Sasha [ 2−6−2 ]
Sasha 第二部

第六章 神殿(2)
[ BACK / TOP / NEXT ]


 摂政の執務室には、十人近い文官や側近たちが集まっていた。取り乱した様子でセルゲイに何か訴えている者もいる。
 タチアナが飛び込み、イリヤとニコライが続くと、全員が視線を向けた。
「父さま。向こうはどんな様子?」
「おまえは出て行きなさい」
「どうしてよ」
「最悪の事態になるかも知れない」
「だからここにいたいんじゃない!」
 幼女のようにわめくタチアナの隣に、イリヤが立つ。
「新女王派は、軍を動かしたのですか」
「そのようだ。神殿の番兵を倒して、周りを固めている」
「中には?」
「まだだ。そこまで強行する覚悟はできていないのだろう。平民の支持を失うのを恐れて」
 セルゲイの声はあくまで平淡だが、表面上ほど落ち着いていないのは明らかだった。
「目的は遺産ですか?」
「おそらく。神殿にそれがあると読んだのだろう」
 イリヤは窓を見た。枠の中には眩しいほど白い雪景色しか映らないが、その向こうにある神殿の様子が目に見えるようだった。
 神殿に遺産がある。
 だが中に入って探すことはできない。
 それなら、代わりの者に案内させる。
 遺産の在処を知る者に。
「それじゃ、向こうもこちらも立ち往生じゃない」
 タチアナが声を上げた。
「遺産がどこにあるのか知ってるのは、帝国の使者だけでしょ。その人の行方もわからないし」
「……」
 タチアナをなだめるように見て、イリヤは黙って床に目を落とした。
 新女王派は、脅してでも聞きにくる。遺産の在処を知る者に……。
 セルゲイが、タチアナが、その場にいる全員が自分を見ているのに気が付いた。
「イリヤ」
 タチアナが口を開く。
「知っていたの?」
「――黙っていて申し訳ありませんでした」
 全員に向けたつもりで、言葉を返した。
 レストワールの使者は、女王の遺産を託された者は、十一の少年だったイリヤに密かにその在処を教えた。
『これが暴かれるときは、国が荒れて分裂したときだ』
 彼は言った。
『――そうならないといいな』
 おそらく、女王もそう思っていたはずだ。
 その願いは、叶わなかったが。
「新女王派は、イリヤが知っていることを勘付いたんだな」
「――何を盾に聞いてくるでしょうか」
「物か人か。そなたを動かすのに引き換えと成り得るものを」
 動かすのに引き換えとなるもの。
 一瞬、脳裏に浮かんだものを、イリヤはすぐに否定しようとした。だが、真っ先に現れたそれは二度と消えそうになく、他の答えを受け付けなかった。
 そんなはずはない。
 サーシャは無事に城を出たはずだ。第一、新女王派はサーシャの身分を知らない。それが人質になるなど、どうして思うだろう?
 まとまらない考えの中を、一つの仮説が矢のように貫いた。
 あの夜の暗殺の刃は、まっすぐサーシャに向かって飛んできた。それに気付いて真っ先に引き止めたのが自分だ。
 あれを、見られていたとしたら?
「――様子を見てきます」
「イリヤ!」
 タチアナの声を聞き流し、セルゲイの返事も待たず、イリヤは部屋を飛び出した。長い廊下を足早に歩く。
「待ってよ。行ってどうするの!」
 タチアナの声が追いかけてきた。
「まだ何も言ってこないじゃない」
「脅迫されるのを待っていたら、人質は手遅れになります」
「人質って誰なの」
「――」
 隣に付いてくるタチアナに振り向きもせず、まっすぐ歩き続ける。
「――あのお姫さまなの?」
 タチアナの声が低く響いた。
 イリヤは答えず、更に歩調を速める。
「助けに行くことなんてないじゃない」
 小走りになりながら、タチアナは言った。
「あの子のほうがあなたを手放したんでしょう。もう臣下じゃないんでしょう」
「それが何ですか?」
「何をあんな子のために焦ってるの? 人質になったとしても自業自得よ。しつこく追ってきて、勝手なこと言って、考えなしに動き回って。世間知らずな顔してぼんやり歩いてるから、敵に捕まるのよ。そうやってまたあなたの足手まといに――」
「タチアナ」
 イリヤは立ち止まり、初めてタチアナを見る。
「それ以上言わないでください」
 静かに言った。
 タチアナの目が凍り付き、何も言わずに見上げている。
 イリヤは、再び歩き出した。

 背の高い後ろ姿が廊下の奥へ消えていくのを、タチアナは黙って見つめていた。幼いころは、兄と慕ったあの背中をずっと追いかけていた。イリヤはたいてい歩調を緩め、タチアナに合わせてくれていた。
 大人になったら、一緒に並んで歩いていける。
「――信じてたのに」
「これ以上追うなよ」
 隣で誰かが言った。いつの間にかニコライが立っていた。
 タチアナは彼に目もくれず、イリヤの去った廊下を見つめ続ける。
「どうして、あんなお姫さまに連れて行かれなくちゃいけないの」
 誰に聞かれるのも構わず、タチアナは言葉をぶつけた。
「――動くときが来たんだ」
 ニコライが含みのある口調で言う。
「あいつは、自分の居場所は手放せても、皇女さま自身は手放せないんだよ」
「わかってるわよ」
 タチアナは廊下の奥を見て、自らの中で繰り返した。
 わかってたわよ、そんなこと……。



「この通り、準備はできているよ」
 イヴァンは左手で前方の景色を指し示した。右手の短刀をサーシャの首に当てたまま。
 雪の上に立つ神殿の周りを、剣を携えた兵士たちが囲んでいる。丘から続く小道も固められ、サーシャはその間をイヴァンに連れられて歩いてきた。
 神殿の前まで来ると、一人の人物がサーシャを出迎えた。
「これはこれは、皇女殿下」
 ウラジミル大臣だった。
「はるばるようこそ。私どものためにご足労ありがとうございます」
「これは何?」
 サーシャは真っ先に言った。
「神殿に刃を向けるなんて。あなたがたはシーアの神を重んじるのではなかったの?」
「もちろんですとも。だから、神殿の中には一切手を出しておりません」
 大臣は狡猾な笑みを浮かべる。
「神殿を侵して遺産を奪ってくるのは、あの忌まわしい帝国の血のやること。我々は彼から遺産を取り戻し、神殿を守る。いい筋書きでしょう」
「それがな、大臣さん」
 サーシャの後ろで、イヴァンが緊張感のない声を出した。
「ちょっと計画の変更があってね。遺産の在処はこの皇女さんが教えてくれるらしい」
「何?」
 大臣は怪訝そうにサーシャを見下ろす。
「彼の言う通りよ。わたしが案内する」
 サーシャは、しゃんと立って強く言った。
「わたしはただの町娘で、イヴァン殿と二人で神殿に侵入した。あなたがたがそれを取り締まった。筋書きならそれでいいでしょう」
「面白味に欠けるが、脅迫しに行く手間が省けるのはありがたい。それに、帝国の血だと何かと策を練ってくるからな」
 大臣は身を屈め、歪んだ笑いをサーシャに向ける。
「可愛いお人形のほうが、案内役としては適任かも知れん」
「そうだろう。脅す役としても気が楽だ」
 イヴァンが口を挟んだ。
「では、この皇女さんと神殿に入るよ。遺産を取ってくりゃいいんだろう」
「出てきたら、我々に預けて一刻も早く消えろ。報酬は後でやる」
「それじゃあ行くとするかね、皇女さん」
 イヴァンはサーシャの前に回していた短刀を、首筋の後ろに付けた。それからサーシャの肩を叩いた。
 サーシャはゆっくりと歩き出す。神殿に一歩近付くたび、不安が胸を貫いた。
 入ったこともない神殿。女王の遺産が何なのか見当も付かない。神殿の中はそう広くなさそうだが、無事に行き着けるだろうか。
 いや、行き着けたとしても、遺産を取らせるわけにはいかない。自分は部外者とは言え、新女王派のような連中に渡したくはなかった。
 政権の行方を決めるというだけではない。荒んだ政治に弄ばれ、神殿の中で静かに生きていた女王が、自らの意思で残したもの。それが、こんな形で利用されるのは許せない気がした。
 遺産を守りたい。
 それも、イリヤや摂政には知られずに。助けを求めることは許されないのだ。人質としてここにいる自分が、何とかするしかない。
 気が付くと、目の前に厚い木製の扉があった。左右に開く二枚扉で、縦はサーシャの背より遥かに高い。中央には金属の取っ手があり、輪の部分に細く雪が積もっている。
「皇女さん」
 背後でイヴァンが言った。
「開けてくれるかね? こっちは手が塞がっててね」
 彼の手は握り締めた短刀を、サーシャの後ろ首に当てたままだ。
 サーシャは取っ手の雪を払い、輪に手をかけた。
 扉がきしみ、二人に道を開く。
 一歩進もうとして、サーシャは立ち尽くした。
 進もうにも、前には空間がない。すぐ前に壁があり、左右も塞がっている。二重扉なのかと思ったが、壁は壁で取っ手もなければ隙間もない。
 驚いて見回しているうちに、サーシャは気が付いた。左の角の部分が開いていて、通り抜けられるようになっている。
 サーシャは数歩進み、その部分を覗いてみた。
 その先にあるものは、また壁。今度は右側が開いている。
「だから、自信のない嘘はつくなと言っただろう」
 付いてきたイヴァンが背後で言う。
 その言葉に、サーシャはようやく悟った。
 女王の住む神殿は、外敵を受け入れない迷宮だったのだ。


[ BACK / TOP / NEXT ]

Copyright (C) Kizugawa Yui.All right reserved.