Sasha [ 2−6−3 ]
Sasha 第二部

第六章 神殿(3)
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「本当に合ってるんだろうね」
 歩きながら、イヴァンが呟いた。
 サーシャは答えずに黙々と前を進む。
 歩いても歩いても、壁に囲まれた狭い通路が続くだけだった。四方のどこか一つ、または二つが開いており、突き当たるたびにサーシャは進路を選ぶ。迷うわけにはいかなかった。サーシャが迷宮の出口を知っているとイヴァンは信じている。それを覆さないため、平静を保って適当な道を選び続ける。
 今のところ行き止まりにぶつかったことはないが、どの道に続いているのか見当もつかない。
 神殿には上の階があったはずだ。正しい道を選べば、階段に行き着けるのだろうか。
「一階が一番厄介でね。階上(うえ)に上がれば何のことはない、普通の構造だ。女王が暮らしていたのは階上だからな。良からぬ連中が入ってくるのを防ぐために、こんなややこしい造りにしたんだろう」
 イヴァンは言った。
「皇女さん、あんた遺産の在処を聞いたと言ったが、よくこんな道筋を覚えてたもんだ」
 サーシャは答えずに歩き続ける。
 後ろを向かなくても、イヴァンの手から伸びる切っ先の冷たさを首筋に感じる。壁に包まれた息苦しい空間。行く当てのない迷宮。外には新女王派の軍が構えている。
(でも、わたししかいない)
 ここでイヴァンを止め、遺産を守れるのは自分しかいない。
 イリヤの顔が胸に浮かんだが、すぐに打ち消した。
 助けは来ない。いや、来させるわけにはいかない。
(わたししかいない)
 正面に待ち伏せる壁を見て、サーシャは立ち止まった。後ろでイヴァンも足を止める。
 前も、左も右も壁。どこにも抜けるところはない。行き止まりだ。
「道を間違えたかね?」
 イヴァンが後ろから聞いた。
「いいえ」
 サーシャは振り返らずに、静かに答える。
「これで合ってるわ」
 イヴァンが聞き返す隙はなかった。
 サーシャは後ろ手に彼の手を押さえ、ひねり上げて振り返った。先程まで向けられていた刃は、今やイヴァンの胸に向いている。
「何の真似だね」
「あなたを行かせるわけにはいかないの」
 サーシャは見上げ、ゆっくりと言った。
「手を引きなさい。一稼ぎできる仕事なら、他にもあるはずよ」
「嫌だと言ったら?」
「言えないようにしてやるわ」
 言葉が終わらないうちに、サーシャは右手を上げた。事前に外しておいた首飾りだ。硬い宝石(いし)がイヴァンの手を打つ。短刀が離れて落ちる。受け止める。肩を押さえ付けられ、爪でその手を掻く。一歩下がって立ち止まる。イヴァンの手が追ってきた。
 その前に、サーシャは奪った短刀を突き出した。
「変わった皇女さんだな」
 手を伸ばしたまま、イヴァンは呟いた。
「わたしの噂を聞いたことがない? 十五年間皇子を演じてきたのよ。剣も練習した。皇女だって護身術くらい身に付けてるわ」
「ほう」
 イヴァンは無気力に眺め、衣服の中に手を入れた。サーシャの奪った短刀より更に小さい、中指くらいの刃が現れる。
「若い娘さんと決闘する趣味はないんだがね」
「わたしだってないわ。だからお願い、遺産は諦めて」
「そうもいかんしな」
 イヴァンの刃がサーシャの刃を打った。金属音が響き、二人は互いに一歩引く。見つめ合う。
 サーシャは短刀を持ち替え、イヴァンの手に突き出した。彼は身をかわして壁に背を付ける。再び刃が交わる。サーシャは跳ね返され、反対の壁にぶつかる。
「なんで遺産を守りたがる?」
 表情を変えないまま、イヴァンが呟いた。
「あんたは他国の人間だろう。この国の政権にどう関係がある?」
 サーシャは答えない。代わりに短刀を突き出す。
 刃と刃が交わる。音が響く。跳ね返しあう。再び繰り出す。
 そんなことが果てしなく続いた。次第にサーシャの息が上がる。イヴァンは顔色一つ変えていない。
 サーシャはもう一度、短刀を向けようとした。イヴァンは自分の刃で止めようとした。
 だが。
 気が付いたときには、彼の左手がサーシャの腕を捕らえていた
 突然の痛みに声を上げそうになった。腕を掴む手の力は驚くほど強い。逃れようとするができなかった。掴まれた腕はびくともしない。
 イヴァンはその腕を引き、サーシャを行き止まりの壁に投げつけた。サーシャの手から短刀が落ちる。同時に肩が壁にぶつかり、痛みが跳ねた。掴まれていた手は赤くなっている。
「健気なことだが諦めな、皇女さん」
 細い刃を突きつけ、イヴァンは言った。
 鋭い切っ先が目の前で光を放つ。
 サーシャは息を呑んだ。
「何も殺しゃしない。あんたは道案内だろう」
「案内などしません。遺産は渡さない」
「壁に追い込まれて何を言ってる」
「殺されたって遺産を守るわ」
「大それたことを言うな。本当に殺して試してみるか」
「殺せるものなら殺してみなさい」
 サーシャが言い切った瞬間、イヴァンの目の色が変わった。いつも無気力に細めていた目が、いっぱいに見開く。そこだけ塗ったような黒い瞳だった。薄い顎を上げ、下目遣いでサーシャを見下ろす。
 刃がゆっくりと持ち上がった。
 サーシャは壁に背を押し付け、目を閉じた。
 皇宮に帰らなければ。父が心配している。突然姿を消して、大騒ぎになっているはずだ。逃がしてくれたマリアは咎めを受けなかっただろうか。重臣たちはなんと言うだろう。
 イリヤには会えたが、一緒に帰ることは叶わなかった。もう二度と会えない。覚悟はしていたが、こんな形で別れるのは嫌だ。
(会いたい)
 以前はこんな状況を知ったら、真っ先に駆けつけてくれた。だが、もう彼は臣下ではない。
(助けは求めない。わたしは遺産を守る)
 瞼の向こうで、刃が鳴った。
 頬を壁に押し当て、身を強張らせる。
 頭を真っ白にして、襲ってくる変化を待つ。
 沈黙は、永遠に続くかと思われた。
 何も聞こえない。
 何も感じない。
 ゆっくりと、瞼を持ち上げる。そのとき見えたものを、サーシャはすぐに現実と思えなかった。
 イヴァンの首に皮一枚残して、鋭い切っ先が向けられている。実践用の細い真剣だ。
 長い刃を辿ると簡素な柄があり、握る手があり、まっすぐ伸ばされた腕がある。
(幻だわ)
 生死の境で、都合のいい夢を見ているのだ。そうでなければ説明が付かない。こんな状況は。こんな光景は。
 細い長剣をまっすぐに向けて、イリヤが立っていた。
 イヴァンの後ろで腕を伸ばし、落ち着いた視線を彼に向けている。
「手の刃物を下ろしてください」
 幻が喋った。
「その方は、遺産の在処を知りません」
 青い瞳がサーシャを見る。
 本物だ。助けに来た。また会えた。
 その左手が、何かを待つように広げられているのを見て、サーシャは我に返る。イヴァンは切っ先を向けられて、顔を上げたままだった。
 サーシャは床を蹴って、イヴァンの刃から逃れて走った。イリヤの左腕が抱きとめる。
(どうして?)
 現実を受け入れても、理解できない。
 どうして来たのだろう。従者の任からは解放したのに。枷にならないと決めたのに。一人で遺産を守ろうとしたのに。
 助けてほしいなど望んでいない。こうなることを恐れて、一人でここまで来たのに。
(それなのに、このひとは、自分から)
 この旅が始まってから、彼の言動はわからないものばかりだった。だが、これほど納得できないのは初めてだった。怒りさえ感じる。
 イリヤは左腕でサーシャを支えたまま、右手の剣をまだイヴァンに向けている。
「どこから入った?」
 振り返らずに、イヴァンが聞いた。
「神殿の周りは、新女王派が固めていたはずだが」
 イリヤは答えない。切っ先をまっすぐ突きつけ、イヴァンの後ろ姿を見つめるだけだ。
「皇女さんは在処を知らんのだな。すると、あんたが代わりに案内してくれるのかね?」
「必要があれば、そうします」
 サーシャは驚いてイリヤを見上げる。
 イリヤはサーシャから手を離し、耳元で囁いた。
「後ろの角を右へ。大きさの違う石組みを押してください」
「え?」
 それきりイリヤは、サーシャを見なかった。
 代わりに、早く行けというように広げた手を見せる。
「……そこに遺産があるの?」
「いいえ。抜け道です」
 サーシャは一瞬で悟り、目を見開いた。
「逃げろと言うの?」
「当たり前です」
「いやよ。わたしも残る」
「行ってください」
「いや」
「サーシャさま、行ってください!」
 イリヤは叫び、再びサーシャを見た。
 その瞬間、刃がぶつかる音が響く。イヴァンが振り返り、手の小刀でイリヤの長剣を封じていた。
 サーシャは息を呑み、二人を見比べる。イリヤは剣を構えたままサーシャを見ていた。その目が行け、と語っている。
 一歩下がる。イリヤがイヴァンに目を戻した。
 二歩下がる。イヴァンは舐めるようにイリヤを見つめている。
 三歩下がる。サーシャは走り出した。
 言われた通り、角を右に曲がる。長い一本道だった。壁に囲まれた狭い道を、まっすぐ走り続ける。
 行き当たりにぶつかると、壁を隅から隅まで凝視した。規則正しく石が組まれている中、一つだけ倍ほどの大きさのものがある。
 サーシャは指先でそっと押した。石は動いた。奥に向かって回転し、裏表が逆になる。
 その瞬間、壁全体が動き出し、向こう側へ開いた。隙間から覗くと、下に向かって階段が続いていた。暗い上に果てしなく長く、先が見えない。
 サーシャは息を吸い込むと、階段を駆け下りた。
(わたしだけ逃げている。あのひとは、助けてくれた)
 威嚇するような鋭い声で、行けと言った。そして一人で残っている。守る義務もないサーシャのために。
 階段が終わり、まっすぐな道が続く。天井の隙間から入り込む光だけを頼りに、サーシャは走り続けた。
 この国に来てから、イリヤに助けられたのは何度目だろう。自分が勝手に追ってきたのに、イリヤはその手の及ぶ限りで守ってくれた。短剣に襲われたときも、疲労で倒れたときも。
(義務、などではない)
 サーシャは弾んでくる息を吐き出し、走り続けた。
(そんな言葉は、あのひとには似合わない)
 どうして考えなかったのだろう。イリヤが臣下の義務などのために動くはずがない。ましてや、それが重くなったからといって逃げ出すような性格ではない。
 サーシャの側を離れたのは。
 重臣に嫌味を言われたからではなく。
 現在より過去を取ったからではなく。
 サーシャの存在が、枷になったからではなく。

(わたしの、ため?)

 自分の存在が、サーシャの枷になると考えたから。
 他人に言われるまでもなく、そのくらい察していただろう。複雑な血筋と生い立ちを持つ自分が、皇宮で微妙な立場にいることは。
 そこにちょうどニコライが来て、祖国の危機を知らされた。
――枷になるくらいなら、離れるほうを選ぶ――
(わたしと、同じ)
――『何をなさってるんです!』
 初めてわかった。あのときのイリヤの気持ちが。
 ついさっき、サーシャが感じたのと同じだ。枷になるのを恐れて側を離れたのに、相手は自分を追ってきた。冒さなくてもいい危険を冒して。追ってきた相手よりも、そんな目に遭わせた自分が許せなかった。
(全部、わたしのために)
 やがて、走り続ける先に光が見えてきた。上りの階段がある。サーシャは足を止めずに駆け上がった。
 胸が破れそうだった。息が詰まっただけではない。
(どうすればいい?)
 光を目指して走りながら、自分に問いかける。
(あのひとは、わたしを助けてくれた。わたしはどうすればいい?)
 神殿の迷宮の中で、イリヤは今もイヴァンと取り残されている。
 階段を上りきると、一枚の扉に突き当たった。そっと手をかけると簡単に開く。
 白い光が目に飛び込み、眩しさに目を覆った。立ち止まり、息を切らす。視界がくらみ、ふらついてその場に膝をついた。地面は雪だった。外に出られた。
 息苦しさと眩しさに目を閉じる。そのときだった。
「皇女さま!」
 どこかで、若い娘の声が響く。雪を踏み分ける足音が近付いてくる。
 サーシャは、ゆっくりと顔を上げた。
「皇女さま」
 声の主は駆け寄ってきて、サーシャの腕を支える。
「大丈夫ですか? お怪我は?」
 サーシャは彼女の顔をぼんやり見つめ、うわごとのように呟いた。
「……マリア?」
「はい」
 彼女はにっこりした。これも幻ではない。皇宮で別れた懐かしい侍女の笑顔だ。
「どうして、あなたがここに?」
「皇女さまが行った後、皇宮から使者が出されたんです。あたしもお供して来ました。着いたのはさっきです」
「使者?」
「はい。そっちに」
 マリアはサーシャの手を握り、顔を上げた。その視線の先には、旅の一行と見える人だかりがある。
 雪の中で馬を扱う者、地図を広げる者、その数は十人ほど。中心にいた人物がこちらに気付き、歩いてきた。
「皇女殿下、ご無事でしたか」
 サーシャの前で膝をつき、安堵の声を漏らす。
「――伯父上」
 驚くサーシャに微笑んで見せたのは、パヴェル公その人だった。


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