Sasha [ 2−5−2 ]
Sasha 第二部

第五章 別離(2)
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「生きてたのか」
 一夜明けて早朝。
 執務室のニコライを訪ねたイリヤは、深く息をついた。
「天候の挨拶のように言わないでもらえますか? 他人(ひと)事だと思って」
「そんなに危なかったのか? 見たところ無事そうだが」
「……」
 心臓が止まるかと思った。引き止めるのが一瞬でも遅れていたら、サーシャは向かってくる刃をまともに受けていた。
 シーアの城内で。自分の目の前で。
「でも短剣一本で済んで良かったな。その後に集団で来られたら一たまりもなかったぞ」
「……そうですね」
「摂政殿は何だって?」
「主謀者を推定している最中です。話せることは話しましたが、落ち着いたら皇女殿下にもお聞きするそうです」
「それで?」
 ニコライは机に向かって書類を広げながら、顔を上げずに聞いた。
「どっちが狙われたんだ?」
「――わたしですね」
 身元も知れない他国の少女が、王城で狙われるはずがない。命を落として得する者があるのは、間違いなくイリヤのほうだろう。
 偶然側にいたサーシャが、その巻き添えになった。
 こうなることは予測できた。この国に留まらせる以上、完璧な安全など保障できない。
「顔が暗いぞ」
 ニコライに覗き込むように言われ、視線を上げる。
「大事な皇女さま傷付けるところだったもんな。暗くもなるよな」
「……なぜあなたは楽しそうなんです」
「楽しいさ。常に平然とした人間が沈んでるのを見るのは」
「……」
「これぐらい言わせろ。この騒ぎのおかげで秘書官のほとんどが情報収集に走ってて、日課の書類整理は全部おれに回ってくるんだ」
 ニコライが言い終わるか否か、小刻みの足音が近付いて来た。と思うとけたたましく扉が開いた。
「イリヤ!」
 長い金髪もとかしきっていないタチアナが飛び込んでくる。
「昨夜誰かに狙われたんですって? どうしてすぐ知らせないの!」
「摂政殿にはご報告しました。大したことはなかったので、騒ぎにならないよう朝まで内密に」
「あたし今聞いたのよ! 起きる前から女官たちがうるさいと思ったら、暗殺未遂があったって聞いて――飛び起きて――。大丈夫なの? 怪我は!?」
「幸い、紙一重のところでご無事でした。かなりお疲れのようで、今は奥の塔で休んでおられますが――」
「馬鹿っ!」
 金切り声が響いた。
「あたしが聞いてるのは、あのお姫さまじゃなくてあなたのことよ!」


 窓の外がすっかり明るくなった。女官が入れてくれたお茶を置いて、サーシャは深く息をついた。
 だいぶ落ち着いたものの、昨夜のことを思い出すと震えが背を襲う。目の前をすり抜けていった細い光が頭から消えない。
 これほど参ってしまうとは思わなかった。十五年間も少年を演じてきたのだから、普通の姫君よりは骨のあるつもりでいた。
 だが、実際はこうだ。昨夜は一睡もできなかった。
 皇宮での生活がどれほど安全で平穏だったのか、思い知らざるを得なかった。
(だめ)
 サーシャは叩くように両頬を押さえ、目を閉じた。
(しっかりしなくちゃ)
 このくらいで怯んでいる暇はない。危険も苦労も覚悟でこの国に残ったはずだ。
(でも――)
 政権争いはまだ解決しそうにない。即位式まであと十八日。イリヤと帰れる見込みは、どんどん遠ざかっていく気がした。
 目を開けて、自然と下を向く。
 そのとき、扉を叩く音がした。
「おはようございます」
 扉が開くと、イリヤが立っていた。
 応えようとして、後ろにも人がいることに気付く。イリヤが入り口を開けると、その長身の男はゆっくりとした歩調で入ってきた。
「そなたが、帝国から来た娘か?」
 椅子から立ち上がったサーシャは、彼の灰色の瞳に見入る。
「はい。サーシャと申します」
「この国の摂政だ。昨晩は大変な目に遭わせたな」
 セルゲイは無表情でサーシャを見下ろした。
「いいえ……」
 サーシャも答えながら彼を見上げる。
 近くで見るのも、こうして直接話すのも初めてだ。これがシーアの政権保持者。タチアナの実父で、イリヤの育ての親。女王の婚約者だった人。
 表情は先程から少しも動かず、発する声も抑揚なく落ち着いている。無機質な人だと思った。
 会話が止まっているうちに、扉が閉まった。部屋の中には摂政とイリヤの他、後から入ってきたタチアナと、文官らしき臣下たちが二人ほどいる。

「とにかく、怪我がなくて何よりだった」
 一通り話し終えると、セルゲイは少しも口調を変えずに言った。室内では文官たちがサーシャの話を記録し、イリヤが手伝っている。タチアナはセルゲイの隣で、始終黙って話を聞いていた。青い視線が少し痛かった。
「短剣を投げた人物は、まだ特定できない。おそらく新女王派の手先だと思うが。無関係なそなたに迷惑をかけたな」
「いえ……」
 首を振りつつ、サーシャは俯く。やはり自分はよそ者なのだ。この国のことに口を出せる立場ではない。
(思い上がりだった……?)
 レストワールの皇族として、この国でできることをしたい。
 偉そうなことを言った矢先に昨夜の事件が起きて、この様だ。人形と言われても反論できない。
「そなたは、帝国の皇女殿下の使いと聞いているが」
 サーシャは顔を上げた。文官たちの視線が集まる。イリヤも作業の手を止めて、二人のほうを見た。
「そう……ですが」
「アレクサンドラ殿下か。皇帝の一人娘の」
「はい。その方です」
 何気ない風を装いながら、セルゲイの目が自分に見入っているのに気が付いた。危うくそらしそうになったが、かえって怪しまれると気付いてそのまま視線を返す。
 国交のないシーアとは言え、セルゲイも一国の指導者だ。今まで彼に皇族としての顔を見せたことがあっただろうか。
 記憶が巡り切らぬぬうちに、セルゲイが視線を外した。
「いや。失礼した」
 サーシャは密かに息を吐き出した。
「とにかく」セルゲイは続ける。「このようなことになった以上、そなたがこの国にいるのは賛成できないな」
「でも……皇女殿下のお使いが」
「それはわかる。だがこの国は見ての通りだ。騒ぎが落ち着くまで今しばらくかかるだろう」
「……」
「殿下には申し訳ないが、我々も今すぐイリヤを返すわけにはいかない」
 サーシャは思わずイリヤを見る。イリヤも顔を上げ、目が合った。
「帝国の皇女殿下は、なぜそこまで彼にご執心なさる?」
 セルゲイの声が審判のように響く。
「それは……」
 女帝になる道を示してくれたから。
 これからも側にいて、支えてほしいから。
 想いが言葉となって現れては、消えた。頭がぼんやりして、目の前がかすむ。
「任務も大切だが、そなたに危険があっては殿下もお困りだろう」
 セルゲイの口調は相変わらず一本調子だ。
「大事に至らぬ内に、帰りなさい。旅の世話くらいはしよう」
「……ありがとうございます」
 気の入らない声で、頭を下げた。
 セルゲイはそれを見届けると、文官たちを促して部屋の扉に向かう。タチアナが一人、サーシャに視線を残していたが、やがて離れていった。
 頭の奥で何かが響いている。
 五感がはっきりしない。
 意識が別のどこかに行ってしまったようだ。地に足が着いている気がしない。
『大事に至らぬ内に、帰りなさい』
『我々も今すぐイリヤを返すわけにはいかない』
 言葉が呪文のように巡っている。振り払う気力すら、湧いてこなかった。
「――サーシャさま」
 すぐ側で小声が聞こえた。
「失礼致します」
 顔を上げると同時に、イリヤの手が目の前を横切り、額に触れた。その動作の意味がわからず、ぼんやりとされるがままに立っている。
 イリヤは手を離すと、囁くように言った。
「お疲れなのではないですか?」
「……え?」
「すぐにお休みになってください。――ひどい顔色です」
「……何を言ってるの? わたしは別に」
 答え終わらないうちに、視界がひどくかすんだ。前に立つイリヤの姿が、遠のいたり近付いたりする。頭が重い。
「サーシャさま」
 呼びかけが聞こえたのか、自分でもわからなかった。
 視界が斜めに傾いた。それから、何も見えなくなった。



『彼が消えた。少なくとも、皇宮にはもういない』
(――どうして?)
『今の殿下は従者一人に構っておられる状況ではないでしょう』
『イリヤの代わりの人間くらいこの国にはいくらでもおりますから』
(違う……)

――『何をなさってるんです!』
『……まさか、追ってこられるとは』
『わたしはしばらくレストワールには戻れません』
(わかっていたわ。……でも)
『――申し訳ありません』
(どうして謝るの……)

『皇女であるわたしは、一人の娘として一人のひとを愛してはいけないの?』

 微かな羽音が耳に届き、ゆっくりと瞼を持ち上げる。籠の中で羽ばたく鳩が目に入った。
「おはよう、お姫さま」
 身体の下にある柔らかいものが寝台だと気付き、サーシャは重い頭を起こす。足元の側にタチアナが腰を下ろしていた。
「もう起きられるの? 一日中眠ってたのよ」
「あの、わたし……」
「熱があったのよ。自分で気付かないなんて、どうかしてるわ」
 棘のある口調に少しずつ目を覚まされ、サーシャは自分の額に手をやった。まだ半分ぼんやりしている。
 枕辺の窓からは、西に沈んだ太陽の名残しか見えなかった。白銀の雪は既に灰色に変わりかけている。
 俯いている間にタチアナが腰を上げ、扉を開けた。
「お目覚めよ」
 入れ替わりに入ってきた人物に、サーシャは顔を上げた。イリヤだった。
 タチアナは姿を消し、扉が閉まる。
 無言のまま、イリヤは重い足取りで近付いてきた。枕辺から数歩離れたところで膝を付く。鳩が羽を広げ、短く鳴いた。
「起き上がっていいのですか?」
「大丈夫。もう熱も下がったみたい」
 積み重ねられた疲労が、今頃になって押し寄せたのかも知れない。慣れない長旅と北国の寒さ。驚いたり悩んだりの連続に加え、昨夜のあの事件だ。
 一言ずつ交わしたきり、沈黙が流れる。イリヤは床に視線を落とし、サーシャはやり場に困った目を鳩に向けながら、密かにイリヤを伺っていた。
「あの」
 不意に呼びかけると、イリヤは顔を上げた。
「あの……ありがとう。具合が悪いこと、気付いてくれて。自分でもわからなかったのに」
 イリヤは答えず、動かぬ視線を向けている。
「それから昨夜も。短剣から守ってくれたのに、まだお礼を言っていなかったわ」
 早口でまくしたてながら、サーシャは笑顔を作る。だが、イリヤの表情は変わらなかった。
「――感謝される覚えはありません」
「どうして」
 イリヤは無表情のまま、少し目を細めた。微笑ではなかった。
「――わたしに、帰れと言いに来たの?」
 声が低くなった。
 イリヤは答えない。
「足手まといだから? この国では役立たずのよそ者だから?」
「――サーシャさま」
「この国が大変なのはわかってるわ。あなたがすぐに帰れないことも。でも待っていることも許してくれないの?」
「そういうことではありません」
「じゃあ、どういうこと? どうして何も話してくれないの?」
「落ち着いてください」
「一緒に帰れないから? もうわたしの側にはいてくれないから――」
 叫びになりかけた声が、一瞬で止まった。
 床に膝付いていたイリヤが、いつの間にか立ち上がっている。視線をずらすと、差し出された右手が頬に伸びていた。
 口を塞がれたように、声が出ない。
 近付いてくる手の温かさが、冷たさが、少しずつ頬に伝わってくる。
 少しでも動けば、触れてしまう。
 サーシャは金縛りにあったように、ただ見上げることしかできなかった。
「サーシャさま」
 青い目が一層細くなる。
 頬に触れるか否かの瞬間、手は静止した。
「申し訳ありません――」
(……どうして?)
 聞く気にもなれなかった。
 やがて、伸ばされた手が力尽きたように離れてゆく。サーシャはその行方を追って、視線を落とした。
「失礼致しました」
 声に顔を上げる。いつもと変わらない微笑が、そこにあった。
「今日はお休みください」
 頷きも答えもしなかった。イリヤが笑顔を残し、背を向けて歩き出す。動かないサーシャの前で、扉は静かに閉まった。
(――どうして)
 声にならなかった言葉が、今になってこみ上げてくる。
(どうして謝るの。どうして何も話してくれないの)
 あの手が触れかけた頬に、自分の掌を当てる。
 謝るくらいなら、触れてほしかった。
 自分が問いかけた絶望的な言葉を、すべて否定してほしかった。
 一年前、鳩が見守る中でさらってほしいと頼んだときのように、受け入れてほしかった。
 伝書鳩は籠の中で、何があったのかも知らずに首を傾げている。
『皇女であるわたしは、一人の娘として一人のひとを愛してはいけないの?』
 ふと、思い返す。
(あのときの答えを、まだ聞いていない……)
 扉が再び開いたのは、そのときだった。
 サーシャはすぐ顔を上げたが、現れたのはイリヤではなかった。
「ごめんなさいね。ちょっといい?」
 いつになく丁寧な口調で、タチアナは言った。


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