Sasha [ 2−7−1 ]
Sasha 第二部

第七章 女王の遺産(1)
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「一人で帰ってきたのね」
 王城に戻ってタチアナに迎えられたとき、サーシャは一言目で彼女の変化に気が付いた。その声と視線から、攻撃的なものが消えている。そして、瞼が微かに腫れていた。
「ごめんなさい」
 思わず言った。タチアナがどんな気持ちで何を待っていたのか、手に取るようにわかったからだ。
「イリヤはまだ、神殿なのね?」
「はい」
「新女王派の刺客と一緒?」
「はい」
 はっきり答えるサーシャに対し、タチアナの声はくぐもっている。その唇は固く結ばれ、何かをこらえているようにも見えた。
 だが、彼女は振り切るように視線を外すと、話の矛先を変えた。
「あなたの国の人、迎えに来てたでしょう」
「はい」
「帰らないの?」
「まだ、帰れません」
 サーシャは目線を下げた。
「いいのよ」
 タチアナが言った。
「帰っても、いいのよ」
 その声に威嚇の響きはない。穏やかで低く、言い聞かせるような口調だった。
「あなたはもともと巻き込まれていただけなんだから、もう帰っていいのよ」
「そんなこと――」
「帰りなさいよ」
 声が鋭さを帯びたが、どこか投げやりだった。
「帰りなさいよ……。せっかくイリヤが助けてくれたんだから」

 タチアナと別れ、廊下を歩いていると呼び止められた。
「皇女さま、探したんです」
 マリアは明るく笑い、手首を上げて右腕を差し出した。灰色の伝書鳩が止まっている。
「イリヤさんのですよね?」
「どこにいたの?」
「裏庭です。荷物の整理が済んで、ちょっと外に出てみたらこの子が木に止まってて。呼びかけたら飛んできてくれました。あたしの顔、覚えてたのかも」
 ふふ、とマリアが笑い声を立てると、鳩も応えるように小さく羽ばたいた。サーシャもつられて笑う。久しぶりに見る侍女の顔が懐かしくて優しくて、凍りついた表情が溶かされていくようだった。
「わたしを逃がしたせいで、重臣たちに何か言われなかった?」
「大丈夫です。女官長にお小言を言われたくらい。パヴェル公がずいぶん庇ってくださったんです。皇女さまを探しにいくから、あたしにも付いてきてもらわないとって」
「わたしの身分のこと、摂政殿に……」
「いいえ。みんなしてイリヤさんを探しにきたって言ってあります」
「そう」
 サーシャは息を吐き出し、手の上の鳩を見つめる。
(本当にわたし、みんなに守られている)
 自分が消えてから、皇宮はどれほど騒ぎになっただろう。父は心配して倒れているかも知れない。
 世継ぎの皇女が消えたと民衆に知れたら、皇家への信頼も崩れる。重臣たちは今ごろ必死で事実を隠しているだろう。そんな中でも使者を出し、伯父はとうとうこの国まで来てくれた。マリアは不平一つ言わず笑ってくれる。
(わたしがあのひとに会いたいと思った、それだけのために)
 タチアナの言う通りだ。世間知らずなわがまま以外の何でもない。
 国の上に立つ者は、国以外のものを愛してはいけない。
 皇女は、そして女帝は、一人の娘として一人のひとを愛してはいけない。
「マリア」
 サーシャは、静かに顔を上げる。
「ごめんなさい」
「いいえ」
 マリアは何も聞かず、変わらない笑顔を見せてくれた。
 数え切れないほど多くの人に、自分は支えられている。
 サーシャは、再び伝書鳩を見た。
 神殿に助けに来てくれたイリヤ。そして自分が残り、サーシャだけを逃がしてくれた。
『帰りなさいよ……。せっかくイリヤが助けてくれたんだから』

 少しためらってから、扉を叩く。帝国からの使者に与えられた部屋は、サーシャと同じ奥の塔の別の階にあった。
 しばらくして扉が開く。姿を見せた伯父に、サーシャは小さく頭を下げた。
「皇宮に送る書簡を準備していたところです」
 パヴェル公はサーシャを招き入れると、小さな椅子を勧めながら言った。
「皇女殿下はご無事でしたと、お知らせしてもよろしいですね?」
 サーシャは腰掛けて、小さく頷いた。
「本当に、ご迷惑をおかけしました」
「そのお言葉は、皇帝陛下と皇宮の方々に。私は殿下にこの国をお教えしてしまった身です」
「でも、それを聞いたらもう何も聞かないという約束でした」
「確かに聞いてこられませんでしたよ。代わりに、御自ら現地へ向かわれてしまったが」
 サーシャは伯父につられて、少し笑った。
 パヴェル公は表情も口調も柔和で、重い話をしているのにそれを感じさせない。
「皇太子殿下として、責任をお感じですか」
「はい」
「では、このままご帰国なさいますか?」
 自分の顔から、再び笑みが引くのがわかった。対する伯父は変わらずに微笑んでいる。
 言葉に迷ったサーシャは、沈黙を補うように言った。
「伯父上はいいのですか? 彼を残していって」
「あれはもう子供ではありません。殿下にご迷惑さえおかけしなければ、私が口を出す必要はないのです」
 あっさりと返された。確かにその通りで反論できず、サーシャは再び沈黙に苦しむ。
 帰るか残るか。
 結局、選択権は自分にあるのだ。
(残って、どうするつもりだろう……)
 自分の未練がましさに呆れ果てた。帰るべきなのは火を見るより明らかだ。
 伯父の言う通りイリヤは子供ではないし、この国で一人でもない。敵と共に神殿に閉じ込められても、無事に遺産を守りきるだろう。
 サーシャは彼に助けられた身だ。それを無駄にしないためにも、これ以上枷にならないためにも、おとなしく帰るべきだ。
 だがこうして選択を迫られると、自分の中の微かな声に耳を塞ぎ切れなかった。
(シーアに残りたい。あのひとを置いて帰れない……)
 このまま帰ったら、女帝になっても一生後悔するだろう。イリヤが側にいてくれないからではない。そんなことはもう、どうでもいい。
 臣下の任を解いても助けに来てくれたイリヤに、これ以上求めるものは何もない。あるとしたら、ただ一つ。
(無事でいて)
 支えてくれなくていい。
 助けてくれなくていい。
 守ってくれなくていい。
 生きて戻ってきてくれたら、何もいらない。
 皇宮からイリヤが消えたと聞いたときも悲しかった。自ら別れを告げたときは、これより辛いことなどあるはずがないと思った。
 だが今は、そんな痛みはいくらでも受けられる。イリヤの無事と引き換えなら、何度別れを繰り返してもいい。
 助けに行くまで、帰れない。
「伯父上」
 サーシャは顔を上げた。
「わたしは――」
 パヴェル公は見守るように微笑み、ふと言った。
「その伝書鳩」
 彼の視線は、サーシャが連れてきた鳩の上にあった。
「まだ生きていましたか」
「……え?」
「私が、ソフィア女王に贈ったものです」
 サーシャは驚き、膝の上に載せた鳩を見る。
「二十年前にこの国に来た折、私たちはそれを使って言葉を伝え合いました。神殿から王城へ、王城から神殿へ」
 伯父は鳩を見つめ、目を細めた。
 サーシャは、鳩と彼の顔を何度も見比べる。
「良い鳩でしょう」
 伯父は再びサーシャを見て続けた。
「普通の伝書鳩は、片道しか文を届けないのです。彼らは巣に帰ろうとしているだけなのですから。ところがこの鳩は、どうやら人の顔を覚えて行き来しているらしい」
 人から人へ。言葉を、想いを運んで伝える者。
 サーシャは手を差し出し、指に鳩を載せた。目の高さまで持ち上げる。
「ソフィア女王」
 鳩は、聞き届けるように目を動かした。
「わたしは、この国に残ります」
 どうか伝わりますように。
 亡き女王に。そして、その神殿にたった一人でいるイリヤに。
「わかりました」
 前にいる伯父が、はっきりと答える。
「ご迷惑をおかけします」
「いいえ。お気をつけて」
 微笑んで頭を下げる伯父に、サーシャは小さく会釈して席を立った。
(必ず助けに行く。それまで、無事で待っていて)
 今まで彼がしてくれたことを、今度は自分が返そう。
 一人の娘として愛せないなら、皇女として支えたい。その身が危ないなら助けたい。この手の及ぶ限りで守りたい。
 それができなくては、守られるだけのお人形だ。
 一人の臣下を、一番大切なひとを守れなくて、国を守れるはずがない。このまま帰ったら一生女帝にはなれない。
(無事でいてくれればいい。その後のことは考えない)
 彼がどの道を選んでも、どんな答えを出したとしても。



 鋭い風が襟首に入り込んで、タチアナは身をすくめた。自室のバルコニーは南の方角を向いているが、正午を迎えていない時刻では十分に陽は当たらない。
 それでもタチアナは、部屋に入ろうとしなかった。
 石の手すりに身体を任せ、ぼんやりと雪の大地を見つめている。
「入れよ。寒いだろ」
 窓の中から、ニコライが呼んだ。
「あなた、まだいたの」
「誰のせいだ。おまえが無謀なことしないよう、摂政殿にお目付け役を言い渡されたんだぞ。雑用係もとうとうここまで来たか」
 ニコライがぼやいても、タチアナは振り向きもしない。
 王城の南に広がるのは城下町だ。不規則に並ぶ石造りの民家。歩く人々の影が点になって動いている。敷き詰められた雪は目を刺すような純白。金色の日の光がすべてを包み込んでいる。
 シーアは美しい国だ。その国を統べる父と母の間に生まれ、イリヤと共に育ったのが誇りだった。
 兄だと慕った少年と自分は、血が繋がっていないと知った衝撃。だがそれはすぐに、別の夢に姿を変えて少女を奮い立たせた。
 大きくなったら彼に嫁いで、共にこの国を守る。
 十歳で少年と引き離されるまで、少女はその夢を見続けた。
 恨みと、悔しさと、寂しさでいっぱいだった七年間。その間に少女は娘になり、少年もまた、成長して帰ってきた。
 夢が再び蘇ったときの喜びは、誰にもわからない。その決意がどれほど固かったかも。
 だが成長した少年には、予想だにしなかった追っ手が付いていた。世間知らずで無鉄砲で、感情一つで彼を追ってきた皇女。あんな娘に連れ戻されるなんて冗談じゃない。諦めさせようと何度も棘を刺した。
 でも、どこかでわかっていた。
 イリヤはきっと、あの皇女について行ってしまう。
 わかっていたから、怖かった。抗わずにはいられなかった。一番痛いところを突いてやると、皇女は自分から帰ると言った。
 だが最後の最後で、タチアナは負けた。イリヤは皇女を助けるために神殿に行ってしまった。
 今度こそあの少年は、もう永遠に帰ってこない。
 雪に落ちた雫を見て、タチアナは自分が泣いていることに気が付いた。
 ニコライは気を遣っているのか、しばらく声をかけてこなかった。
 だが、止まりかけた涙を拭ったとき、窓の開く音を聞いてタチアナは振り返った。
「……何よ」
 鋭く言ったつもりだったが、微かにくぐもっている。
「面会希望者」
 ニコライは無表情で言うと、窓の側を離れた。代わりに、彼より小さな人影が姿を現す。
 やや遠慮がちにバルコニーに出てきたのは、年下の皇女だった。
「何をしにきたの」
 タチアナは顔を背け、絞り出すように言う。
「お願いがあります」
 皇女の声は落ち着いていた。
「イリヤを、助けに行かせてください」
 タチアナは目を開き、涙を隠すのも忘れて振り返った。皇女は細い背筋をしゃんと伸ばし、下ろした手を前で合わせて見上げている。
「あなたが、助けに行く?」
 タチアナは、涙と笑いの混じった声を出した。
「何の必要があって?」
「彼はわたしの臣下です」
「今は違うでしょう」
「確かに任は解きました。でも彼は、わたしを助けに来て身代わりになってくれました。主として見捨てるわけにはいきません」
「お姫さまが、何を……」
 タチアナは言いかけ、はっとした。自分を見上げる紫の瞳に吸い込まれそうになったのだ。まるで、今初めてそれを見たかのように。
 向けられた視線はまっすぐで動かない。立ち姿は落ち着き払い、地に足の着いた存在感を放っている。
 イリヤと自分の政略結婚を聞いて呆然としていたのは、暗殺の刃に怯えて憔悴し倒れたのは、連れて行かせないと言い張る自分に一言も言い返せなかったのは、本当に今、前に立っているこの少女だろうか。
「あたしに頼んでどうするの?」
「摂政殿とお話がしたいのです。お願いしていただけませんか」
「あたしが?」
 無意識に声が上がる。
「いやよ。どうしてあなたに協力してあげなくちゃいけないの」
「イリヤを助けたいのは同じでしょう?」
「あなたに助けられるくらいなら、ここで突っ立っていたほうがましよ」
 タチアナはなお言った。
「誰のせいでこうなったと思ってるの。あなたがあたしから全部取り上げたのよ。イリヤも、夢も、気力も、何もかも」
 皇女は目の色も変えず、落ち着いて見上げている。
 タチアナはそれが憎らしかった。また涙が(にじ)み、顔を背ける。
 そのとき、皇女の声がこう言った。
「あなたの夢とは、何だったのですか」
 タチアナは再び彼女を見る。
「イリヤを引き止めて、独り占めすることだったのですか。この国を守りたいのではなかったのですか」
 皇女の口調に哀れみや責めはない。だが、射抜かれたような気がした。
 タチアナが何も言えないうちに、皇女は続けた。
「ご協力していただけないなら、一人で行きます。お邪魔しました」
 小さく礼をして引き返す皇女に、窓枠で声をかける者があった。
「おれが手引きするよ。摂政殿のところへ行こう」
「ニコライ!」
 タチアナは金切り声を上げたが、彼は笑っていない。真顔をバルコニーに向ける。
「タチアナはここにいていい。イリヤは助けてくるから、安心して待ってろ」
 そう言って、皇女を連れて歩き出す。皇女は一度だけタチアナを見ると、すぐに背を向けて彼を追った。
 タチアナは、二人の消えた扉に縛られるように見入っている。だがその目が見ていたのは、扉ではなかった。
「何なの、あの子」
「あたしたちの国の皇女さまです」
 横を向くと、赤い髪をした背の高い娘が立っていた。皇女が連れてきたマリアという名の侍女だ。
「あれがあたしたちの、未来の女帝陛下です」
 拙い敬語だが、声には崇拝の響きがある。
 タチアナは半信半疑で、マリアの顔を見た。マリアは振り返って、念を押すように続ける。
「あの人を最初に見つけたのは、あなたの幼なじみなんですよ」
 瞬間、目を見開いた。
 マリアは屈託のない笑みを浮かべている。
 タチアナは、再び扉を見つめた。

「もう一度、言ってもらえますか」
 セルゲイの言葉に、サーシャは頷いた。
「わたしは、レストワール帝国の第一皇女で皇太子、アレクサンドラです」
 部屋にいた重臣たちの間にざわめきが起こる。矢のような視線を感じたが、サーシャは黙ってセルゲイを見つめていた。
 セルゲイは一人顔色も変えず、灰色の瞳を静かに向けている。
 やがて、彼は口を開いた。
「存じていました」
 サーシャは一瞬、目を見開く。
「それで? ご身分を明かすからには、私に何かお話があるのでしょう」
 セルゲイは淡々と言った。絶句していたサーシャは、再び向き直って先を続ける。
「皇太子として、シーアに同盟を申し込みたいと思います」
「同盟?」
「わたしを神殿に行かせてください。必ず、イリヤと女王陛下の遺産を守ります」
「――何の目的で?」
「わたしの臣下を助けるため。そして、隣国としてシーアを助けるためです」
 再び重臣たちがざわめいた。セルゲイは答えず、黙ってサーシャを見つめている。
「恐れながら、皇女殿下」
 重臣の一人が口を挟んだ。
「歴代のレストワール皇帝が、シーアと国交を取り戻そうとして挫折しました。あなたのような姫君に、それができるとは思えません」
「姫ではありません。わたしは皇太子としてここにいるのです」
「同じことでしょう。あなたはお若いし、それに――」
 女だ。
 重臣は言葉に詰まったが、そう言おうとしたのは明らかだった。
「確かにわたしは、十六の小娘です」
 サーシャは落ち着いて、ゆっくりと語る。
「でも人形ではありません。生身の人間です。それを証明するためにここに来ました」
 重臣が怯むと同時に、別の声が上がった。
「できるの?」
 全員が部屋の入り口を見る。いつの間にか、タチアナが立っていた。颯爽と歩いてきて、サーシャの前に立つ。
「本当に、イリヤと遺産を守れるの?」
「タチアナ、黙っていなさい」
「父さまこそ黙ってて。シーアのこれからを考えていくのは、あたしたちよ」
 タチアナは父を一喝し、重臣たちに視線を回す。
「十六の小娘が何? あたしだって、十七の小娘よ」
 悠然と言ったその瞳に、もう涙の影はなかった。再びサーシャを見て、聞く。
「できるのね?」
「はい」
 サーシャははっきりと答えた。
「それなら、任せてあげる。あたしは見張っているから。シーアの摂政の娘として」
「え?」
「賭けをしましょう。臣下の一人も守れない女帝に、国を任せられないもの。あなたがイリヤと遺産を守れたら、シーアは同盟国として女帝(あなた)の治世を助けてあげる」
 でも、失敗したら。タチアナの表情は言葉より多くを語っている。
 サーシャはまっすぐに立ち、彼女の視線を受け止めた。


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