Sasha [ 2−4−1 ]
Sasha 第二部

第四章 二つの会談(1)
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 あのひとに会えたら、まずこう言おう。
 そう決めていたことが、数え切れないほどあったのに。実際は言葉を紡ぐどころか、数歩離れたところで動くこともできない。
 予定通りの再会を果たすには、あまりにも状況が状況だった。一度にたくさんのことを知りすぎて、頭がとっくに飽和状態を超えている。シーアの政権争いのこと、女王のこと。二十年近く前にこの国で起きたこと。そして今、イリヤの隣にいる金髪の女性は何と言った?
 足元がしっかりせず、まだ旅道中の夢の中にいるようだ。
 一方、神殿の前に立つイリヤも、その場に立ち尽くしていた。表情は凍りついたまま動かず、目は捕らえられたようにサーシャに見入っている。
 当然だろう。イリヤにしてみれば、サーシャがこの場にいるのは有り得ないことなのだから。
 視線をまっすぐ向けたまま、彼は再び唇を動かした。
「サーシャさま」
 その声を聞いたサーシャはようやくこの場の現実感に目覚め、イリヤのほうに駆け寄ろうと足を踏み出した。
 だが、次の瞬間。
「何をなさってるんです!」
 予想だにしなかった声が襲った。誰が叫んだのか一瞬本気で考えたが、間違いなく前に立つイリヤだった。彼は早足で歩いてきて、サーシャの前に立ち止まった。
「どうしてあなたがここにいるのです。あなたは、ご自分の立場を何とお考えなのですか」
 それがイリヤのものだと理解に遅れるほど、その声は鋭く明らかに冷静さを欠いていた。表情や口調こそ普段と変わらず穏やかだが、視線や声色からただならぬ気配が伝わってくる。
「……怒ってるの?」
「当たり前です」
 イリヤは呆れたように肩をすくめたが、目はまだ厳しかった。
 別の人を見ているようだ。サーシャが知っているイリヤは愛想良く笑っているか、無表情かのどちらかで、感情を表に出すことなどまず有り得ない人だった。
「あなたのことです、周りの心配もよそにお一人で皇宮を抜け出して来られたのでしょう。即位式まで日がないこんな時に。ご自分のなさったことをわかっておられるのですか」
「わかってるわ。日数のこともちゃんと考えた。即位式までに戻るつもりで……」
「仮に式には間に合ったとしても、それまでの間にどれほどの人があなたを案じるかおわかりですか? もし、戻るまでにあなたに何かあったらどうなるとお思いなんです」
「わたしは、自分の身くらい自分で」
「守れるという保障がどこにあるんです」
 サーシャはただ目を丸くし、言われるがままになっていた。だが、次第に我を取り戻し始める。ここまで一方的に責められるのは納得がいかない。
「確かに無謀だったのはわかってる。でもそうさせたのは誰? あなたが急に消えたりするからよ。わたしがおとなしく皇宮で帰りを待つとでも思っていた?」
「黙って側を離れたことはお詫びします。でもまさか――」
 イリヤは一瞬だけサーシャを見つめ、目をそらした。
「……まさか、追ってこられるとは」
 イリヤの表情が微妙に動いたのを、サーシャは見逃さなかった。だが、それが示す感情まで読み取ることはできなかった。笑みなのか怒りなのか、何かを伝えようとしているのか隠そうとしているのかさえも。
 ただ、それはサーシャの胸を強く締め付けた。重く冷たいものが身体中に広がり始める。
(――どうしたの?)
 尋ねようと口を開きかけたが、声に出せない。
「もしもし。悪いけど、口挟んでいいか?」
 二人を沈黙から解放したのは、ニコライの軽い口調だった。すっかり存在を忘れられていた彼はいつの間にかサーシャの隣に立ち、意味ありげに笑っている。
「やっぱり、君が皇女さまか」
「――あ」
「ニコライ」
 イリヤが声を上げた。
「あなたがここまでお連れしてきたんですか」
「睨むなって。おれが昨日からウラジミル大臣の館に密偵に行ってたのは知ってるだろ。この()とはそこで会ったんだよ」
 イリヤは険しい顔で、サーシャとニコライを見比べる。
 サーシャは俯いた。何から話せばいいのか、何から聞けばいいのかわからない。
「とりあえず、改めて自己紹介でもしないか? そこで石になってるタチアナも含めて」
 ニコライの言葉を聞いて、サーシャは神殿の前に立ち尽くしている金髪の娘を見やった。先程から確かに石のような沈黙を守り、二人のやりとりを見つめていた女性。
 サーシャが遠目に見ていると、タチアナは硬い表情のまま歩き出した。イリヤの隣に立ち、サーシャと向き合う。背はサーシャより指一本分ほど高い。彫りの深い端正な顔立ちだった。だがその顔はサーシャに見入ったまま、わずかに歪められている。
「この娘が、皇女……?」
 タチアナは呟いた。



 ニコライが軽口を交えて経緯(いきさつ)を説明しても、イリヤの表情は晴れなかった。
 朝日は高く昇り、丘から見下ろす城下町には盛んに動く人の流れが見え始める。
「……そろそろ帰らなくちゃ」
 タチアナが静かに言った。
 サーシャは立ち上がった彼女を見つめる。話を聞きながら、にこりともしなかった娘。年は一つか二つ上だろうか。
 イリヤは、摂政に呼ばれてこの国に戻ってきたという。先程の話が本当なら、タチアナと婚姻を結びシーアを統治するために。
「先に戻っていてくれますか?」
 イリヤの声は、タチアナに向けられたものだった。
「あたしとニコライでということ?」
「はい」
「わかった。父さまには適当に言っておくわ」
 タチアナはそう言うと、サーシャに視線を流した。品定めするような目が、サーシャを斜めに貫く。だがすぐにそらすと、向きを変えて丘を下り始めた。ニコライがその後を追う。
 神殿の前に残されたのは二人だけだった。
 サーシャは改めて、前に立つイリヤを見上げた。
 彼が消えたと連絡を受け、次の日に皇宮を抜け出し、国境まで四日かかり、更にシーアの都に着くまで三日。そして囚われの身で一晩が過ぎた。皇宮の居室で最後に言葉を交わした日以来、九日ぶりだ。
(声が聞きたかった。この青い目が見たかった)
 だが、その目は先程から神殿の高い壁に向けられており、サーシャをまっすぐ見ようとしない。
 サーシャも仕方なく神殿を見上げた。王城から離れた丘に立つ、古い石造りの塔。
「女王陛下の、神殿?」
 サーシャの声に、イリヤは振り向いた。
「大体のことはニコライ殿に聞いたわ」
「……驚かせて、すみませんでした」
 青い目が、やっとサーシャを見た。表情には微笑の欠片もなかったが、先ほど見せた険しさは消えていた。
「どうやってこの国を?」
「伯父上が教えてくださって……」
「そうですか」
 再び神殿を見上げた。前にある壁ではなく、更に遠い何かを見つめようとする目。
「今から二十年以上前――」
 イリヤは言った。
「シーアが衰退の道を辿り始めたころ、レストワールから使者が送られて来たそうです。目的は国交と援助。当時の皇太子殿下と、そのご正室が中心となられて」
 サーシャは改めて耳を立てた。二十年前の皇太子夫妻と言えば、自分の両親だ。今は皇位にある父と、物心つく前に暗殺された母。
「使者の中に若い貴族がいました。皇太子妃の兄で、次代の治世を支える有力者の一人と数えられていました」
 神殿を見上げるイリヤの目が細くなる。
「――その彼がどういう道を辿ったのか、神殿に住むシーアの女王と出会いました。そして数年後、二人の密通が露見し、帝国の貴族はシーアを追われた。これは聞きましたね」
 サーシャは浅く短く頷いた。イリヤの表情は相変わらず動かない。まるでおとぎ話か遠い歴史でも語るように話すイリヤが、どんな思いを抱いているのか想像も付かず、それだけに、どう反応を返せばいいのかわからなかった。
(帝国からシーアに来ていた伯父上が、ソフィア女王と出会った。そして生まれたのがこのひと……)
 皇宮でシーアの名を教えてくれた伯父の表情からは、そんなことはまったく汲み取れなかった。
 今、目の前に立つ女王の神殿は、静かで冷たい。ここで二十年前に何が起こったのか、どうして想像できるだろう。この神殿の中で一人ぼっちだった女王が、どんな想いで帝国の若者を愛し、どんな想いでその子を産んだのか。氷の神殿は何も伝えてこなかった。
 ただ、一つだけ思った。
(ソフィア女王はきっと、このひとと同じ青い瞳をしていた)
 静寂にいたたまれなくなって、サーシャは聞いた。
「十一までこの国にいたのでしょう? 女王のお側に?」
「いえ。生まれてすぐ、今の摂政殿に引き取られました」
「え?」
 聞き間違いかと思った。摂政と言えば、ソフィア女王の伴侶になるはずがなれなかった人。つまり彼は、婚約者と他人の子供を引き取ったということか。
「別に、悪意からではありませんよ。十一になるまでは、タチアナと分け隔てなく育てられましたから」
 サーシャの驚きを悟ってか、イリヤは微笑んで付け加えた。
 やっと笑ってくれた、と一瞬思ったが、すぐに先程の娘が思い浮かび、矢継ぎ早に聞く。
「それじゃあ、タチアナ嬢は」
「摂政殿と奥方のご息女です。わたしより一つ年下で、妹のような存在でした」
 妹。十年間一緒に育った、血の繋がらない兄妹。
「――この国に戻ったのは、摂政殿の改革を手伝うため?」
 声を落として、聞いた。
「はい。……申し訳ありませんでした」
 イリヤが律儀に頭を下げる。
 やっと話が聞けた。黙って離れられたのは今でも納得できないが、事情はわかった。当然だろう。シーアの摂政には育ててもらった恩があるし、何より自分自身が女王の血を引いているのだから。
 だが、まだ霧は晴れない。一番聞きたいことを、まだ聞けていない。
(タチアナ嬢との婚姻は、本当なの……?)
 胸にひどく暗い闇を溜め込んでいるようで、サーシャは自分が嫌になった。
 俯いているうちに、イリヤが言った。
「そういうわけなので、わたしはしばらくレストワールには戻れません」
 サーシャの目が凍り付いた。
 予想はしていた。ここまで聞けばわかることだった。
 闇が一層深くなった。サーシャは低い声で、聞いた。
「しばらくって、どのくらい……?」
「見通しが付きません。ですから、サーシャさま」
――先にお帰りになってください。
 予期した言葉を向けられる前に、サーシャは顔を上げた。
「わかった。わたしもここに留まる」
「――は?」
 イリヤの表情が固まった。
「しばらく戻れないんでしょう? じゃあわたしも付き合ってあげる。あなたが戻れるようになるまでここにいるわ」
「――待ってください」
 イリヤは半ば、遮るように言い切った。
「わたしはいつ戻れるようになるかわかりません。即位式まであと二十日余りです。あなたをこんなところに引き止めるわけには」
「二十日もあるわ。それに間に合うようにしてくれればいいのよ」
「第一、ここは安全とは言えません。帝国人だというだけでどんな目に遭うか……」
「一人で帰るのだって同じくらい危険だわ」
 サーシャは強い視線を押し付けた。先に言ったほうが勝ちなのだ。ここまで追ってきたからには、一人で引き返すつもりはまったくない。
「わたしをここに残すのが嫌なら、早く一緒に帰って。そのためにここまで来たのよ」
「――サーシャさま」
「即位式まであと二十日。あなたが側にいてくれなければ、わたしは女帝になれない」
 イリヤの表情が凍り付いていく。
 まるで子供のわがままだと、自分でも思う。それでもサーシャは、言い分を曲げる気はなかった。
 シーアまでイリヤを追ってきたのは、一つは話を聞くため。それが達成された今は、こちらの諸事情を片付けて、一緒に帰ることが全てだった。



「機嫌悪そうだな、タチアナ」
 隣を歩くニコライが、気遣わしげに、だがどこか楽しげに聞く。
「そんなに気に入らないのか、あの()が」
「当たり前よ。帝国の皇女殿下がどんな女性(ひと)かと思ったら、あたしより年下じゃない。従者一人いなくなったからって追ってくる? 世間知らずなお姫さまだわ」
「よっぽどイリヤに執着してるんだろうなあ」
 タチアナの眉が動いた。槍のような視線で突かれて、ニコライは笑いを浮かべたまま口をつぐむ。
「――かわいそうだけど、あのお姫さまには帰ってもらうわ」
 タチアナは熱のこもる声を絞った。
「七年も待ったのよ。また連れ帰されるなんて許さない」
「――ま、せいぜい女同士でやりあってくださいませ」
「何よその傍観者ぶり。イリヤが帰ってきて嬉しくないの。また帝国に行ってしまっても平気なの?」
「――いや。おれがどう思うかは別としてさ、あいつが……」
 言いかけて、目線が固まった。王城の入り口には普段通り、二人の番兵が立っている。だがその足元に、見慣れぬもう一つの影が居座っていた。
 タチアナもそれに気付き、二人は見合って首を傾げる。
 不審な人物は、石造りの古城には似つかわしくない、貧しい身なりの男だった。無精髭にパイプをくわえ、図々しくも城壁に身をもたげて腰を下ろしている。
 番兵に聞いたところ、夜明けの前に突然訪ねてきて、何度言っても動こうとしないのだという。
 タチアナは怪訝そうな顔をしながらも、身を屈めてその男に聞いた。
「ここの主の娘なんだけど。何かご用?」
 男は細い黒目を向けた。パイプを取り、煙を吐き出す。
「――人を探していてね。娘さん――あんたより少し若いくらいなんだが」
「――娘?」
「鳶色の髪に紫の目をした子だ。帝国から連れてきてやったんだが、途中ではぐれてしまってね」
 タチアナは再び、ニコライと顔を見合わせた。


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