Sasha [ 2−2−2 ]
Sasha 第二部

第二章 出会いと再会(2)
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 白い道の左右は、大人の背丈の倍ほどある壁に囲われていた。その先に石造りの巨大な城が立ち塞がっている。灰色の石を積み上げた古い城だ。正面には塔のような円柱型の建物が二つ並び、その間にアーチ型の門があった。
 二人の若者が門の前まで来ると、両端に立つ衛兵は槍を交差させた。
「摂政殿の秘書官ニコライだ。使いから戻った」
 ニコライは署名の入った書類を示した。それからイリヤのほうを指して説明を加えた。
「摂政殿の古いご友人だよ」
 衛兵たちの視線がイリヤに食い入った。と思うと彼らの口が叫ぶように開かれ、顔色が青ざめた。イリヤは顔色を変えずに会釈した。
 槍が引かれ、城門が二人の前に開いた。
 ニコライがその下を進み、イリヤが後に続く。一歩入ると、にわかに現れたように人の影が立っていた。
「やっと戻ってきた。何日待たせる気なのよ」
 人影は若い娘のものだった。丈高い身に空色の衣装を纏い、細い腕が胸元で組まれている。肘まで波打つ金色の髪、彫りの深い顔立ち。長い睫に縁取られた青い目が鋭い視線を向けている。黙って立っていれば、年若い貴婦人の肖像画がそこにあるようだ。
 だがその肖像画は足早に歩いてくると、二人の前ではっきり口を開いた。
「ちょっとニコライ、帝国を出たんなら便りの一つくらいよこしなさいよ。あたしはずっと待たされてたのよ」
「こっちは長旅でそんな余裕ないんだよ。それでも摂政殿にはちゃんと連絡したぞ」
「あたしのところにもちょうだいよ! 心配してやったんだからね。ただ待ってるより一緒に行ったほうがよっぽど良かったわ」
 娘は一気にまくし立てると、ニコライの後ろの人物に目を向けた。イリヤは自然と笑いかけた。
「相変わらずですね――タチアナ」
「ご挨拶ね。それが年頃になって再会した幼なじみに言う言葉?」
 タチアナと呼ばれた娘は両手を腰に当てた。
「お久しぶり。そっちこそあまり変わってないじゃない。――見上げないと目を合わせられなくなったけど」
 タチアナは細い顎を上げ、くっきりと笑みを浮かべた。七年の時は二人の身長差を広げるだけでなく、幼い少女を年頃の美姫に変えるにも十分な年月のようだった。
「本当に帰ってきたのね。こっちは今大変なのよ。聞いてると思うけど……」
 言いかけたタチアナの声をかき消して、別の人物の足音が響いた。タチアナの背後に歩いてくる人影に、イリヤはまっすぐ顔を上げた。タチアナも振り返った。
「父さま」
「――帰ったか」
 痩せた長身に、ゆったりした紺の衣。年の頃は四十ほどだが、灰色の目は冷たく陰り、老いた年月を思わせる。
 シーアの政権保持者、セルゲイ。かつて女王の婚約者であり、摂政と呼ばれていた男。現在もその地位に就き女王亡き国を治める彼は、七年の間に倍の年を重ねたように映った。

「七年ぶりか。よく帰ってきてくれた」
 城は高く、その上部には石組みが崩れ落ちたような壁がある。円柱の塔の螺旋階段を登ると、天井のない最上階に出ることができる。
「本来なら、二度と戻ってくることはないはずでしたが」
 癖のない髪を夜風に揺らされながら、イリヤは苦笑を交えて言った。
「無理をさせてしまったか」
「いいえ。ただ、考えてもみなかったものですから」
「私を恨んでいるか?」
 セルゲイは灰色の目を向けた。
「私とて七年前、そなたを手放すのは惜しかった。だが周りを説得しきれなかった。そなたの“帝国の血”が――」
「恨んでなど」
 イリヤは遮って、言い直しつつ微笑んだ。
「恨んでなどおりません。捨てられても仕方のなかったわたしを十一まで養ってくださったこと、感謝しております。七年前は、わたしが自分から出て行ったのです」
「そして今、帰ってきてくれたか」
 セルゲイは地平線まで続く灰色の大地を見下ろした。太陽はすでに深く沈み、遮るもののない空には星の光が灯されている。
「見ろ」
 セルゲイの細い手が指し示した。
 右手に見える半月のおかげで、近くの地形や建物は捉えることができる。
 丘の上に四角い影が立っている。大きさは箱庭ほどだが背が高く、更に小高い丘の上に立っているため、城と変わらない高さに見える。
 イリヤは目を凝らし、その輪郭をはっきり捉えようとした。
「覚えているか?」
「神殿です。――女王陛下の」
「そうだ。今、あの中には誰もいない」
 セルゲイは石組みに手をかけ、神殿を見つめる。
「神の声を聞く女王は、数百年前からこの国を守ってきた。その座が空位の今、この国はどうなる?」
「――」
「神の怒りに触れ政事が乱れ、国は崩壊すると思うか?」
 イリヤは神殿を見つめ、再び摂政に視線を戻して言った。
「思いません」
「そうだ。その通りだ」
 摂政は声を落とした。神殿を見つめる目が細く遠くなっていく。
「女王が神の声を聞いて政事を行っていたなど、太古の話。何十代も前から実質上の政権は伴侶である摂政の一族に移っていた。結果、何としてでも女王と婚姻を結ぼうと、名家同士の陰険な争いが飛び交うことになる。――わたしの父もその一部だった」
 そうして自分は今この地位にいる、と、セルゲイは低い声で言った。
「神殿に閉じ込められた、形だけの女王。だがその存在そのもので、この国を守っておられた。――ソフィアさまは」
 摂政が声に出したその名を、イリヤは噛み締めた。世継ぎを残さずに逝った若き女王。名ばかりの王位に就き実権争いに翻弄されながら、神殿の中で静かに確かに生きていた――。
「女王を失った今、私にできることは摂政として国を守ることのみ」
 冷たい風が行き交う中、セルゲイの声が響いた。城の外には灰色の雪の大地がどこまでも続いている。
「この国は古く美しく――そして弱い。伝統と誇りだけで生き延びている。そのどちらかを失えば崩れ落ちるのが古王国の宿命」
「――新たな女王を立てるべきだと、摂政に反発する者がいるのですね」
 イリヤはセルゲイを見つめ、穏やかに言った。セルゲイは石組みに両手を付いて頭を垂れた。
「新女王を立てれば伝統と誇りは守られる。だがそうして生き延びて何になる? シーアは大陸で完全に孤立している。形だけの女王の裏で摂政が実権を握るなど、あまりにも時代錯誤」
「古い慣例を廃するおつもりですか。滅亡の危険性を背負ってでも」
「どちらにしろ、このまま内部分裂が続けば国力は弱まる一方だ。あちらは代表者の娘を差し出して女王の候補にとまで言い出した。新女王派と摂政派。シーアは今、真っ二つに割れている。武力闘争に及ばぬうちに決着を付けたい」
 セルゲイは顔を上げた。
「協力してほしい。そなたにしかできないことだ」

 女官に伝えられた通り城の裏に行くと、金髪の後ろ姿が待っていた。イリヤは階段を下りながら声をかけた。タチアナは振り向いた。
「また帝国に戻るなんて言わないでしょうね」
「まさか。それでは帰って来た意味がありません」
「父さまを手伝ってくれるのね」
 タチアナは整った唇で笑んだ。
 七年の間に、この国はずいぶん変わった。女王が没し摂政が政権を維持し、現在は無言の派閥争いに都中が荒んでいる。
 変わらないのは、大地を白く染める雪景色と、タチアナの勝ち気な笑みだけだ。
「懐かしいでしょ。昔よく一緒に遊んだ場所よ」
 タチアナは裾を翻して腕を広げた。月明かりの下で、積もった雪がほのかに白く輝いている。数本の木は細い枝だけになって雪の上に影を落とす。
「そうでしたね。摂政殿の目を盗んで、城を抜け出して」
「雪が積もって晴れた日なんか、特にね。ニコライもよく一緒に来たわ」
「もう七年以上前のことですか。あなたは十歳で、わたしは十一だった」
「イリヤ。どうして出て行ったの」
 タチアナの顔から、笑みが消えた。
「父さまはあなたが自立できる年になるまで育てるつもりでいたのよ。あたしだってずっと一緒だと思ってたのに」
「――母が亡くなりましたから。わたしがここにいられる理由はなくなったんです」
「“帝国の血”だから?」
 タチアナは鋭い視線を向けた。
「くだらないわ。そんなこと未だに気にしてるのは頭の古い輩だけよ。彼ら、帝国を嫌うだけじゃなく新しい女王を立てろなんて言い出したのよ。神さまと摂政にいいように使われる、名前だけの女王をね」
「知っているんですか」
「当然じゃない。あたしは摂政の一人娘よ。父さまがやろうとしていることはあたしも手伝う。女だからって舐めないでよね」
 開き直ったように言い放つタチアナを前に、イリヤはほころぶように笑い出した。
「何がおかしいのよ」
「いいえ。本当に相変わらずだと」
「――とにかく。片親が帝国の人だというだけで白い目で見る連中なんか、蹴飛ばしてやるのよ。父さまとあたしたちを助けてね、イリヤ」
「――そのつもりです」
 イリヤは穏やかな表情はそのままに、視線のみ少し硬くした。
 冴えた冬の夜空が無数の星を散りばめている。タチアナの青い瞳はその光を受けて輝いていた。
「帝国では、皇女殿下にお仕えしていたんですってね」
 突然、タチアナが呟くように聞いた。
「放ってきて良かったの?」
「大丈夫です」
「それなら安心した」
 笑顔を崩さないイリヤを見て、タチアナはひたむきに続けた。
「七年も待たせて、やっと帰ってきたのよ。もう出て行ったりしないわよね」
 イリヤは判で押したような笑顔のまま、ゆっくりと繰り返した。
「――大丈夫ですよ」


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