Sasha [ 2−5−1 ]
Sasha 第二部

第五章 別離(1)
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 混乱が収まらないまま、会談は延期となった。新女王派はもちろんのこと、遺産の話を初めて聞かされた摂政派の人間も、複雑な面持ちを隠せなかった。

「どうしてあたしに言ってくれないの」
 金髪の摂政令嬢は、微笑みのかけらもない顔で言う。
「そんな重大なこと、あたしに一言も話さずに!」
「すみません。あの会談で持ち出すか否か、決めかねていたので」
「じゃあ前もって相談してよ。父さまにだけ話して、あたしには黙ってるなんて」
「すみませんでした」
 イリヤは苦笑しつつ呟いた。
「言い出すにしても、時と場合が絶妙だったな。面白かったけど」
「面白がってる場合じゃないでしょ!」
 一人椅子に座っているニコライに、タチアナが怒鳴る。サーシャはその隣で、ニコライが指に乗せて遊ぶ鳩を見つめていた。
「賢いよな、これ。ここまで仕込まれた伝書鳩、なかなかいないぞ」
「すぐにどこかへ行ってしまうけど」
「それでも戻ってくるのが利口な証拠だよ」
 鳩は褒められたと気付いたかのように、首をきょろきょろさせて鳴き声を上げた。
 会談の後、目まぐるしくやってくる訪問や書簡を片付けているうちに、王城はすっかり夜の闇に沈んでいた。
 真冬のシーアは、ほとんど毎晩吹雪に見舞われる。分厚い窓が風で揺れる向こうには、氷のかけらが吹き荒んでいるに違いなかった。
 対照的に、王城の室内は暖炉の温かさで満ちている。摂政令嬢が持つ居間の一つだ。
「それで、女王の遺産って」
 タチアナが呟いた。
「何なの?」
「わたしも知りません。レストワールの使者から遺言を聞いただけですから」
「そうだわ、その使者ってどこにいるの? その人が出てきたらすべて解決するってことじゃないの」
「わからないんです。七年前に一度会ったきり、皇宮でもそれらしき人物は見かけませんでしたし」
「皇女さまは何か知らないのか?」ニコライが聞く。
 サーシャは首を振った。
「そんな人がいたことさえ、初耳でした」
「そうでしょうね。皇宮育ちのお姫さまなら」
 タチアナが横から言い、サーシャは俯いて口を閉じる。
「――第一」イリヤが言った。「その使者が出てきても、何も話してはくれないでしょう。遺産を見出した者に王統を委ねるという遺言です」
「その使者を誰かが買収したら? 遺産の在処なんてすぐに聞ける」
「まさか! 新女王派も遺産のことは今日知ったのよ」
 女王の遺産を見付けた者が、シーアの王統を継げる。だがその在処を知るのは、レストワールの消えた使者のみ。
「その使者が、預かった遺産をシーアに残して行ったとすれば、彼はもうこの国には戻って来ないんじゃない?」
「その可能性が高いですね」
 タチアナの言葉をイリヤが受ける。
「重要な秘密を握っているわけですから、それこそ買収などされないように」
「皇宮にいないんだったら、もう官職からも離れているかも」
「そもそも生きていなかったりしてな」
「やっぱり、遺産を見つけるしか進みようはないのね……」
 タチアナが呟いたきり、四人は黙って顔を見合わせる。
「もし、シーアにあるとしたら」
「神殿か」
 タチアナが言いかけ、ニコライが引き継いだ。
「そうとしか考えられないわね」
「だとしたら厄介だな。女王の神殿なんて虫一匹入れさせない厳重警備で、摂政殿さえ自由に出入りできないんだろ?」
「そう。誰にも簡単に手は出せない。でもそれを乗り越えて遺産を見付けた者こそ、シーアの王統を手にできる。筋が通ってるわ」
「だからって、神殿に押し入って遺産探しに行ける人間なんているか?」
「ウラジミル大臣ならやりかねないんじゃない」
「あの」
 軽快な話し合いが途切れた。黙って聞いていたサーシャが顔を上げ、口を挟んだのだ。二人は話をやめ、サーシャを見た。
「一つだけ聞いてもいい? 会談の時からずっと不思議だったの。新女王派の言っていることって、絶対に矛盾してるわ。古王国の伝統を守ると言っておいて、実際は政権を手にするためなら神殿も侵しかねない勢いなのでしょう? わたしを帝国の魔女と偽って民衆を騙したり、王家に何の血縁もない娘を女王に推したり。伝統を汚しているのはあの人たちじゃないの」
 タチアナがイリヤに視線を向ける。イリヤは無表情のまま、目をそらしただけだった。
「そうよ」
 タチアナは言った。
「新女王派の連中はね、本当のところ伝統なんてどうでもいいの。ただ政権が欲しいだけ」
「それじゃ」
「神権政治に固執してるのは、新女王派じゃなく平民たちのほうよ」
 サーシャの表情が凍り付いた。ニコライが軽く息を吐き出し、肩をすくめる。イリヤは相変わらず表情一つ動かさなかった。
「あなたも知ってるでしょう。シーアはレストワールの新興によって領地も国力も削ぎ取られ、弱小国家として大陸で孤立した。それでも平民たちは女王を神の使いとして崇め、祖国を見捨てなかった。そうるすしかなかったのよ。この国は古く美しいけど、弱いから」
 サーシャの目が少しずつ見開いていく。国境を越えてから見てきた光景の一つ一つが脳裏を過ぎる。
 白い石像のような街。古くから純血を守ってきた、美しい人々。帝国の人間に蛇を見るような目を向けた民衆たち。
「『この国は神に守られている』。その誇りだけが、シーアの民を支えているの」
 タチアナの声が、真冬の夜の静けさに響いた。
「新女王派なんて、それを利用して都合よく政権を動かそうとしているだけよ。父さまの改革に対する一番高い壁は、政権争いよりも平民の人心でしょうね」
 サーシャは側にあった椅子の背もたれに手をかけた。もう片方の手は胸の前で握り締める。
(シーアをこの状況まで追い詰めたのは、わたしの父祖だわ)
 初代レストワール皇帝を名乗ったアレクサンドル一世は、武力で大陸を統一し、古王国を北端に追いやった。サーシャの父帝より三代前のことである。その基盤の上に、皇家は成り立ってきた。そして自分がいる。
 レストワールの次期皇帝。
 女帝と呼ばれることになる自分が今、シーアのこの地に立っている。
 二国の間には、今も昔も国交はほとんどないという。
 だが。
「タチアナ嬢」
 呼ばれたタチアナと、彼女と話していたニコライと、やはり無表情で黙っていたイリヤと、誰が一番早く振り向いたか。
 サーシャは三人の視線を受けながら、まっすぐタチアナを見た。
「お願いがあります。あなたの父君とお話をさせていただけませんか?」
「父さまと? あなたが? 何のために」
「レストワールの皇太子として、摂政殿とお話がしたいのです」
「――殿下」
 真っ先に声を上げたのはイリヤだった。
 険しい視線が痛いほどわかる。
 だが、サーシャはタチアナから目をそらさなかった。
「お願いします」
「あたしは反対よ」
 タチアナは言い切った。
「あなたが首を突っ込んだところで何ができるの? 自分の祖先がひどいことをしましたと、頭でも下げるつもり?」
「そんなことは」
「あなたにその気がなくても、平民は間違いなく思うわよ。帝国のお姫さまが、ご親切にこの国をお助けくださるってね。反感を買うのは目に見えてるわ」
「わたしはただ……隣国の皇族として何かできないかと」
「無理だよ。おれも反対だ」
 ニコライも鳩を撫でながら言った。
「摂政殿が帝国の人間を城に迎えたと知られたら? 新女王派どころか、国中の非難が集まる。場合によっては、皇女さまが危険にさらされることになるんだ。それに、皇族としてこの国に口を挟むのは内政干渉だ。侵略の先がけとも取られなねない」
 ことごとく否定され、サーシャは二人を交互に見る。言われたことはどちらもその通りで、反論できなかった。
 最後にイリヤを見た。彼は黙って視線を外し、ゆっくり首を振るだけだった。



「じゃあおれ、官舎に戻るから」
 タチアナの部屋を出て、三人は隣の中央棟へ渡った。ニコライは同じ敷地内とはいえ、別の建物に部屋を与えられている。
「皇女さまは奥の塔だろ? 遠いから送ってもらいなよ?」
「え。わたしは別に」
「いいから。ちゃんと送って行けよ、イリヤ」
 彼は颯爽と言い残し、螺旋階段の下に消えた。
 言葉につまり、サーシャは目を合わさない程度にイリヤを見上げる。彼は消えてしまった蝋燭に火を灯していた。
「あの、わたし」
「お付きしますよ」
 振り向いたイリヤは、久しぶりに見る笑顔だった。少しほっとして、途端に不満が残る。
(一年前もそうだった。このひとの笑顔は、無表情と同じだ)
 燭台の明かりに促されて歩きながら、サーシャはイリヤの背を睨む。
(いいえ。無表情より、もっとたちが悪い)
 あの笑顔は仮面であり、壁なのだ。穏やかなようでいて、決して本心を読み取らせない。愛想がいいように見えて、人を寄せ付けない。
 一年間。命令通り仕えてくれたにも関わらず、距離が広がった気がするのはそのせいだ。あの笑顔を向けられるたび、イリヤが自分との壁を高くしている気がした。
(どうしてなの)
 サーシャは見つめた。
 今だって、追ってきたサーシャを帰すことしか考えていない。次期女帝としてシーアに関わることすら認めてくれない。
「あの」
 中央棟と奥の塔を結ぶ、渡り廊下に差し掛かった時。
「わたし、やっぱり摂政殿とお話したい」
 廊下の左右には、大きな窓が空洞となって並んでいる。雪はやんでいるようだったが、冷たい風が手放しで首元を襲った。
 イリヤが声に振り返る。蝋燭の火が風になぎ倒され、一瞬で果てた。廊下を照らすのは他の塔からの明かりと、雲の晴れ間から見える冴えた月だけ。
「無理です」
 イリヤは微笑を消し、淡々と言った。
「あなたをこの国の問題に巻き込むわけにはいきません。あの二人の言うことも聞いたでしょう」
「わたしはそうしたいの。わたしが考えたの」
 サーシャは息を飲み込み、再び続けた。
「わたしは、次代のレストワール女帝として、この国でできることをやりたいの」
 イリヤの表情は動かない。消えた蝋燭から煙が上がり、月明かりに細い線を描いた。
「あなたは賛成してくれると思った。助けてくれると思った」
 サーシャは声を落とし、今にも叫びそうな自分を抑えた。だが、一年前の自分の声は否応なく脳裏に響く。
『これからも側にいて、わたしのなすべきことを助けてくれる?』
「――申し訳ありません」
「どうして謝るの?」
 サーシャは言った。
「どのことを謝っているの? 今までのこと? 今のこと? それとも」
 これからのこと。
 言いかけた言葉を押し込める。口にした途端、それが真実になってしまうような気がした。それは一年前の約束を、面と向かって否定されたのと同じだ。
 肩が震える。
 足元が冷たい。
 月の光が目に突き刺さる。
 サーシャはそれでも動かずに、イリヤの答えを待った。
 返ってきたのは、歓喜も失望ももたらさない言葉だった。
「進みましょう。ここは寒いですし」
 そう言ったイリヤは、もちろん微笑を浮かべている。
 サーシャは一瞬だけ俯き、そして走った。追い抜いた先で振り返って、立ち止まる。
「ここでいいわ。この階のすぐ入り口だから」
 イリヤは微笑のまま頷いた。
「ゆっくりお休みください」
「わかってる。おやすみなさい」
 鳶色の髪を翻し、サーシャは背を向けた。目頭が痛い。もう、あの笑顔を見ていたくない。
 一度も振り返るまいと、サーシャは廊下の終わりへ足を急いだ。
 そのときだった。
「――サーシャさま!」
 振り返る間もなく、二の腕を手が掴んだ。後ろに強く引き寄せられる。倒れそうになるのをイリヤの腕が支えて止める。
 瞬間、目の前を閃光が走り抜けた。
 右から左へ。地と平行に宙を切り裂く細い線。
 それが消えたかと思うと、木を叩くような鈍い音。
 サーシャの表情は凍り付き、瞬きもせず目が見開いた。
 声が出ない。震えも感じない。
 後ろからイリヤが支えていなければ、立っていることもできなかったかも知れない。
 月明かりに光を放つそれは、美しい彫像のように静止している。
 サーシャは見開いた目を、ゆっくりとそれに向けた。
 細い短剣が、目の前の柱に突き立っていた。


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