Sasha [ 2−5−3 ]
Sasha 第二部

第五章 別離(3)
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 タチアナは先程と同じように、寝台の足元に腰を下ろした。豊かな金色の巻き毛が緩やかに肩を縁取っている。だが本人は鬱陶しそうに横髪を払いのけると、サーシャを見て言った。
「具合はどう?」
「もう大丈夫です。どうもご迷惑を――」
「か弱いわね、皇家のお姫さまって」
 青い瞳が視線を流す。
「早いところ帰ったほうがいいんじゃない?」
「――わかっています。でも」
「帰ってちょうだいと言ってるのよ」
 一瞬、首を絞められた気がした。
 長い睫の縁取る美しい瞳に。研ぎ澄まされたような細い声に。
「病人にこんなこと言いたくないけど、こんな時じゃなきゃ一対一で話せないから、言わせてもらうわ」
 呆然とするサーシャに、タチアナは続けた。
「何日待ったって無駄よ。あなたにイリヤはあげないから」
「……あげない?」
「あなたはその気になればなんだって手に入る。でも、イリヤはあげない。あなたには連れて行かせない」
 タチアナは瞼に力を込めた。
「わからないでしょう。十年間も兄妹のように育ったのに、突然引き離されてどんな気がしたか。父さまの子供として、二人でこの国を守っていくと信じていたのに、親の都合で帝国になんか連れて行かれてどんな気がしたか。シーアはどんどん衰退して父さまも困り果てて、どんなにイリヤに帰ってきてほしかったか。帰ってきてどんなに嬉しかったか」
 次々と浴びせられる言葉に、サーシャはどんどん声を失っていった。タチアナの表情は硬く、縛るようにサーシャを見つめている。
「世間知らずなお姫さまのわがままで、また連れて行かれるなんて許さない」
 声が沸き上がるように高くなった。タチアナは息を吐き出し、言葉を止めてサーシャを伺う。
 サーシャはまっすぐ顔を上げた。タチアナの青い瞳が刺すように見つめている。イリヤの目が透き通るような湖水の青なら、タチアナのそれは底の見えない深海の色だった。
 初めて会ったときも、きれいな女性(ひと)だと思った。美しい人は怒りで顔を歪めても一層美しいのだと、初めて知った。
「――わかっています」
 サーシャは寝台から身を乗り出した。微かに震えていることに気が付いた。
「仰ることはわかります。でも、選ぶのは彼本人でしょう? わたしたちがここで言い争うことではないわ」
 真摯に語ったが、タチアナは頷くどころか、笑い出しそうな勢いで目を見開いた。
「選ぶですって? あなた、あたしと対等だとでも思ってるの?」
 胸を掴まれたような気がした。
「――どういうことです」
「皇女が臣下に指図をしておいて、でも選ぶのは本人だなんてきれいごとよ。あなたはただのわがままを言ったつもりでも、イリヤにとってそれは命令になるのよ。逆らえるはずないでしょう」
 掴まれた胸を、そのまま握り潰されたような衝撃だった。
 選ぶのは本人だなんてきれいごと。
 逆らえるはずがない。
 サーシャが皇女である限り、イリヤは自分の意思を通せない。
「従者一人にこだわって国境の外まで追ってくるなんて、それでも次代の女帝なの? 自分のわがままがどれだけ周りに影響を与えるか、考えなかったの?」
 タチアナは続けた。
「あなたがこの国に残る以上、イリヤは臣下として守らないわけにはいかないでしょう。足手まといもいいところよ」
(……どうして)
「早く一人で帰ってちょうだい。また倒れたりしないうちに」
 タチアナの声が低く響く。僅かに俯いて上目遣いで向けられる視線は、ぞっとするほど冷たく美しかった。
「イリヤじゃなくても、帝国にはご立派な臣下がたくさんいるのでしょう? 彼らに傅かれて平穏に暮らしたら? お姫さま」
 青い瞳が宝石のように光り、視線を捕らえた。
 サーシャは見開いた目のまま、しおれるように俯いた。
 立ち上がる気配がして、タチアナは足音も立てずに離れていく。扉の閉まる音が耳に響いた。
 暗くなりかけた空には、月光のベールが広がり始めている。
(……どうして、気付かなかったのだろう)
 やっとわかった。
 なぜイリヤが、仮面のような笑顔しか向けないのか。臣下が皇女に本当の表情を見せるはずがない。
 どうして一言も告げずに、皇宮から消えたのか。個人的な事情など話してくれるはずがない。
『国の上に立つ者は、国以外のものを愛してはいけない?』
『皇女であるわたしは、一人の娘として一人のひとを愛してはいけないの?』
(あのとき答えてくれなかったのは、答えが「いけない」だったからだ)
 愛していいはずがない。そんなことが許されるはずがない。
 一言でも何か頼めば、それは命令になってしまう。側にいれば、守らなければならないものを増やしてしまう。
(わたしは、側にいるだけで、あのひとの枷になってしまう)
 伏せた目を閉じた。
 訪れた夜は暗く冷たいが、吹雪はやんで窓の外も静かだった。降り積もった雪が氷のようにこの古城を覆っているのだろう。
 側にいた鳩が、小さく羽ばたいた。



 雪の積もった朝は、眩しいほど明るい。白い光が目に突き刺さる。
 サーシャは女官が来る前に着替えを済ませた。皇宮を出るときにマリアが用意してくれた服装。質素な外套を羽織り、頭巾は丁寧に畳んで懐にしまった。装飾品はある限り身に付けた。髪を結ぼうと思ったが、手頃な紐がなかったので下ろしたままにした。
 すべて備えると、部屋に忘れ物がないか確かめる。寝台は整えたし、窓も閉めた。
 最後に、傍らの籠から伝書鳩を出してやる。
 一年前からすべてを見てきた、唯一の証人。イリヤがどれだけ遠ざかっても、この鳩だけはその距離を繋いでくれる気がした。
 イリヤが皇宮から消えても、この鳩は残っていた。一緒にこの国まで来てくれた。再会の手がかりももたらしてくれた。
「ありがとう」
 サーシャは呟いた。
「あなたを、返さなくてはね」

「帰れとは言わないのか」
 ニコライが視線を下げたまま聞いた。イリヤは彼を見下ろし、首を振る。
 中央棟と奥の塔を繋ぐ渡り廊下。一昨日の晩、短剣がサーシャを襲った場所だ。
 柱に刃の跡を認めると、ニコライは立ち上がった。
「言わないんじゃなく言えないんだな」
「どんな個人的感情であれ、この国まで来たのは殿下のご意思ですから」
「臣下から帰れと命令はできないよな」
 できるなら、あんな目には遭わせなかった。派閥争いも暗殺の刃も近付けはしなかった。心身共に倒れるまで疲れさせたりしなかったのに。
 イリヤはニコライの後ろに立ち、短剣の跡を見つめる。
「昼に摂政殿が見に来ると思うけど、そのときの状況とか、はっきり覚えて――」
 ニコライの語る声が途切れた。
「どうしました?」
「――あれ、お前のか」
 ニコライは空洞の窓に手をかけ、廊下から見える宙を指差した。一羽の鳩が、ゆっくり羽を動かしながら向かってくる。
 だがイリヤの視線は、その遥か向こうに吸い寄せられた。
 渡り廊下の側には背の高い木が並び、生い茂る葉が視界を遮っている。その間を潜り抜けた下の庭に、細い影が立っていた。
「サーシャさま?」
 声を上げると、影は鳶色の髪を揺らして顔を上げた。
 イリヤは考える間もなく、窓枠から離れ階段へ向かっていた。

 鳩が飛び上がった瞬間、胸が締め付けられた。この行く先にイリヤがいると、直感でわかったからだ。
 渡り廊下から見下ろしていたイリヤの姿はもうない。すぐにここへ下りてくる。
 サーシャは深く息を吸い込んだ。咽の奥が冷たい。
 あのときと同じだ。イリヤがただの誘拐犯だったころ、感情に任せてさらってほしいなどと頼んだときと。
 イリヤの姿が見えた。
 サーシャは一年前と同じように、少しずつ歩み寄った。
 やはり同じように、緊張が胸を刺し貫いた。
 だが、これから言うべきことは同じではなかった。まったく逆のことだった。
「どうか、されましたか?」
 数歩離れて前に立つと、イリヤが聞いた。
「あの子を返そうと思って」
 サーシャはイリヤを見上げながら、手を掲げて渡り廊下を指差した。伝書鳩がおとなしく止まっている。
 イリヤは鳩を見て、サーシャを見た。
「持っていていただいても構いませんが。国から連れてきたのでしょう」
「もういいの」
 サーシャは目をそらすまいと、しっかりイリヤを見上げた。見慣れた青い瞳がすぐ側にある。手を伸ばせば届くところに。
 だが、手を伸ばすわけにはいかない。
「イリヤ」
 青い目が見開くと同時に、サーシャは言葉を押し出した。
「わたし、レストワールに帰るから」
 雪の白さが一瞬で視界を支配する。
 サーシャは決して俯かず、表情を歪めないように精一杯努めた。笑うのがこんなに難しいなんて、考えたこともなかった。
「一人で帰るわ。あなたは来なくてもいいから」
「サーシャさま……?」
 青い瞳が微笑みを消し、サーシャを見下ろす。
 サーシャは決して目をそらさず、上げた顔も下ろさなかった。皇宮で皇女として人と話す時のように、背を伸ばしてまっすぐに立っていた。
 見下ろすイリヤは、聞き返す言葉もなく立ち尽くしている。
 サーシャは沈黙を作らせず、頭の中で何度も繰り返した台詞を声に出した。
「皇女誘拐の求刑は、これで終わりました」
 胸が押し潰されそうだった。
「あなたを解放します。一年間ご苦労さまでした」
 言い切った瞬間、渡り廊下から伝書鳩が羽ばたき、二人の頭上を飛んで行った。
 イリヤはそれを見送り、朝未だきの空をしばらく見上げている。
 サーシャはそのことに感謝した。ずっと目を合わせていたら、何を言ってしまうかわからない。今も震えている。俯きたくなる。だが顔を上げたまま、黙って答えを待った。
 やがて、イリヤが視線を戻しかけた。
 サーシャは笑顔を準備した。
 このひとはきっと笑う。いつもと変わらない、穏やかな笑顔を見せる。この一年間、とうとうそれ以外の表情を見たことはなかったのだから。
 ただ一度、シーアに来たサーシャを見たときの、険しい顔を除けば。
「そうですか」
(ほら、やっぱり)
 向けられたイリヤの微笑を見た瞬間、確信した。
 自分は皇女。このひとは臣下。その決定的な差は、身分の違いなどではなかった。
「ご迷惑をおかけしました」
「いいの」
「気をつけてお帰りください」
「大丈夫よ」
 のどかに言葉を交わすと、サーシャは一歩下がった。胸の前で手を重ね、小さく頭を下げる。
「さようなら」
 イリヤは頷く代わりに雪の上に片膝を付き、深く礼を返した。その顔が上がらないうちに、サーシャは背を向けて歩いた。走り出した。
 強張っていた表情が次第に解けていく。張り詰めた糸が切れ、想いが波のように押し寄せた。
 誰よりも側にいてほしかったのに。
 手を伸ばせば届くところにいたのに。
 できなかった。
(枷になるくらいなら、わたしは離れるほうを選ぶ)
 即位式まであと十七日。皇冠を受けた自分の隣に、イリヤの姿はないだろう。

 伝書鳩が下りてきて、イリヤは手を差し出して止まらせた。
 走っていったサーシャの姿は、もう庭から消えている。雪の白さばかりが目に残った。
「なんで追わないんだ」
 鋭い声がして、振り向いた。ニコライが下りてきて、珍しく険しい顔を向けている。
 イリヤは笑いかけた。
「聞いたでしょう。わたしは首を切られたんです」
「あの子の言ったこと、本心からじゃないぞ」
「言われなくてもわかっています」
 無理をして声を絞り、無理をして笑っているのが痛いほど伝わってきた。あれほど素直で不器用で、偽りからは一番遠くにいるような少女が。
 口を塞いで遮ってやりたかった。だが聞き入れるしかなかった。
「本心でもそうでなくても、わたしから離れる気になったのはいいことです」
 これでやっと、巻き込まずにすむ。あとは皇宮まで無事に帰ってくれればいい。シーアの刃も自分の声も二度と届かない場所へ。
「危険に晒すくらいなら、手放すくらい簡単にできるってことか」
「できます」
「――おまえはいつもそうだよ。何を失っても平然としてる」
 嫌な奴、とニコライは呟く。
 イリヤは無表情で聞き流し、庭に背を向けて歩き出した。

――枷になるくらいなら、わたしは離れるほうを選ぶ――


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