Sasha [ 2−2−1 ]
Sasha 第二部

第二章 出会いと再会(1)
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「シーアに行きたいだって?」
 サーシャの申し出に、あからさまな驚きの声が返ってきた。
 声の主は船から積荷を降ろす商人の男。ここは、国境にある運河のほとりである。
「はい。旅慣れぬものですから、連れて行っていただけませんか?」
「……いやあ、変わった人もいるもんだなあ」
 中年の商人は日焼けした顔を指で掻いて、サーシャを見つめる。
「なあお嬢さん、一人のようだが、シーアまで何の用だい?」
「ひ、人探しです」
「はるばるあの国まで? そりゃあ、大した根性だ」
 男は呑気に言い放った。
 広い運河には何艘もの小船が止まり、活発に人が動いている。山積みにされた布袋や木箱。足元には一面の雪。
 ここは帝国の北端で、シーアとわずかながら交流を結ぶ唯一の町だという。都から数日かけてここまで来られたサーシャだが、これからどうやって国境を越えるのか途方に暮れてしまっていた。
「商業者の方はシーアまで行くことがあると聞きました。お願いです、同行させてください」
「残念だが……俺はこれから都へ戻るところでね。それでなくても、シーアに出入りする奴はごく少ないんだよ」
 諭すように言われ、サーシャは肩を落とす。だが商人の男は目の前で腕を上げたかと思うと、やや遠くに向かって声を張り上げた。
「おーい、イヴァン! 同行希望者だ。相手してやってくれ」
 サーシャは首を傾げた。男が叫んだ方向に人影は見えなかったからだ。だが目を凝らすと、大きな木箱の陰に薄汚い身なりの人間が寝そべっているのに気が付いた。サーシャは前にいた男に礼を言うと、すぐさまそちらの人物に駆け寄った。
「あの――シーアに行かれるのですか?」
 少し距離を置いて話しかける。その男は頭の下に腕を組んで、木箱にもたれかかっていた。ところどころ破けた帽子が顔の上に載っている。その端から細いパイプが伸び、うっすらと煙を昇らせていた。
「あの、恐れ入ります。シーアに行かれるのでしたら、同行させていただけませんか?」
 顔の見えない男はサーシャの声が聞こえていないのか、静かに煙を揺らすだけ。
「人を探しているんです。シーアに向かったかも知れなくて。どうしても会いたいんです」
 帽子がゆっくりと傾き、細い黒目が覗いた。サーシャの肩が小さく跳ねる。男は横たわったまま帽子を外すと、パイプを取って煙を吐き出した。
「――想い人かね、娘さん」
「ちっ――違います!」
 一瞬で、サーシャの頬に火が点いた。
「馬鹿正直な顔だな」
「あ、あなたが不躾なことを聞くからでしょう!」
 真っ赤になって抗議するサーシャを無視して、男はゆっくりと上体を起こした。
 何とも年齢の判別がしにくい外見だった。四十前後なのか、五十くらいにはなっているのか――それとも無理すれば三十代に見えなくもない。
 無造作に伸びた髪は目と同様に真っ黒。眠そうな表情に無精髭が浮かんでいる。全身が枝のように細く、立ち上がってもどこか安定感がない。
 皇宮で暮らしていれば間違っても見ることのない人物像に、サーシャは少なからず怯んだ。だが彼が自分をシーアに導いてくれる人だと思えば、神の使いのようにさえ見えた。
「――ええと、イヴァン殿。シーアに連れて行っていただけますか?」
 イヴァンという男は足元の布袋を運河の上の小船に積んでいく。サーシャには背を向けたまま何の反応も返さない。
「あの――いいんですか?」
 サーシャの言葉を聞き流しつつ一通りの荷積みを終えると、イヴァンは振り返った。
「その羽の生えたのは、お連れさんかね?」
「え? ああ……」
 サーシャは自分の肩を見た。いつの間にか鳩がとまって一緒に首を傾げている。皇宮内で見つけたイリヤの伝書鳩を、何かの手がかりになるかと連れてきたのだった。
「そうです。この子も一緒に」
「まあ、鳥から金取ろうとは思わんがな」
 イヴァンは手を差し出した。サーシャはその意味がつかめず、皮の厚い手のひらをじっと見つめる。
「――船賃だよ。ただで乗るつもりじゃあないだろうね」
「船で行くのですか?」
「シーアは国境の警備が厳しくてね。運河を通って手続きしないと入れてもらえないんだよ。そんなことも知らないのかね」
「あの……船賃とは……」
 恐る恐る聞いてみるものの、少し怖くなってきた。もちろん、皇宮を出る時にある程度金になるものは持ってきた。だがここに来るまでの宿賃などで、すでに底が見え始めている。そもそも皇宮育ちの身だ。一人旅も初めてなら一人で金の管理をするのも初めてである。
「払えないのかね」
「……」
「それじゃあ困るんだがね。あんたを乗せる分だけ、こっちは船に積む商品を減らさなきゃあならんのだよ」
 小さな黒い目が品定めするように見据えている。サーシャは俯いたまま唇を噛んだ。
「話にならんな、娘さん。とっとと家に帰った帰った」
「――待ってください!」
 背を向けかけたイヴァンを、サーシャは叫んで引きとめた。
「お金はありません。でも、これで変わりにできませんか?」
 サーシャはあまり装飾品を身に付けない。小振りの耳飾りと、瑠璃色の石が付いた首飾り、腕輪が右手だけ。それらをすべて外すと、手に載せてイヴァンに差し出した。
「石は全て本物です。現金ではありませんが……それなりの価値は出ると思います」
「……おれは、物々交換は好かんのだがね」
 イヴァンは突き出された光り物をしげしげと見つめる。
「まあ、一番安そうなのだけもらっておこうかね」
 そう言って彼が手に取ったのは、銀の鎖に細かい輝石が散りばめられた腕輪だった。サーシャは目を丸くして、残された耳飾りと瑠璃の首飾りを見つめた。
「全部受け取ったら、おれはあんたをシーアまで何往復させることになるかわからなくなっちまう。これ一つでもお釣りが来るぐらいだよ。まあ、道中の食事なんかも世話してやるから、それで込みにしてくれ」
 サーシャの顔に笑みが差した。
「感謝いたします」
「頭下げてないで、とっとと乗りな。律儀な娘さんだ」
 サーシャは嬉々として顔を上げ、手元に残った装飾品を再び身に付けた。

 運河に浮かぶイヴァンの船は、大人が十人も乗れそうな大きなものだった。そこにありったけの荷物とサーシャを乗せると、最後に彼は自分の足を乗り入れた。
「これ……全て売り物?」
 サーシャは薄汚れた大きな布袋に埋もれながら聞いた。
「ああ」
「何を売っていらっしゃるのですか?」
「何でもだよ。――でも作物が多いね。煙草とか茶とか、繊維なんかだ。シーアは今、凶作だからな」
 イヴァンはサーシャの向かい側に腰を下ろすと、両手に櫂を取った。穏やかで広い水面の上をゆっくりと進み出す。さっきまで立っていた岸が少しずつ遠ざかって行く。左右の街並みが流れ、船は次第に速度を増していった。
「どのくらいかかりますか?」
「順調に行けば三、四日かね。天候や国境の治安にもよるが」
「……どんな国なのですか? シーアとは」
「偏屈な国さ」
 イヴァンは首を後ろに回し、前から来る別の船を避けながら櫂を漕いだ。
「小国のくせに無駄に誇りばかり高くてね。外の人間――ことに帝国の者を毛嫌いしてる。シーアは大陸で一番古い王国だからね。百年やそこらでのし上がったレストワールなんぞ、成り上がりの若僧といったところなんだろう」
 サーシャは黙って耳を傾けていた。このくらいは歴史学で学んだ覚えがある。
 レストワールは元来、古代に生まれた小国家の一つに過ぎなかった。初代皇帝アレクサンドル一世が領土を広げ、帝政の基盤を固めたのがおよそ百年前。その間にもレストワールは周辺国家を次々と併合し、大陸最大最強の帝国と呼ばれるまでに発展した。
 そんな中、唯一帝国に屈せず独立を保った小国。それがシーアだ。大陸上で現存する最古の国家。一つ前の時代までは広大な領土と高度な文化で栄えていた。だが新興レストワールが勢力を増すに連れ、次第に苦しい位置に追いやられていく。
「周りの小国がどんどん帝国の傘下に入る中、シーアだけはほとんど根性で生き残ったそうだ。相手が事実上最強の大国でも、その相手との国交が冷え切ってもな。おかげで今はこんな北端にわずかな領土を残して、大陸上で孤立してる」
「でも百年は生き延びたんですね。内政はどうなっているんですか?」
「そこがあの国の妙なとこさ。シーアはな、このご時世に神権政治なんだよ」
「神権政治……?」
 相当古い歴史に出てくる言葉だ。まさか現存する国に関してこんな話題が出てくるとは。
「神に従って政事(まつりごと)を行うというの? 本当に今もそんな体制を守っているのですか?」
「さあ、実質はどうだかな。何でも、若い娘っ子を女王に立てて、その女王が神と対話をして国政の方向を定めるんだと。大昔の話だな。娘さん、あんたは信じるかい?」
 サーシャはイヴァンの問いには答えず、女王という単語に反応した。何しろ帝国の歴史上最初の女帝となる身である。近隣の同盟国にも女君主が治める国は存在しない。見たこともないシーアの女王に親近感を抱いてしまうのも無理はなかった。
「シーアの女王とはどんな方ですか? あなたはお見かけしたことがあるの?」
「まさか。神と対話する女王だ。神殿に閉じこもって、民どころか側近もごく限られた者しか寄せ付けんよ」
 イヴァンは櫂を漕ぎながら、ふと声を落とした。
「……どちらにしてもな、シーアの女王の座は今、空位らしい」
「え?」
「おれもよくは知らんがね、何年か前に亡くなった女王が後継ぎを残さなかったそうだ。シーアの女王は神託に従って国内の男と結婚し、その男が摂政として実務を助けるそうなんだが、今はその摂政が事実上政権を握ってるっちゅう話だよ」
「……」
 女王の座は空位。残された摂政が政権の中心にいる。
 イヴァンの話を頭の中でまとめてみたが、どうも実体に手が届かない。シーアの全体像は濃い霧で覆われているようだった。
(どういう国なのだろう……)
 膝に乗せた鳩の背を撫でながら、サーシャは運河の先を見た。
 イリヤはどういう地で育ったのだろう。



 帝国とシーアの国境付近には、深い森林が広がっている。日が沈んだ後は空も薄暗い。降り積もった雪だけが、淡い光を発している。所狭しと並び立つ木々の枝は、空に白い線を描く。
 森を突き抜ける小道は硬い氷になっている。その道を足早に歩く、二人の若者の姿があった。
「まさか、陸路で行くとは思いませんでした」
「摂政殿の密使だからな。人目に付く運河を通るわけには行かないんだよ」
 灰がかった茶色の髪を後ろで束ねたニコライが、半歩先を歩きながら言った。
 イリヤは歩きながら雪の道の左右を見渡す。
「どうだ? 久しぶりの故郷は」
「どうと言われても。こんなところへ来たことはありませんでしたし」
 密使が利用する抜け道だけあって、人気はまったくなく人家なども見えない。進んでも進んでも、すれ違うのは白く染まった木々だけだ。
「まっすぐ行けば都へはすぐ着くからさ。それまではこの旅を満喫しろよ」
 ニコライはやや皮肉めいた笑みで、こう続けた。
「着いてしまえば、懐かしさに浸ってる場合なんかなくなるからさ」
「……」
「しかし、おまえが帝国で皇女さまに仕えていたとはな」
「成り行きでそうなっただけです。無数にいるお付きの一人に過ぎませんでしたから」
「レストワールの皇女と言えば、近々女帝になる方だろう。どんな人だ?」
 イリヤは少し歩調を緩めた。視線を落として目を細める。
「一国の上に立つに相応しい、聡明な方です。まだお若くて頼りないところもありますが、それだけにまっすぐで、お優しくて。全ての民の母親のような女帝になられますよ」
「――絶賛だな」
 ニコライが目を見張ったが、イリヤは既に彼の存在を忘れていた。前に続く雪の道は消え、数日前までいた皇宮の光景が蘇る。窓から見える雪景色に反して、温かい部屋。そこに座り本を開く鳶色の髪の皇女。来訪者に気付いて顔を上げ、紫の瞳を輝かせて微笑む。
「少し不器用で、でもとても素直で。……皇族の姫とは思えないほど、純粋な方でした」
 呟いた声はほとんど独り言のようだった。遠くを見る視線がゆっくりと落ち、そのままイリヤは黙った。
「――何が『無数にいるお付きの一人に過ぎませんでした』だよ」
「はい?」
 ようやく現実に引き戻されたイリヤは、呆れ顔の旧友を見た。
「おまえ本当に、その人を置いて来て良かったのか」
「大丈夫ですよ。わたし一人が消えたくらい、あの方には」
 イリヤは軽く笑ったが、ニコライは睨にらむのをやめなかった。だが彼は顔を前に戻すと、その先に何かを見つけたらしく表情を変えた。
「見えてきたぞ。ほら、上のほうだけ」
 イリヤも即座に顔を上げる。
 ニコライが指差す先に、白い枝に重なって建物が見えた。小高い丘の上に立つそれは遠目に見ても大きく、黒い影が雪を覆いつくそうとしているようだ。
「女王の神殿だ」
 ニコライが呟くように言った。
 イリヤは歩きながら、黙ってその影を見つめていた。


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