Sasha [ 2−6−1 ]
Sasha 第二部

第六章 神殿(1)
[ BACK / TOP / NEXT ]


「帰る?」
 イヴァンは、ゆっくりと煙を吐き出した。
 朝日がやっと光を見せている。早番の女官や衛兵たちは、もう働き出しているだろう。だが王城から離れた城壁の内側は、朝日も当たらず人の声も届かない。
 サーシャがこの場所でイヴァンを見つけたのは、イリヤと別れて半時間ほど経ってからだった。借りた客室にいず外に出ていた理由を、彼は「年寄りは早起きなもんでね」と説明した。
 そしてサーシャから事情を聞くと、無気力な顔を動かしもせず聞き返した。
「あんた一人で?」
「――はい」
「想い人を待つんじゃなかったのかね」
「……」
 サーシャは声を落として、首を振った。
 イヴァンは興味もなさそうな顔で、見下ろしながら言う。
「娘さん、あんたは一体、この国に何をしに来たんだね?」
(何をしに?)
 イリヤに会いに来たに決まっている。突然消えた理由を聞き、即位式までに一緒に帰れるように。
 女帝になった後も側にいてほしかった。
 それを願うことさえ自分には許されないと、考えもしないで。
「もう、諦めました。あのひとにはあのひとの意思があるから」
「相手を想っての自己犠牲という奴か」
「そんな立派なものじゃありません」
 自分がやり切れなかっただけだ。
 サーシャは皇女で、イリヤは臣下。側にいれば何を言っても聞いてくれるし、守ってくれる。
 皇女と臣下。その関係におとぎ話の姫と騎士でも重ね合わせて、夢を見ていたのかもしれない。
 現実はもっと事務的で、そして絶対的だった。
「一緒にいたって対等になれない。相手の枷にしかなれないとわかったから、離れるんです」
「そうかね。――健気なことだ」
 イヴァンは言い捨て、パイプの柄を叩いた。雪の上に灰が降り、黒い点を作る。
「だが、いきなり帰ると言われてもねえ……」
 サーシャは顔を上げた。
「ごめんなさい、迷惑ばかりかけて。あなたはお仕事で来ているのよね。帰りはわたし一人でも」
「いいや」
 イヴァンは遮った。
 そして、次に彼が取った行動を、サーシャはすぐに理解することができなかった。
 左手にパイプを持ったまま、腰に下げた小さな袋に右手を入れる。取り出したのは木目の柄の付いた短刀だった。商人が携帯している作業用のもので、旅道中で荷物の紐を解くのに使うのを見たことがある。
 見つめていると、イヴァンはその小さな鞘を取り外した。使い古して光沢を失った刃が現れる。
 サーシャはそれを、何かの儀式のように黙って見つめていた。
 その粗末な短刀が、イヴァンの手から自分の首筋に伸ばされたときは、何が起こったのかわからなかった。
「あんたには、もう少しこの国にいてもらわないと困るんだよ」



 鳩が音を立てて羽を広げた。窓枠の上で落ち着かずにいるその様子を、イリヤは側に立って見つめている。
「――昔からそうだったよ」
 ニコライが言いかけ、ふと顔を向けた。
「聞いてるか」
「――はい?」
 イリヤは鳩から目を離し、声を返した。
「ほらこれだ」
 ニコライは肩をすくめる。
「一つ聞いていいか?」
「どうぞ」
「この国を追い出されて帝国へ向かうとき、どう思った?」
 イリヤの顔から表情が消えた。まばたきもせず宙を見つめる。
「……さあ」
「寂しいとか悲しいとか、思わなかったのか」
「思ったかもしれませんね。まだ十一でしたし」
「でも、それを主張しようとはしなかった」
「可愛げのない子供でしたから」
「そうだ。大人に褒められても叱られても、物をもらっても取り上げられても、表情一つ変えない嫌な子供だった。頭が良くて文官たちの絶賛の的だったのに、おまえは少しも嬉しそうじゃなかった。おれたちが敵対して優等生の座を奪ってやっても、ただ笑ってるだけだったな」
「ニコライ」
 イリヤは抑揚なく呼びかける。
「あなたが言いたいことはわかります。でもこういう性分で十九年も生きてきたのですから、簡単には変えられません」
「変えなくてもいいよ。でも、一度くらい動いてみろ」
「動くときが来たら」
「今がそのときじゃないのか」
「そうは思えません」
 何を失うのも怖くはなかった。
 自分がセルゲイの子でないのは、幼いころから知っていた。だから、何一つ与えてもらえなくても無理はないと思っていた。むしろ、タチアナと分け隔てなく育ててもらえるのが不思議なくらいだった。
 女王が崩御し、国を出なければならなかったのも。
 レストワールに移ったとき、実父と聞いた人には正妻と二人の子供がいたのも。
 引き取ってもいいと言う義母の申し出も断って、皇宮付属の大学の弟子になったのも。
 十五の年を迎え、成り行きで密偵として北方へ向かったのも。
 すべて、流れるままのことだった。
 理不尽だとも、まして不幸だとも思ったことはなかった。
 失って怖いものなど一つもなかった。
 感情より実益を優先させるのは簡単なこと。自分の居場所ではないと感じたら、すぐに離れるほうを選んでいた。
 北方の領主の城に入ったのは、密偵になって一年後。一人二役の皇子と皇女の話を聞いたのは、それからしばらく後のことだった。
「……あの皇女さま、もう城から出たころかな」
 ニコライが外を見て呟く。
 イリヤは伝書鳩に目を落とし、何も答えなかった。
 沈黙の中、軽く速い足音が聞こえた。こちらに近付いてくる。
 顔を上げ、城の入り口に目を向けた。飛び出してきたのはタチアナだった。
「二人とも、ここにいたの? 父さまが呼んでるわ」
「こんな早くから?」
「緊急事態なのよ」
 タチアナは肩を上下させ、浅い息を繰り返している。声を出そうとするが、弾んだ呼吸が遮っているようだった。胸を押さえて俯いた後、もう一度顔を上げる。
「何があったのですか」
「新女王派の私兵が……女王の神殿を包囲してるの!」


 サーシャは息を呑んで首を反らした。イヴァンの手から伸びた短刀が、その動きを制止する。
「――何の真似です」
「わかりきったことを聞くんじゃない」
 抑揚のない声が言う。
「おれとしては、早く終わらせるに越したことはないんでね」
 短刀に落としていた視線を、イヴァンの目まで滑らせた。
「あなた、新女王派の者なの……?」
「まさか。この国の政権がどうなろうが知ったことじゃない。ただ、あんまり暇だったもんでね。一稼ぎできる仕事を見つけたんで、やらせてもらうことにした」
「雇われたのね」
「あちらさんに願ってもない情報を提供してやったからな」
「情報?」
 イヴァンの黒い目が細められた。
「あんただろう。“帝国の血”が仕える皇女さんは」
 サーシャは息を止めて、短刀から逃れようと後退った。だがイヴァンの手は容赦なく伸びてくる。
「まさかと思っていたんだよ」
 彼は言った。
「紫の目、高価な腕輪。世間知らずな物言いに行動。まさかがもしやに変わったのは、城に来てあんたの想い人を見てからだ。だから、少しばかり試させてもらったよ」
「何を?」
「持ち主不明の剣が、皇女に向かって飛んできた。側にいる従者はどう動くのか――」
 闇の中をすり抜けた閃光が、脳裏で蘇った。
「あの短剣を投げたのも、あなたなの?」
「そういうことさ」
 イヴァンは少しも楽しくなさそうに、淡々と先を続けた。
「思った通りだ。血相変えて助けにくるんだな、皇女さんに刃を向ければ」
 そう言って、突きつけた短刀をサーシャの首筋に当てる。
 冷たさと恐怖でサーシャは目を閉じた。
 記憶を巡らせ、あの夜のことを思い出す。
 サーシャは、渡り廊下から奥の塔へ入ろうとしていた。イリヤは何歩も離れて立っていた。あの短剣は、サーシャに向かってまっすぐ飛んできたのだ。新女王派が目の敵にしているイリヤではなく。
 手元が狂ったのかと思っていたが、そうではなかった。
 狙われたのはサーシャだった。イリヤが異変に気付いて、紙一重で助けた。
 あのとき、イヴァンの仮説は証明されてしまったのだ。イリヤを動かすために、サーシャは人質に成り得ると。
「新女王派の偉いさんらは大喜びしてくれたよ。そういうわけで、あんたにはもう少しこの国にいてもらう」
「待って……。その前に聞いて」
 サーシャは目を開け、短刀から僅かに逃れて口を開いた。
「さっきも言ったでしょう? あのひとは、もうわたしの臣下ではないの。わたしを守る義務なんてないのよ。だからわたしを人質にしたって――」
「知らん顔で無視されるか?」
 イヴァンの言葉がサーシャの口を塞ぐ。改めて戒めるように、短刀を突きつける。
「あんたのこの姿を見せても、守る義務なんてないからと放っておくのか?」
「――」
 サーシャは固く目を閉じた。
 どうしてこんなことになるのだろう。側を離れると告げた矢先に、人質として前に引き出される。また足手まといになる。
(それだけは、絶対にいや)
「さて、一緒に来てもらおうか」
 イヴァンが低い声で言い放つ。
 サーシャはきっと顔を上げた。
「目的を聞かせて。あのひとに何を求めるつもりなの」
「遺産の在処さ。他に何かあるか?」
「遺産?」
「女王の遺産だよ。見つけたらシーアの政権が手に入る」
「でもそれは、レストワールの使者しか知らないと……」
「あんなのは建前さ。女王は、自分の忘れ形見に遺産を託したんだよ」
 サーシャは黙った。
 イリヤが、遺産の在処を知っている?
「で、厄介なことにその忘れ形見は、摂政の(がわ)にいるんでね。新女王派としては脅してでも聞き出さなきゃならんわけだ」
 サーシャが俯いているうちに、イヴァンは言った。
「そのために人質(あんた)がいるわけだ。さあ、行こうかね」
「――待って」
 顔を上げる。声を落ち着け、まっすぐイヴァンを見上げて続けた。
「わたしが案内する。わざわざあのひとを脅さなくても、わたしが遺産の在処を教えるわ」
 イヴァンは短剣を握ったまま、サーシャの全身を眺め回す。
「あんたが案内?」
「そうよ」
「在処を知ってるのかね?」
「あのひとから聞いたの」
「自信のない嘘はつくもんじゃないよ、皇女さん」
「嘘じゃないわ。あのひとはわたしの臣下だったのよ。わたしが聞けばなんでも話してくれた。どんな大切なことでも」
 イヴァンは探るような目を向けた。サーシャはそらさずに、落ち着いて見返す。
 嘘だった。イリヤは大切なことほど、聞いても話してくれなかった。遺産の在処などより、もっと聞きたいことがあったのに。
 だが、今はこうするしかない。
(枷にならないと、決めたのだから)
 サーシャは黙って、イヴァンの黒い目を見上げた。


[ BACK / TOP / NEXT ]

Copyright (C) Kizugawa Yui.All right reserved.