Sasha [ 2−3−1 ]
Sasha 第二部

第三章 古王国(1)
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 運河の果ての街は、天から舞い散る雪で真っ白だった。河沿いの広い道、置き去りにされた船、静かに並んでいる民家、すべての上に雪は降り積もる。時間さえ凍りついてしまいそうな寒さ。
「どうだね、初めて踏み入れる北国は」
 イヴァンが運河のほとりを歩いてきた。小船の上で外套にくるまっていたサーシャは、ぎこちなく顔を上げた。吐く息が一瞬で氷に変わる。
「――寒いわ」
「すまんな。こればっかりはおれにはどうしようもないんでね」
 せめてもの情けを施すように、イヴァンは湯気の立つカップを差し出した。サーシャは震える両手を出して受け取る。血行を失くして痺れてしまった掌に、湯の温度が少しずつ伝わってきた。氷のようになった頬にそれを押し当てる。ほどよく蒸らされたお茶と、微かな酒気の香りがした。
「いつもこんなに寒いの、この国は?」
「今は真冬だから特にさ。夏でも帝国よりは格段に涼しいはずだ。気候が違うからね」
 レストワールの都も、国内では比較的北のほうにある。冬は雪が積もって何日も溶けないことも多い。だが北端の国が、これほど厳しい寒さだとは思わなかった。
「娘さん、世慣れぬようだが、ひょっとして旅は初めてかね?」
 イヴァンが平淡な口調で尋ねる。
「初めてではないわ。……二度目よ」
 一度目は一年前、かつてのミハイル領へ。あのときはイリヤが一緒だった。
(あのひとも――今、この地のどこかにいるのだろうか)
 聞きたいことが山のようにある。ここがイリヤの生まれ育った国。大陸の北の果ての、雪に閉ざされた美しい古王国。
「――ずいぶんと箱入り育ちのようだね。そう言えば、紫の瞳は皇族が持つものと聞くが――」
 度肝を抜かれ、サーシャは顔を上げた。イヴァンはさして興味もなさそうな表情でサーシャを眺めている。サーシャは内心必死で、平静を装った。
「ああ……よく言われるの。でも何も、皇族にしか紫の瞳がいないわけではないし――」
「そうかね。少なくともおれは見たことがないがね」
「そうなの、珍しいものね。帝国はほとんどが黒か茶の目だけど――この国では少し違うみたいね」
 とっさの思いつきで話をそらす。実際、シーアに入ってから出会う人々は、帝国の人間とはやや異なる容姿をしていた。一番違うのはやはり色素で、髪も瞳も肌も少しずつ淡い。帝国では珍しがられ、若い娘の憧れでもある金髪碧眼が束になって歩いているのだ。その光景は、雪によって白く染められた古い街並みによく映えた。
「やっぱり隣国とは言え、民族が違うのかしら」
「いいや。レストワールもシーアも、元々は同じ系譜だ」
「え? でも――」
「レストワールは近隣と融合しながら、混血を繰り返してきただろう。だがシーアは違う。他国の人間との婚姻を一切許さず、古来からの純血を守ってきたんだよ。この国の偏屈の一つさ」
 サーシャは感嘆と呆れの入り混じったため息をついた。なんという保守主義。これが古王国の誇りというものだろうか。
「で、あんたはここで待つかね?」
 サーシャを思索から引き離したのは、イヴァンの一言だった。
「はい?」
「ここで待つか、それとも一緒に付いてくるかと聞いてるんだよ。おれは仕事に行かなきゃならん。あんたは人探しがあるそうだが、ここらでおさらばするかね?」
「いえ――連れて行ってください。探すと言ってもこの国は初めてだし、まだ何も見通しが付いていなくて」
「小国とは言え、都は広いぞ。自力で人一人見つけられるのかね」
 わからない。だが、とにかく探すしかない。
(会って話がしたい――そのためにここまで来たのだから)



 細い道が続いている。その左右に立ち並ぶ、石造りの家々。あちこちひび割れたり欠けていたり、年季を思わせるが、荒廃や老朽といった言葉は似合わない。むしろ、長い年月を経ていっそう美しく力強くそこに建っているようだった。そこに住む人々の誇りと愛着が染み渡っているせいだと、サーシャは思った。
 人通りは多くない。子供を連れた母親、杖を付く老紳士。互いに頭を下げて、黙ったまますれ違う人々。木戸を開けて穀物を売る商家には、途切れがちに客が出入りし、穏やかなやり取りが続いていた。
 何もかもが静かで、簡素で、荘厳な感じさえした。そのすべてを舞い降りたばかりの雪が覆い尽くす。街全体が白い石像のようだ。
(ここが、シーア。大陸中で最古の王国)
 サーシャは雪の道に立ち、ゆっくりとその空気を吸い込んだ。
(この国のどこかに、あのひとがいる――)
 サーシャは吸った息を吐き出すと、落ち着いて周りを見渡した。そして途方に暮れた。
 シーアは小国とは言え、この街などほんの一部に過ぎないのだろう。そもそも国全体の地理さえ把握できていない。そんな中でたった一人の人間を探す。
 計画性など気にしていられない。手当たり次第、という言葉がサーシャの中に根付いた。
「あの――すみません」
 サーシャは、ちょうど通りかかった中年の女に声をかけた。イヴァンはサーシャを路上で待たせ、取り引き先の商家に出向いていた。
「イリヤという人を知りませんか? 十八、九の、背が高くて薄茶色の髪をした人です」
 女は猫のような目つきで、サーシャの顔を見つめた。
「知らないね。他を当たりなさい」
 吐き捨てるように言うと、背を向けて行ってしまった。
 一瞬、言葉を失った。だが少し首を傾げただけで、すぐに気を取り直して次を探した。
 長いコートを着た初老の男が歩いてきた。
「すみません。人を探しているんですが、少しお話させてもらえませんか?」
「道を塞がないでくれ」
 呼び止める間もなかった。男は突き飛ばしこそしなかったものの、威嚇するように道を空けさせて通り過ぎていった。
 サーシャは一瞬立ち尽くすが、すぐに我に返って次を探す。
「あの、呼び止めてすみません。人を探していて――」
「知らないね」
「お話だけでも聞いてもらえませんか?」
「知らないものは知らないんだよ」
「――あの。わたし、人を探しているんですが――」
 四人目の通行人は返事さえせずに過ぎていった。
 サーシャは俯いて両手を握り締めた。
 しばらくすると、五つくらいの男の子を連れた女性が歩いてきた。
「あの――少しいいですか?」
「何のご用です?」
 頭巾をかぶった若い母親は、サーシャを見て目を細めた。
「イリヤという人を探しているんですが、ご存知ありませんか?」
「知りません。聞いたこともありません」
「では最近、レストワールから来た人を見ませんでしたか? 年は十八、九で、背の高い――」
「帝国の人間なんて。あたしたちには関係ありません」
 母親は金切り声を上げた。同時に身を硬くし、サーシャの声をそれ以上受け付けなかった。
 その時。彼女に手を引かれていた、幼い男の子が母親に言った。
「かあさん――このおねえさん、『ていこく』の人なの? だからこんなに髪が黒いの?」
 サーシャの体と表情は一瞬で凍りついた。
 母親は「しっ」と子を黙らせると、逃げるようにサーシャの側を離れ去った。
『小国のくせに無駄に誇りばかり高くてね。外の人間――ことに帝国の者を毛嫌いしてる』
 旅道中でイヴァンが話してくれたシーアのことが、頭に蘇る。
 蔑まれているのだ、この髪を。黒には程遠いが、シーアの民のそれに比べれば遥かに色の濃い、この鳶色の髪を見て。
 気が付けば、道行く人は皆こちらを覗き見て、目が合えば逃げるように去っていく。
『成り上がりの若僧の国』
 サーシャはこの時初めて、自分が今立っているのがどこなのか知った気がした。
(国境一つ越えただけで、こんなにも違う)
 自分が生まれ育ち、これから治めていく帝国。シーアの民はそれを嫌っている。この美しい国の美しい人々が、隣国を蛇のように蔑んでいる。
 たまらない事実に思わず俯いた時。
「おい、おまえ」
 低い声がした。イヴァンかと思い顔を上げると、見知らぬ男が二人並んで立っていた。一人はそこそこ若く、一人はサーシャの父より高齢のようだ。二人とも厚手の黒いローブに身を包み、威圧するように立ち塞がっている。
 サーシャはあまり居心地のよくない気分で、退きがちに答えた。
「何でしょう」
「おまえ、帝国の人間だな」
 若いほうが言った。
「そうですが。何のご用ですか?」
「やっぱりそうだ。しかも、若い娘だ」
 彼は勝ち誇ったように笑った。
「ああ。ご命令にぴったりだな」
 もう一方も歪んだ笑みを相方と交わす。
 ただ一人、笑っていないサーシャは、澱んだ空気に気付いて身を硬くした。
「何ですか、あなたがたは。用件を言いなさい」
 その発言に、男たちは膝も打たんばかりに喜んだ。
「これはいい。本物のご令嬢だぞ」
「お嬢さん。どうして帝国から出てきて、一人でこんなところをうろついている? 家出かい?」
「あなたがたには関係のないことです」
 サーシャが口を開くたびに、男たちは嘲笑を交し合った。
 何かがおかしい。
 警戒が危機感に変わり、すぐに走ってでも逃げようかとサーシャが思った時。
 視界に突然、黒い闇が広がった。



 頭から被せられた黒布が取り除かれると、見たこともない光景が目の前にあった。
 薄暗い室内。四方は古い石の壁に囲まれ、空気が痛いほど冷たい。天井は高く、遥か上から細い光が差し込んでいる。
 建物の地下だと気付いたところで、声がした。
「それか。拾ってきた帝国の娘というのは」
 聖職者のような衣服に身を包んだ、中年の男性。太って恰幅がよく、狡猾に目を光らせている。
 サーシャは声を上げようとしたが、後ろから口を塞がれていた。両手も押さえられ、身動きが取れない。
「理想通りの若さだな。しかも、これはこれは」
 男はサーシャの顔を覗き込み、乾いた笑みを漏らした。
「紫の目とは。“魔女”役にはぴったりだ」
(魔女役?)
 サーシャは顔を背けながら、声に出せない言葉を心中で呟く。
「悪いねえ、お嬢さん。あんたにはしばらく立ち人形になってもらおう」
 男は言った。
「鳶色の髪に紫の瞳。あんたのこの姿が必要なんだよ。あの“帝国の血”を追い払うためにな」


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