Sasha [ 2−4−2 ]
Sasha 第二部

第四章 二つの会談(2)
[ BACK / TOP / NEXT ]


「――本当に、ごめんなさい」
 サーシャは頭を下げた。
 ほぼ一日ぶりに顔を合わせたイヴァンは、さして表情も変えずに細い目で見つめる。
「別にあんたが謝ることもないがね。災難に遭ったそうじゃないか」
「はい……あなたを待っていたら、連れ去られてしまって」
「こっちも災難だったよ。戻るなりあんたが消えてて、探すのに昨日丸一日潰された。本当なら今頃はレストワールへの帰り道だったんだがね」
「ご、ごめんなさい。わたしのせいで……」
「いや、だから謝ってもらうこともない」
 イヴァンは淡々と話し、パイプに火を点けた。嫌味なのか親切なのかわからない男である。
 二人は、シーアの王城の中央部を通る回廊に立って話していた。精巧な石で組まれた柱が並び、外観よりいくらか凝った造りになっている。それでも、冷たく荘厳な静寂は変わらない。
 イヴァンは煙を吐き出すと、高い天井に目をやりながら言った。
「それで? 想い人は見つかったかね?」
「……」
 サーシャは黙って、小さく頷いた。
「一緒に帰れそうかね?」
 唇をぎゅっと閉じて俯く。ゆっくりと首を振った。
「まだ……わからないみたい」
「わからない?」
 サーシャは俯き、事情を掻い摘んで話し始めた。もちろん、自分の身分やイリヤの出生や、派閥争いの裏側など、公に出せないことはそれとなく伏せておく。
 イヴァンは煙を揺らしながら、興味があるのかないのか、眠そうな目で聞いていた。
「じゃああんたは、その男が一緒に帰ると言うまでここに居座る気か」
 サーシャは深く頷いた。
「彼はそれで納得してるのかね?」
「していないと思う……。とりあえずこの城に入れてもらったけど、折を見て帰すつもりだと思うわ」
「それでも待つのか。頑固な娘さんだ」
 イヴァンは呑気に言うと、首を左右に動かし、回廊を見渡した。
 サーシャはその前で頭を垂れた。
「ここまで連れてきてくれてありがとう。本当に、ご迷惑をおかけしました」
「おかけしました、ねぇ――」
 イヴァンが再びサーシャを見下ろす。煙を吐き出し、指先でパイプを弄びながら、何気ない風にこう言った。
「何も過去形で言わなくてもいいんじゃないのかね」
「え?」
「迷惑ならこの先もたっぷり(こうむ)らせてもらうよ。ここまで来たら道連れだ。おれもあんたの待ち人に付き合おう」
「――」
 サーシャは目と口を丸く開け、言葉をなくしていた。
「気に入らないかね?」
「――いえ」
 鳶色の髪を揺らして首を振る。
 異国人を嫌うこの国で、レストワールの人間はイリヤの他は自分だけ。そこに、国境から共に旅してきたイヴァンがいてくれれば、どんなに心強いか。
「でも、いいの? あなたもお仕事が……」
「構わんさ」
 イヴァンは言った。
「こちらで少々やることもある。ついでだから、あんたの帰りに合わせてやるさ。その代わり、宿は提供してもらえるよう、頼んでくれるかね?」
 サーシャは目を丸くしたまま、二つ続けて頷いた。



 木製の机上に書類が散らばっている。イリヤは一枚、また一枚と手に取り、切れ長の目を走らせた。
「――これで全部ですか?」
「ええ。明日の会談に出す分は、とりあえずこれだけ」
 タチアナが答えた。
 大きな窓から白い光が入り込む、冬の正午前。摂政の執務室に主はおらず、二人が机を挟んで立っている。
「大体わかった?」
「はい。書類上のことは」
「……これも?」
 タチアナは細い指で、紙切れの一枚を摘まんだ。イリヤは突き付けられた文字と、タチアナの顔を見比べる。
「……あなたは、それでいいんですか」
「何が?」
「完全な政略結婚ですよ、これは。摂政殿の改革のためとは言え」
 書類の上には、摂政の一人娘と、女王の血を引く若者の、夫婦統治案が記されていた。
「いいわよ」
 即座にタチアナは答えた。
「政治家の娘として生まれた以上、こうなることは予想できたわ」
 整った唇ではっきり意思を語る、十七の娘。その深い瞳が少し細まり、イリヤを見つめた。
「……それにね、相手があなただから。異国の知らない男に嫁ぐんじゃないから。あたしは平気」
 沈黙が流れる。
 イリヤは黙ったまま書類を受け取り、視線を落とした。
 王族や貴族の娘は、家同士の利害の一致のために嫁ぐのが通例。本人の感情が通ることのほうが珍しい。
 レストワールの亡き皇后も、タチアナの母親も、パヴェル公の正妻も、皆その宿命を辿ってきた。唯一、それに背いた前例と言えば、シーアの最後の女王くらいしか思い当たらない。
「あなたはどうなの」
 タチアナが毅然としたまま聞いた。
「はい?」
「本当に、こんなことになってもいいの?」
 青い瞳が一瞬だけ凍り付く。
「実際にどうなるかは、別として」
 微笑が戻り、イリヤは答えた。
「一案としては構いません。感情より実益を優先させるのは、得意ですから」
 タチアナは少し笑う。
「その言い方、限りなくあたしに失礼だと思うんだけど」
「あ、いえ。そういう意味では」
「わかってる。実益という点ではあたしも同じよ。政略結婚って、共謀みたいなものでしょう」
 タチアナは散らばった書類をまとめながら、凛とした表情で続けた。
「あたしね、父さまは、始めからあたしたちをこうするつもりだったんだと思うわ」
「摂政殿が?」
「父さまはイリヤを引き取ってすぐに母さまと結婚した。女王との婚約が破談になったばかりなのにね。そしてあたしが生まれた。その時から、あたしたちを将来夫婦にして統治者にするつもりだったんじゃないかしら」
 正妻との間に生まれた一人娘を、セルゲイは決して、深窓の令嬢のようには育てなかった。上流の娘にしても珍しいほど厳格に教育され、女には必要ないと言われる学問を叩き込まれた。身分を考えれば男兄弟とは別に育てられるのが常識であるが、血の繋がらないイリヤと共に学び、共に遊ぶことが許された。
「どれもこれも、夫婦統治者の養成だと思えば納得がいくわ。それに考えてみれば、恋人同士より兄妹のほうが政略結婚としてはうまくいきそうだし」
 確かに、利害の一致からの婚姻なら、無駄な感情はなくお互いを理解する仲のほうが都合がいい。
「――ひどい話ですね」
 イリヤは思わず言った。
 この話が本当なら、今、目の前にいるこの娘は、生まれる前から運命を定められていたことになる。
 だが、その娘は首を振った。
「ひどくないわよ。だから言ったでしょう。政治家の娘の宿命よ」
 宿命。
 イリヤの脳裏に、レストワールの皇宮を出る前に見たものが浮かんできた。束にするほどの書簡。女帝となる皇女への婚姻の申し込み。
『皇女であるわたしは、一人の娘として一人のひとを愛してはいけないの?』
「あのお姫さまはどうするの」
 唐突にタチアナが聞き、イリヤは我に返った。
「どうしたんですか、急に」
「ちょっとかわいそうだと思って。帝国からはるばるあなた一人を追ってきたのに、こんな話を聞かされて」
 書類に落ちるタチアナの目には、冷ややかなものが浮かんでいる。
「……あんなに怒らなくても良かったのに」
「予想外だったんです。まさか、即位式も近いこんな時にここまで来られるなんて」
「それで、どうするの」
「できる限り早いうちに、帰します」
 瞬く間も入れず、イリヤは答えた。
 タチアナが目を見開いた。
「……一人で?」
「はい」
「一緒に帰ってあげなくていいの?」
「それは別問題です」
「――イリヤ、何かむきになってない?」
「そうですか?」
 少し首を振り、微笑んで見せる。
「どちらにしろ、この問題が片付くまでわたしは戻れませんし」
「片付くまで?」
 深い青の目がいっそう見開いた。
「永遠に、になるかも知れないのよ。この切り札を使ったら」
 タチアナは書類を突き付ける。
「……むきになっているのは、あなたではないですか?」
 イリヤは書類を受け取り、穏やかに諭した。
 タチアナは上目遣いで睨んでいたが、やがて肩をすくめた。
「……いいわ。とにかく、この案は提出するから」
「はい」
「会談は明日の午後よ。そこで父さまたち摂政派と、ウラジミル大臣を筆頭とする新女王派が、初めて向き合って話し合うってわけ。うまく折り合いが付くといいんだけどね」
「付かない場合は、この切り札を提案すると」
「そういうこと」
 タチアナは言った。
「一緒に戦ってくれるわよね? シーアのために」
 イリヤは頷きも答えもせず、手にした書類を見つめた。
 そして幼いころ一度だけ会った、女王の顔を思い浮かべた。



 シーアの王城に一室借りたサーシャは、慣れない部屋で朝を迎えた。 都の中心とは思えないほど静かな城。窓の外では雪が白い光を放っている。
 部屋の作りは至って質素だった。寝台と、小さな円卓と、備え付けの棚がいくつかあるだけ。女王は神殿に住んでいたのだから、この城は歴代の摂政やその親族が暮らし、政事を行う場所なのだろう。
 サーシャは窓を半分開け、白い風景を見渡した。朝日は既に高く昇っている。冷たい空気が、氷の欠片のように頬を突いた。
 反対するイリヤを言いくるめ、サーシャがこの城にいられるよう手筈を整えてくれたのは、ニコライだった。城主であるセルゲイには、サーシャは皇女の使いでイリヤを探しに来たと話してあるという。
 即位式まで、あと十九日。
 すぐにでも一緒に帰れたらそれ以上のことはない。派閥争いが一刻も早く片付いたら……。
 昨日のタチアナの話が脳裏をかすめたが、考えないことにした。
(最後の切り札だと、そう言ったもの)
 扉を叩く音が響いた。歩み寄って開くと、金髪に青い目のタチアナが立っていた。
「おはよう、お姫さま」
 にこりともせず言い放つ。サーシャが会釈を返そうとしたのを遮り、早足で部屋の中に入ってきた。
「ずっと閉じこもってて退屈しないの?」
「だってわたし、この城を歩き回るわけにいかないから」
「今はこの階には女官くらいしかいないわよ。みんな会談で広間に集まってるから」
「会談?」
「そう。摂政派と新女王派が話し合うためにね」
 サーシャは瞬きした。早い話が、二つの派閥が直接対決するということだろう。
 だが、間違いなく重要人物であるはずのタチアナが目の前に立っていることに気付き、首を傾げる。
「あなたは行かないの? 摂政殿のご令嬢なのに」
「行けないのよ。シーアの公式の場は、女人禁制だから」
「え……」
 サーシャは再び聞いた。
「だって、女王が治める国なのに?」
「女王……ね」
 タチアナは、見下ろすように言った。
「その女王にどれほどの権限があるか、知ってるの?」
「え……?」
「シーアの女王は神殿で静かに暮らし、公衆には出てこない。政事は女人禁制。これがどういうことかわかる?」
「……」
「女王はね、お人形なのよ。神殿で平穏に暮らして、ただそこにいるという事実だけで民の畏怖を集めていればいい。そうして、歴代の摂政たちが実権を握ってきたってわけ」
 お人形。
 平穏に暮らす。
 ただそこにいればいい。
 それが、大陸唯一の女君主の実体。
 似たような話を聞いたことがある。それは、まるで。
(一年前までのわたしみたい……)
 身代わりの皇子と虚像の皇女を演じ分けるだけが、すべてだったあのころ。その状況から救い出してくれたのがイリヤだった。そうして世継ぎとして認められ、もうすぐ女帝になる。
 だが、本当の意味で“お人形”ではなくなったと言えるだろうか? 父に譲位されなければ守れないような地位。周りに任せておけばいいからと、重臣たちに何度言われたことか。
「あなたも他人事とは思えないでしょうね、お姫さま?」
 サーシャを現実に引き戻したのは、タチアナの鋭い視線と口調だった。
「もうすぐ女帝になる皇女が、従者一人を追って皇宮を抜け出して。呑気なものよね」
 サーシャは俯く。何も言い返せなかった。
 だが次に声を高めたタチアナは、思いがけないことを言った。
「会談、聞きたい?」
「え?」
「一緒に来なさいよ。あなただってこの国の問題は気になるでしょう」
 タチアナは身勝手に言い放つと、すぐに扉を開けて部屋から出た。サーシャは半ば引きずられるようにして、その後を追った。


[ BACK / TOP / NEXT ]

Copyright (C) Kizugawa Yui.All right reserved.