Sasha [ 2−7−2 ]
Sasha 第二部

第七章 女王の遺産(2)
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「ご無沙汰しております」
 穏やかな声に、セルゲイは頷いた。
 向き合っているのは、濃い茶の髪をした同じ年頃の――それにしては若く見える、レストワールの西方領主だ。
「十数年……いや。もう二十年になりますか」
「奥方はお元気ですか?」
「元気ですよ。娘に負けないほど若い」
 ため息がちに言うセルゲイに、パヴェルは明るく笑う。
 執務室にいるのは、二人だけだった。皇女アレクサンドラに付いてタチアナも去り、今頃は計画でも練っているのだろう。もう実行に移しているかも知れない。数人いた重臣たちは席を外している。パヴェルが訪れて来た時に、セルゲイが下がらせたのだった。
「ありがとうございました」
 パヴェルは不意を突くように言った。
「姪の申し出を、受け入れていただいて」
「……私ではない。お受けしたのは娘です」
「よく、皇女だと信じられましたね」
「薄々気付いていました。お話を聞いて確信したまでです」
 セルゲイは感情のない視線を床に落とす。
「皇太子……今の皇帝陛下とそのご正室の、両方に似ておられる」
 パヴェルは深く頷いた。そして笑う。
「イリヤは、完全にソフィア様に似たようですね」
「幼い頃は生き写しでした。特にあの目の色は、同じ青でも他に類を見ない」
 長い沈黙が流れた。
 二人は向き合ったまま、視線だけお互いから離している。だが、思うことは同じだと気付いていた。
「――恨まれても仕方がない」
 沈黙を破ったのは、セルゲイのほうだった。
「ソフィア様とあなたを引き離しただけでなく、御子まで奪い――あまつさえ、自分の娘婿として世継ぎにしようとまで考えたのだから」
「恨まれるのは私でしょう。他人の婚約者をお慕いしておいて」
 パヴェルが穏やかに言ったが、セルゲイは首を振った。
「女王と摂政の婚約など、ただの共謀です。ソフィア様はお幸せだった。あなたに会えて」
 今度は、パヴェルが首を振る番だった。
「ソフィア様がお幸せだったか否かは、ご本人にしかわかりません」
 長い沈黙の後、二人は目を合わせる。
 先にそらし、立ち上がったのはセルゲイだった。
「懐かしい話は程々にして、現在に戻らなければ。娘に仕事を取られてばかりはいられません」
「お手伝いしましょうか」
「それはありがたい」
 二人は静かに言葉を交わし、部屋を出る。
 向かう先は、中央棟の奥にある書簡室だった。



「兵士は使わないの?」
「武力行使には及びません」
 サーシャは、丘の上にそびえる神殿を見上げて言った。周りはもちろん、そこに至る小道まで、剣を持つ兵士たちが駒のように並んでいる。
 神殿に向かう二人に続くのは、ニコライとマリアだけだ。摂政の私兵はもちろん、帝国から使者に付いてきた数人の兵士たちにも、サーシャは同行を求めなかった。
「摂政殿はこの闘争を、無血で鎮圧したいと仰っていました。わたしも同じ考えです」
「じゃあ、どうやってあれをどかすのよ」
「見ていてください」
 サーシャは落ち着いて微笑んだ。
 新たな気持ちで神殿への道に踏み出す。手前にいた二人の兵士が、剣の柄に手をかけて立ち塞がった。
「通してください。お話があります」
 兵士たちは顔を見合わせると、剣を抜いて交差させる。
「お申し出は聞き入れ兼ねます」
「では、あなたがただけでも聞いてください」
 タチアナが背後で何か言いかけた。
 だがサーシャは振り返ることなく、先を続けた。
「そのままで構いません。少しお聞きしたいことがあるだけです」
 二人の兵士は返答に詰まり、動くこともできず立ち尽くしていた。
「あなたがたが、その剣で守るものは何ですか?」
 静かに聞くと、一人が相方に助けを求め、もう一人が怪訝そうにサーシャを見つめる。
「存在もしない神や、形だけの女王のための剣ですか?」
 サーシャが言うと、二人の目がかっと燃えた。図星を指された人間の目だ。
 あまりにも単刀直入だとわかっていたが、言葉を緩める気はなかった。
「そうではないでしょう? 誇りをかけて守りたいものは、他にあるはずです」
 二人はやや身を引き、背後に続く兵士の列を気にしながらサーシャを見る。
「あなたにはわからない」
 左手に立つ、若い方が口を開いた。
「伝統と誇りしか持たないこの国は、そんなものにすがってしか生きていけないのです。いもしない神とあなたは言うが、平民は神を信じている」
「誰もが口をそろえて白と言えば、黒と言い出せる者はなくなるものね」
「何だと……」
「シーアに神はいません」
 サーシャの声が、動きかけた二人を石にした。
「あなたたちも知っているはず。おそらく民も、知っていて信じることをやめられないのでしょう。シーアに神はいないと、認めてもいいころなのに」
「神を失えば、誰がシーアの民を守れるんだ」
「あなたたちでしょう?」
 サーシャは頬を緩め、心から微笑んだ。
 二人の兵士が複雑に揺れた。一方は俯き、一方はサーシャを見つめて目を細めている。
 彼らの後ろにいた数人も、話に耳を立ててこちらを見つめていた。一人、また一人、歩み寄ってきてサーシャの前に立ち尽くす。
 人だかりと呼べるほどの輪ができたとき、サーシャの声が再び丘に響いた。
「大切なものは、神などに頼っていないで自分の手で守りなさい」

 辿り着くまでには、半時間もかからなかった。
 神殿の前まで歩いていくと、顔色を失ったウラジミル大臣が立っていた。サーシャの隣をタチアナが歩き、ニコライとマリアが後に続く。そしてその後には、神殿を固めていた兵士たちが束になって付き従っていた。
「道を開けてください」
 前に立つと、サーシャは静かに言った。
「どうやって抜け出してきた? いやそれより、どうやってここまで来た!」
「あなたの兵士が通してくれました」
「我が軍に何をした!」
「少し質問をしただけです。彼らが何のために剣を持つのか、答えていただきました」
 大臣の視線がサーシャから離れ、背後に並ぶ兵士の群れの上をさまよった。
「神は何もしてくれない。私たちには、仰ぐ者を選ぶ権利がある」
 彼らの中から声が上がる。
「こ、こんな小娘を選ぶのか? 帝国の魔女だぞ!」
「神を信じなくなった奴が、魔女を信じるか」
 ニコライが呆れたように言う。
「では人形だ。皇座に座って可愛らしく笑っているだけ。実際は何の力もない」
「それはあなたたちの唱える女王でしょ!」
 一段と高い声が上がった。サーシャの隣でタチアナが口を開いたのだ。
「人形はこのお姫さまじゃなくて、シーアの女王よ。いいえ、女王が悪いんじゃない。あなたたちがソフィア女王を、歴代の女王を都合のいい人形にしてきたのよ。この上また、お人形を増やしてどうする気なの!」
 弾かれたように下がる大臣に、サーシャは歩み寄る。
「道を開けてください。イリヤと遺産を助け出さなければ」
「……そうか。あの男がお前を逃がしたのだな。帝国の血め、やはり遺産を奪うつもりで――」
「ウラジミル殿」
 サーシャの声が、ぴしゃりと大臣を打った。
「わたしの臣下を侮辱するのはやめてください」

 神殿の扉が開いた。
「あとは、この迷路をどうやって辿るかだな」
 ニコライが呟いた。
「タチアナ、神殿に行ったことがあるって言ってなかったか」
「……覚えてないわよ、道順まで」
 唇を噛むタチアナの声には、焦りが含まれている。おそらく、サーシャが抱いているのと同じ感情だろう。
(案内が終われば、イヴァン殿はあのひとに用はなくなる。遺産を持ち出すために、殺そうとするかも知れない)
 目の前の神殿が憎かった。人を守り導く神の宮殿が、イリヤを閉じ込めて殺そうとしている。
 神は何もしてくれない。たった一人の女王は、もうここにはいない。
(ソフィア女王――)
 すがるような気持ちで、その名を浮かべたときだった。
 サーシャの肩から伝書鳩が離れ、神殿の入り口へ飛び込んだ。石の床に降り立つと、左にある隙間に向かって羽を広げる。
「……知っているの?」
 サーシャが呟くと、鳩は小さく飛び上がってまた止まった。
「案内して!」
 叫んで、鳩の後に続こうとした。
 そのとき、
「待ちなさい」
 振り返ると、タチアナが入り口の前で立っている。
「ここからはあなた一人で行くのよ」
「え?」
「言ったでしょう。あたしは見張っているから。イリヤと遺産を任せたわ」
「タチアナ嬢」
「いい? あなたを信じるから任せるのよ。上に立つ者は、従う者を裏切ってはだめよ」
 青い瞳が、まっすぐな視線を向けた。
 サーシャはマリアを見て、ニコライを見て、後ろに続く兵士たちを見た。そして最後に、イリヤを思い浮かべる。
「行ってきます」
 タチアナが頷くのを見て背を向けると、サーシャは鳩の後を追った。



 小さな窓を開けると、白い光が矢のように差し込んだ。同時に、こもっていたほこりが宙に舞い上がる。
 眩しさに目を細めながら、イリヤは振り返った。
「明るくなりましたね」
 イヴァンは、窓の光から離れて無気力に辺りを見回している。
 確かに視界は開けた。だが、何も見えない。
 神殿の最上階には、人の存在を思わせるものは何もなかった。石の壁が四方を取り囲み、低い天井が押し迫ってくるだけ。窓さえイリヤが開けた一つしかない。
「遺産は、どこにある?」
 待っていた問いに、イリヤは微笑んだ。
「残念ながら、ここにはありません」
「何だと?」
「レストワールの使者は、遺産をわたしに託してくれたのです。神殿には残さずに」
 シーアを出て、レストワールに初めて踏み入れたときだった。国境まで送ってくれた若き使者が、それを差し出したのは。
「『これが暴かれるときは、国が荒れて分裂したとき』。わたしはそうならないことを願い、使者もそう言ってくれました」
――政権の行方を示すものでなく、母親の形見として持っていろ。
「知っているでしょう?」
 イリヤは黒髪の男を見つめて呟いた。
「七年前、あなたがわたしにそう言ったのですから」
 イヴァンの黒い目が、微かに動いた。
 イリヤは穏やかに笑いかける。
「ずいぶん変わられましたね。名前まで変えているから、最初はわかりませんでした」
 イヴァンは石のように固まったまま、感情の乏しい視線を向けていた。やがて肩を落とし、諦めたように口を開く。
「――いつから気付いていた?」
「つい先程。あなたを初めて見たときです」
 イリヤはそう言うと、改めて彼を見た。
 お世辞にも清潔とは言えない乱れた黒髪に、無精髭の浮いた顔。緊張感のない眠たげな瞳。枝のように痩せた身体に粗末な服をまとった姿は、盛りを過ぎた貧乏商人そのものだった。
 この男がかつて、古王国の女王の遺言を預かった使者であるなど、誰が想像するだろう。
「見事な変貌ですね」
「ねぎらってくれ。老けたふりも楽じゃないんだ」
「商人と偽って、国境でシーアの様子を見ていたということですか」
「七年間もな。この偏屈な国はちっとも変わらんし、あんたは皇女さんのお付きに成り下がるし、やってられたもんじゃない」
 イヴァンは細い目を更に細めると、イリヤに向き合った。
「あの皇女さんに会ったとき、すぐにあんたのことだとわかったよ」
「それで一緒に来たのですか」
「とうとう遺産が暴かれるのかと思ってね。それにはおれの立会が必要だろう」
「――でも、皇女殿下に二度も刃を向けたのは感心できませんね」
 イリヤは突然真顔になり、鋭い視線を向けた。
「物騒な目だな。おれを殺す気かね?」
「場合によっては、そうしていたかも知れません」
 サーシャに向かって、まっすぐ短剣が飛んできた。あのときの息が止まるような思いは、今でもはっきり覚えている。
「そんなに大事な皇女さんなら、なんで手放そうとする?」
 イリヤの視線が、固まるように静止した。
 そのまま、宙のどこかをじっと見つめる。
「側にいて危険な目に遭わせるなら、離れようとしますよ」
「おれはあんたが、とっくに覚悟を決めたと思っていたんだが」
 イヴァンがゆっくりと口を開いた。
「七年前に別れたとき、あんたはなんて言った? 実父の世話にはならずどこかの学問所に入って、十五になったら職に就きます。できれば定住せず、誰とも深く関わらずに生きていける仕事に。そう言わなかったかね」
「……言いました」
「で、密偵になった。なるほど、定住もしないし、仕事相手とは会った側から別れるようなもんだ。――だが何だね、三年足らずで皇女さんのお付きに転職か」
「……予想外だったんですよ」
 皇女をさらって一人二役を暴いて、謀反の取り締まりに協力してもらう。あわよくば、ただ一人の女帝として目覚めさせる。そして皇宮に返して終わるはずだった。
 密偵だった三年間、様々な人物と出会い、別れた。側にいることを求められたのは、サーシャが初めてではない。だが、それを受け入れたことは一度もなかった。
 ただ一人の側に永遠に寄り添うことなど、自分には有り得ないと思っていた。
 さらってきた皇女が、あの言葉を伝えに来るまでは。
「要するにあんたのほうが、救い様のないくらい惚れ込んでるんだろう」
「……身も蓋もない言い方ですね」
「事実じゃないのかね」
「……事実ですよ」
 無意識に息を吐き出す。
「じゃあなんで、この期に及んで離れようとする?」
「だから、言ったでしょう」
「側にいると、枷になるからねえ――」
 イヴァンは黒い瞳を持ち上げた。
「あの皇女さんは、その程度の女帝かね?」
 イリヤが聞き返す前に、彼は身をねじって別方向を見た。空間へと続く入り口を見て、目を細める。イリヤもそれに習い、耳を澄ました。
 最上階へと続く階段から、複数の足音が近付いてくる。それは次第に大きく速くなり、二人の前に本体を現した。
 兵士が四人。いずれも長剣を手にしている。年齢には多少のばらつきがあったが、四人とも初老は超えているようだ。
 イリヤは、鞘に収めた剣の柄に手をかけた。
「何のご用ですか」
「女王の遺産は、どこだ」
 老兵の一人が答えると、イヴァンがやれやれと肩をすくめる。
「あの大臣さん、そんなにおれが信用できなかったのかね」
「小金で雇われた者が口を挟むな。遺産はどこにある?」
「よく迷宮を越えられましたね」
 イリヤは静かに言った。
「遺産はここにはありません。引き取っていただけますか?」
「遺産を渡せ」
 兵士は呟き、そろって剣を抜いた。
「――ここにはないと言ったでしょう」
「帝国の血の言うことなど、誰が信じるか!」
 一人が弾かれたように駆けてくる。
 突き出された剣を、イリヤは自分の鞘で受け止めた。相手の目が、剣が、空気が異常に殺気立っている。
「新女王派ではないのですね」
「くだらん派閥争いなどどうでもいい。我々が求めるのはシーアの誇りだ」
「それでわたしが恨まれ役ですか」
「あの成り上がりの国が、我々を侵しに来た。おまえはその象徴だ!」
 別方向からもう一人が斬りかかって来た。鞘から剣を抜いて振り払う。
 イヴァンは短刀を取り出し、別の兵士を押さえていた。
 一人に二人。イリヤは両側から来る剣を跳ねのけながら、少しずつ後退していく。
 一人を剣で遠ざけると、もう一人がかかってくる。剣を交差させ、ねじ伏せて下ろさせた。柄で手首を叩くと、相手の手から剣が落ちる。首の下に切っ先を突きつけながら、鞘で胴を打った。相手は崩れ落ちる。
 もう一人。向き合ったときだった。
 視界の端に、駆け寄ってくる華奢な影を見つけたのは。
 目を見開く。そこからは恐ろしいほどゆっくりだった。
 長い鳶色の髪。神殿から出て行ったはずの、帝国に戻るはずの姿がある。まっすぐこちらに走ってくる。
 もう一人の兵士が剣を持ち上げたのも構わず、イリヤの目はサーシャの姿を追った。
『そうなったら、そのときは……もう一度わたしをさらってくれる?』
 さらってきた皇女。返さなければならない皇女。
『これからも側にいて、わたしのなすべきことを助けてくれる?』
 永遠に側にいることなど、自分には有り得ない。
『あなたが急に消えたりするからよ。おとなしく皇宮で帰りを待つとでも思っていた?』
 どうして、自分一人のために。
『あなたが側にいてくれなければ、わたしは女帝になれない』
 危険を冒してまで会いにくる価値など、自分にはないのに。
『一人で帰るわ。あなたは来なくてもいいから』
 枷になることを思えば、手放すことなど簡単にできる。
 それなのに、どうして。
 やがてサーシャの細い影は、目の前に飛び出した。イリヤに背中を向け、老兵に向かって壁のように両腕を広げる。
「殺さないで!」
 その一言で、イリヤの目が覚める。
 老兵の剣が、立ち塞がった少女に振り下ろされる。
 その切っ先が届く寸前、イリヤはサーシャの身を引き寄せ、両腕で包んだ。


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