Sasha [ 2−3−3 ]
Sasha 第二部

第三章 古王国(3)
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「どうやってあの牢を開けたの?」
「鍵や錠をいじるなんて日常茶飯事さ」
「どうして抜け道なんて知ってたの?」
「逃げ道を用意せずに敵地に乗り込む馬鹿はいないよ」
「閉じ込められていた他の人たちは?」
「大丈夫、ちゃんと逃がした」
「どうしてあんなところにいたの?」
「質問攻めだな」
 ニコライは苦笑した。
 真っ白な山の端から朝日が姿を見せる前。街は少しずつ、明るさを取り戻し始めている。人影はほとんどない。澄み切った空気の中、雪はその白い光を一層強く放っている。
 サーシャはニコライに連れられ、都の中央部を貫く街道を進んでいた。大通りだけあって建物は多いが、すれ違う人といえば早くから市を出す商人や、道掃除の子供くらいだ。黒い衣の若者と鳶色の髪をした少女の組み合わせが珍しいのか、それとなく視線を向けてくる。
「だってわたし、何も知らないもの。あなたのことも、この国のことも」
「ああ、そうだな。でもそれを言ったら、おれだって君のことは何も知らないんだぜ」
 ニコライは言うと、体勢を低くしてサーシャと目の高さを同じにした。
「……何?」
「イリヤは帝国で、皇女殿下に仕えていたって聞いてるんだけど」
 とっさに視線を外す。身分を知られているのだろうか? 落ち着いて息を整えて、再び彼を見るとゆっくりとこう言った。
「誤解しないでね? わたしは皇女さまに命じられてここに来たのよ」
「はいはい、わかってます。一国の皇女が、それも未来の女帝が単身でこんなところまで旅してくるはずないもんな」
 ニコライは納得した様子で、再び前を向いた。サーシャは密かに息を吐き出す。
「ただ、そうならいいなと思ったんだけどな」
「え?」
「君が帝国の皇女なら嬉しいって、思ったんだけど」
「……どうして?」
「さあ?」
 ニコライはわざとらしく首を傾げて、笑って見せた。それきり、この話題には触れなかった。
「――で、どこまで話したっけ」
「あなたが摂政派の人間で、敵対する新女王派の陣地へわざわざ出向いていたこと」
「そう。正確な地位を言うと、おれは摂政殿の秘書官なんだ。と言っても同じ肩書きの奴は束にするほどいて、一番若いおれは雑用係みたいなものでさ」
「それで密偵としてあの館へ?」
「そう。仕事と言えばそんな裏活動ばかりだ。敵さんの動向を探ったり、国外へお忍びの使いに出たり……」
 サーシャは顔を上げた。
 ニコライは視線に気付くと、軽く笑って言った。
「何を聞きたいのかわかるよ。そう、帝国までイリヤを引き抜きに行ったのはおれだ」
「あなたが?」
 サーシャは彼の碧眼を見つめた。
「それでは、あのひとは摂政殿に?」
「そういうこと」
 ニコライは再び、顔を前に向けた。
 大通りの向こうに、建物の間に見え隠れしてシーアの王城が立っている。まるで聖域を創るかのように、城下町から遠く離れて高い台地にそびえていた。石造りの荘厳な古城。朝日が放つ光の矢を受け、雪が金色に輝き始める。
「きれい……」
「見かけだけさ。中身は古びて腐りかけてる」
 ニコライはそっけなく言い放った。
「君も聞いただろ。新女王派の奴らから」
「派閥争いのこと?」
「そう――。摂政殿は神権政治を廃止するつもりなんだ。形だけの女王はもう必要ない。そのために七年ぶりにイリヤを呼び戻して、新政権を立てようとしているところだ」
「――待って」
 サーシャは足を止め、ニコライの横顔を見上げた。
「よくわからない。どうしてあのひとが摂政殿に呼ばれるの? シーアの派閥争いとどう関係があるの?」
 ニコライは隣で立ち止まり、細い目でサーシャを見下ろした。腑に落ちない表情をしていたが、やがて何か閃いたように口を開く。
「もしかして、知らないのか」
「何を?」
「いや――そんなはずない。あいつから聞いてないのか?」
「だから、何を?」
「おいおい、嘘だろ――」
 ニコライは目を丸くしたかと思うと、片手で額を押さえた。
「根本的なことを何一つ知らないのか」
「どういうこと?」
「シーアの政権争いの原因は?」
「女王陛下が、お子を遺さずにご崩御されたから?」
「そう。でも厳密に言うと、女王には子供がいなかったんじゃない。王位継承者としての条件を満たす嫡子がいなかったんだ」
「――え?」
「シーアの王位に就けるのは、女王と摂政との間に生まれた王女のみ。王子しか生まれなかった場合は、妃を迎えてそれを女王に立てる。ところが亡き女王と今の摂政殿は、世継ぎを儲けるどころか婚姻さえ結べなかったんだ」
「……」
「どうしてかわかるか?」
 軽快に話していたニコライの声が、やや低くなった。目を細め、サーシャに言い聞かせるように続ける。
「女王は、当時シーアに来ていた他国の男と密通していたんだよ」
 サーシャの肩が震えるように揺れた。
「おれもこの目で見てたわけじゃないけど、どれだけ国が揺れたかは想像が付くだろ? その男は身内や側近も含めて国外退去。それでも殺されなかっただけ奇跡的だよ。女王は王位こそ追われなかったものの、摂政殿との婚約は永久に破棄された」
「――」
 足りなかった駒が次々と埋められていく。あと少し。あと少しですべてがわかってしまう。だがその全貌は、すぐ受け入れるにはあまりにも信じ難いものだった。
「それから数月経って、女王は子供を産んだ。他国の血が入った不義の子だ。嫡子として認められるどころか、国中がその存在さえ否定した」
「――それは」
 サーシャの震えは極限に達した。
「もうわかっただろ?」
 ニコライは硬い声で続ける。
「女王と通じていたのは、レストワールの現在の西方領主。イリヤは女王が産んだ“帝国の血”だ」



 静寂が、その空間を支配していた。
 朝未だきの丘は氷のように冷たく白い。
 この国では、冷たさと静けさは常に同時に存在する。
 イリヤはゆっくりと、その石の壁を見上げた。丘の下から見るよりも遥かに高い、積み上げられた古い石の塔。硬く閉ざされた木の扉。最上階の天井のない壁は、厚い雪の層に覆われている。その下に開いた、小さな窓型の空洞。
「――変わらないでしょう?」
 隣に立っていたタチアナが静寂を破った。勝ち気な少女だった娘は、整った顔立ちで笑みをつくっている。
「いいえ――変わりました」
 女王のいない神殿には、何もなかった。
 音も、温度も、風も、時間も、光さえもこの空間を見放したかのように、ここには何も存在しなかった。命の芽吹きとはあまりにもかけ離れたところにある、氷の神殿。
「昔、二人でここに来たのを覚えてる?」
「女王にお会いしようとした時ですね」
「ソフィア女王が……イリヤの母さまだと知った時は、本当にびっくりした。イリヤはあたしと同じ父さまと母さまの子供で、あたしの兄さまだと信じて疑わなかったもの」
「――摂政殿には、本当に感謝しています。婚約者と他人の子を引き取るなんて、普通は有り得ませんよ」
「あたし、父さまがイリヤを女王から引き離したんだと思ったのよ。だからあなたを引っ張って、ここまで来たの」
「まさか本当に会えるとは」
「今でも覚えてるわ。ソフィア女王のお姿と、お声」
 タチアナは柔らかに微笑んで、古き神殿を見上げた。
「時間が経っちゃったのね……」
「――」
「あのころはあたしたち、親の創った時代の中で生きていたわ。でも今は、あたしたちが時代を創らなきゃいけなくなった」
 最後の女王がこの世を去って七年。変わったのは国なのか、それとも自分たちなのか。
 イリヤは神殿から目を離した。二人とも、もう笑ってはいなかった。
「シーアはむしろ、変わらなくてはならない。神権政治を廃そうという摂政殿の考えは筋が通っています」
「――反対する者さえいなければね」
「新女王派を説得するのは可能ですよ。王家の血統は事実上途絶えたのですから。新たな女王を立てるなどただの横暴です」
「……本当に、そう思う?」
 タチアナが、ゆっくりと声を発した。イリヤは表情を変えて振り返る。タチアナの目は落ち着いて、まっすぐだった。
「王統が途絶えたと、本気で思ってるの? 誰より確かな女王の血を受け継いでいるくせに」
「わたしは、シーアの者から見ればいないも同然ですよ」
 イリヤは少し笑った。
「女王の血を引いているにしても、もう半分は忌み嫌われる他国の……“帝国の血”ですから」
「そんなの理由にはならないわ。他国との混血が許されないのは、伝統であっても規律ではないのよ。自分が女王の血筋として認められないのを、理不尽だと思わないの?」
「――今更、そんなことは」
「いいえ、関係あるわ」
 タチアナは声を荒げた。
「新女王派を黙らせるためにはね、摂政の血とソフィア女王の血、両方が必要なの」
 真摯に語りかけるタチアナを前に、イリヤの表情は凍りつく。
「どういうことかわかるでしょう?」
「――」
「女王の血を引くあなたと、摂政の娘であるあたしが夫婦になって共同統治するのよ。そうすれば王統を守りながら、父さまも改革を進めることができる。父さまは本気よ。最後の切り札として、あなたをシーアに呼び戻したの。あたしと結婚させるために」
 タチアナの視線は痛いほど強くなり、細い手は裾の横で握り締められていた。
 その時だった。
 イリヤの目が、タチアナを超えた向こうで静止した。
 丘に続く道の上に、二つの影が立っている。大きい影と、やや小さい影と。二人は神殿の立つ台地に一歩踏み入れたところで、立ち止まっていた。
 小さい影はこちらを向いて、人形のように立ち尽くしている。細い肩、動かない手足。肩まで流れる鳶色の髪。少年のような中性的な顔立ちは表情を失い、紫の瞳だけが食い入るようにイリヤを見つめていた。
「サーシャさま……」


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