Sasha [ 2−3−2 ]
Sasha 第二部

第三章 古王国(2)
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 それから数時間、サーシャは地下のその部屋に放置されていた。後ろ手に縛られ、一つしかない木戸には外から鍵をかけられ。
 一緒に閉じ込められた鳩が、高い天井の下を飛び交っている。
 唯一、外の状況がわかるのは、高い窓から差し込む光と、木戸の向こうから聞こえる微かな人の声。
「――通りだ。帝国の娘が手に入った――」
「これから――。前に引き出す。ああ――役者はぴったりだ。何せ――」
 途切れ途切れにしか聞こえないが、自分のことを話しているのはよくわかった。
「――効果? ――が――とにかく、帝国の」
「もうあちらも動き出した。早いところ――追い出さねば」
 聞き耳を立てながら、仕入れた情報を頭の中で整理してみる。
 彼らは何かを企てていて、その道具としてサーシャを捕まえた。帝国の人間であり、鳶色の髪と紫の目をしているから。“魔女”役にはぴったりだと。
(見せしめということ? でも、何のために?)
 “帝国の血”を追い出すため。
 あの男はそう言ったか。
 シーアの民が帝国嫌いなのは知っている。
(でも、そんな個人的感情とは思えない)
 どこかで政治的な匂いがする。サーシャは思考を巡らせ、イヴァンから聞いたシーアの状況と歴史を照らし合わせようとした。
 まとまらないうちに木戸が開いた。
「付いて来い。お前の出番だ」

 両側から腕を取られ、木戸の外に続く螺旋階段を無理やり上らされたサーシャは、再びあの狡猾な笑みの前に立たされた。
「ご機嫌斜めのようだね、お嬢さん」
「当たり前です。わたしに何をさせる気なの。ちゃんと説明しなさい」
「何をということもない。ただ黙って立っていればいいだけさ」
「何かの見せしめにする気ね? わたしが帝国の人間だということと、どう関係があるの」
 男は乾いた笑い声を漏らし、背を向けて歩き出した。取り押さえる兵たちに引かれて、サーシャもその後に続いた。
 幾らか段は上ったが、まだ薄暗い石の壁の中。一つ角を過ぎたところで、サーシャは目を見張った。
 冷たい石の壁に鉄格子が組まれている。
(……牢?)
 一つ一つ区切られた狭い空間には、それぞれ人がいた。先まで並んでいるところを見ると、全部で十人ほどか。
 一番手前にいた初老の男が、格子の向こうからサーシャを見た。隣の牢にはまだ若い女性。
「この方々は……?」
 サーシャは声を落とし、前を行く男に聞いた。
「シーアの誇りを捨てた恥知らずどもだ。摂政のくだらん改革に力を貸そうとした」
「……摂政?」
「女王の婚約者だった男だよ。長年続いたシーアの伝統を覆そうなど……余計なことを考える」
 サーシャは記憶を探った。シーアは神の声を聞く女王が治める神権政治。だが数年前に女王が亡くなり、伴侶で補佐役だった摂政が実権を継いでいる……。
「――あなたがたは、摂政の政権に反対する者なの?」
「当然さ。女王が世継ぎを残さなかったとて問題ではない。私の娘が新たな女王として神にお仕えするのだ」
 では、シーアの政権は派閥争いの最中にあるということか。改革を推す摂政派と、保守に徹する新女王派と。
「ではこの人たちは、摂政派の?」
「その通り。折を見て公衆の前で処刑する」
「な……」
 背筋が粟立った。思わずすぐ側の牢に目を移す。中にいたのは、まだ三十にもならないであろう若い兵士だった。サーシャを一瞥すると、表情も変えずに顔を背けた。
「処刑なんて……何のために」
「決まっているだろう。摂政派の連中への見せしめさ。シーアの神に背いたらこうなると、示しを付けておかねばならん」
「神に背く? 現状に問題意識を持って改善しようとするのが、そんなに悪いことなの?」
「長年続いたシーアの伝統に、問題などあるものか」
「それがシーアの誇りなの? 伝統にしがみついて、異議を立てるものを端から消していくことが」
「減らず口を叩くな、小娘」
 男が振り返った。血走った目がサーシャを睨む。だが次の瞬間には、またあの狡猾な笑みが現れた。
「まあいい。あんたがシーアの誇りを汚すほど、“魔女”としての信憑性は増すのだから」
「……どういうこと?」
「帝国の人間は、誇りも伝統も知らない成り上がりの悪魔だということさ!」
 男は吐き捨てた。
「摂政派の人間がどれほどおぞましいことを企てているか、民衆どもに思い知らせてやる。あの“帝国の血”を味方につけようなど」
(――帝国の、血)
 先程から何度か耳にした言葉。それを心中で呟いた瞬間、にわかに耳元が騒がしくなった。
 肩に乗せた伝書鳩が激しく羽ばたき始めたのだ。
(どうしたの――)
 見た目より強い羽が頬を打つのを防ぎながら、サーシャは鳩の様子を見た。飛び上がりこそしないものの、ずいぶん落ち着きを失くしている。今までおとなしかっただけにただならぬ気配だ。
「どうしたの、いい子にして」
「――その、鳩」
 不意に、思いがけない場所から声がした。顔を向けると、一番端の牢の中から若者がこちらを見ていた。年は十八か、十九か。灰がかった茶色の髪を後ろで束ねている。
「何か――?」
 サーシャが尋ねようとすると、彼は逃げるように顔を背けた。鳩が羽ばたくのをやめた。
「うるさい鳥だな。騒がないようにさせておけ」
 前を行く男が冷たく言い放った。
「こちらで捕まえておきましょうか」
 サーシャの腕を押さえる兵士の一人が言う。
「良い。一緒に連れて行かせろ。魔女の小道具にもなるだろう」
 もう一度振り返ると、牢の中の彼は柵ごしにサーシャを見つめていた。

「美しき古王国シーアの民たちよ、見るがいい! 帝国から魔女が来た」
 声と同時に、サーシャは木でできた粗末な舞台の上に押し出された。舞台は屋外の街道の中にあり、通行人が足を止めて人だかりを作り始める。サーシャのほうを指差し、ざわめいて、みるみる間に辺りは見物人でごった返した。
 後ろ手に縛られて立たされたサーシャは、イヴァンの姿を探した。だが激しい人波の中で、見覚えのある顔を探すのは不可能だった。
「見よ! この禍々しい色の髪。天から獲物を狙うあの鳥にそっくりだ。悪魔の使いだ」
 側に立った男は大げさに手を動かし、芝居かかった声を上げる。
 サーシャは密かに肩をすくめた。馬鹿馬鹿しい演出だ。数世紀前の魔女裁判でもあるまいし。
「おい。何か言ってみろ」
 男が嘲笑を浮かべてサーシャの腕をつかんだ。逃れようと身を引いて、サーシャは言った。
「わたしは、魔女じゃないわ」
「まだ偽るのか、忌まわしい女め」
 男は抑揚たっぷりに吐き捨てた。
 サーシャはため息をついた。何を言っても無駄なのだ。
「帝国の人間は皆、悪魔の使いだ! 大陸を支配し、やがては神の領域であるこのシーアにも手を伸ばそうとしている」
 見物する民衆の中から、賛同の声が上がった。やがてそれは大きくなり、舞台の周りを包んでいく。
 サーシャは目と耳を疑った。政権に関わりのない平民までもが、同じことを考えているのか。
「残念なことに、亡き女王の摂政も悪魔に魂を売った。彼はあの帝国の血を味方に付けようとしているのだ。これを黙って見ておけようか!」
 群集の声が一丸となって響く。
「我々は摂政に代わって国を治め、美しいシーアを悪魔の手から解放しよう」
 男は高らかに叫んだ。群衆から拍手と歓声が沸き起こると、彼は再びサーシャの腕をつかんで言った。
「この魔女は明日、シーアの神の御名において裁きにかけよう。悪魔に取り憑かれた摂政派の囚人どもと共に、処刑する!」
(――処刑!)
 サーシャは顔を上げた。再び歓声の波が起こる中、男と見合わせる。彼は勝ち誇った笑みを向けた。
「――悪魔は、あなただわ」
 サーシャは心から言ったが、男は気にも留めず歓声に応えていた。



 こんなところで死にたくない。死ぬわけにはいかない。
 薄暗く寒い牢に入れられてから、サーシャはひたすら決意を繰り返していた。
 即位式を一ヶ月先に控えた身で、ただイリヤに会うためにここまで来た。まだ居場所さえ見つけていないうちに、こんな不本意な成り行きで死にたくない。
(やっとここまで来れたのよ。これからあのひとを探して、会って話すために)
 そして、二人でレストワールに帰るために。
 鉄格子の向こうから差し込む光は、すでに月のものになっている。外套にしっかりくるまっても、芯が凍り付いてしまいそうに寒い。
 白い息で指先を温めながら、サーシャは思案した。
 このまま朝まで待てば、処刑まで一直線だ。脱出なら暗いうちに実行しなければ。
(でも、どうやって?)
 サーシャは外の通路に面した鉄格子を見やった。
(この錠を空けられたら……。鍵は確か、番兵が持っていた)
 そんなことを考えていたとき。
 格子の向こうで微かな音が響き、牢の中に小さな影が入ってきた。伝書鳩だった。サーシャは手を伸ばし、指先に止まらせた。
「……どこに行ってたの?」
 旅道中もそうだったが、この鳩はすぐにいなくなる。始めは逃げてしまったのかと焦ったが、しばらくするとどこからか飛んで戻ってきた。そんなことが何度も続くので、サーシャも気に留めなくなっていた。
 膝に乗せて外套の裾でくるんでやろうとすると、鳩は急に羽を広げて飛び上がりかけた。サーシャはその足に、見覚えのないものを見つけた。
(……紙?)
 鳩の細い足に結わえられている。昼間にはこんなものはなかった。
 思わず丸い目を見つめると、鳩は無邪気に首を傾げた。
 サーシャは恐る恐る、その細い紙切れを解いた。
 牢の中は明かり一つなかったが、小さな窓から差し込む月光が手元を照らす。
『三つ隣の牢。読んだら左の足に結わえて返せ』
「……?」
 思わず鉄格子の外を見た。視界には暗い通路しか収まらない。
(三つ隣の……牢?)
 その住人がこれを送ってきたということか。鳩に託して。
 すぐに、昼間会った牢の中の若者が脳裏に蘇った。彼はこの伝書鳩を見て何か言いかけなかったか。鳩のほうも様子がおかしかった。
(何か知っている……?)
 胸が騒ぎ始めた。この鳩に見覚えがあるとすれば、鳩を連れていた人間と面識があるということ。この鳩の本来の主人は。
 頭の中で一本の糸がまっすぐつながった。
 サーシャは手にした紙を鳩の左足に結わえ付け、鉄格子の隙間から送り出した。
 しばらく経って、鳩は戻ってきた。新しい手紙を携えて。
 サーシャはもどかしい指先でその紙を開いた。その文字を見た瞬間、思わず狭い牢の中で立ち上がった。
『この鳩の持ち主を知っているか? 知っているなら左足、知らないなら右足に結わえて返せ』
(――やっぱり!)
 すぐさま左足に結び付けて送り返す。
 鉄格子に手をかけて、動かず外の様子を伺っていた。
 しばらくして、目の前を影がよぎった。
 手を伸ばそうとして異変に気付いた。鳩ではない。この影は人間のものだ。
 金属音が耳を突いて、サーシャは思わず後退った。呆然と見ていると、目の前であっけなく鉄格子が開いた。続いて、背の高い影がサーシャの前に身を屈めた。
「やっと会えた。君だよな?」
 昼間一度だけ聞いた声が、少し低めに響いた。月光だけで姿はよく見えないが、間違いなくあの若者だ。
「あなたは、誰?」
 サーシャは気を緩めずに、ゆっくりと聞いた。だが胸が高鳴るのは抑えきれない。
「本当はこっちが聞きたいんだけどな。でも大体予想は付くよ。イリヤを追ってきたんだろう? 帝国のお嬢さん」
 息が止まった。
 何も言い返せないサーシャの前で、彼は諭すように続けた。
「この鳩を見たときから気付いてたんだ。おれはニコライ。イリヤとは多分、君より古い知り合いだよ」


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