿が火事だと?」
「火は消したわ。でもイリヤがまだ中なの!」
「皇女さまもです」
 隣でマリアが押し殺した声を出す。
「煙に巻かれたのかも。探しに行くわ!」
「待ちなさい。おまえが危険だ」
「でも!」
 タチアナが声を荒げたとき、イヴァンが急に顔を上げた。全員がその視線の先を辿る。
 開いた神殿の扉から、小さな影が近付いてきた。二つの翼を大きく振って飛んでくるのは、灰色の鳩だ。
 だが一同の目は、その向こうに吸い寄せられていた。扉の前にイリヤが立っている。華奢な皇女を支えるというより、ほとんど抱きかかえるようにして。
「イリヤ!」
 真っ先にタチアナが駆け出した。
 イリヤは降りてくると、雪の上に膝をつく。タチアナが走り寄ると、腕の中の皇女を横にしていた。顔にかかった髪を払う。紫の目は閉じられている。
「大丈夫!? 怪我は?」
「少し気を失っておられるだけです。お怪我はありません」
「だから、あたしが聞いてるのはお姫さまじゃなくて――」
 言いかけたが、途中で止めた。イリヤの視線は抱きかかえた皇女に注がれている。
 タチアナはため息をついた。
 と同時に、サーシャが咳き込み出す。
「サーシャさま?」
「……だい、じょうぶ?」
 涙の滲む目を開けながら、サーシャはイリヤに手を伸ばす。
「大丈夫です」
 イリヤは手を取り、頷いた。サーシャの身をゆっくりと雪の上に降ろす。
 サーシャは背を支えられながら、なんとか立った。
「伝書鳩は?」
「この通りだ」
 イヴァンは歩いてきて、手に止まらせた鳩を差し出す。サーシャはそれをしばらく見つめていた。
 一同が首を傾げると、皇女は顔を上げてイヴァンを見る。
「やっぱり――」
 イヴァンは見返した。イリヤは黙って見つめる。タチアナはまばたきしながら、二人と鳩を見比べている。
「やっぱりこの子が、女王の遺産だったのね」
 イリヤとイヴァンを除く全員が目を見開いたのは、当然のことだ。


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