Sasha [ 2−1−3 ]
Sasha 第二部

第一章 迷い鳩(3)
[ BACK / TOP / NEXT ]


「何も失踪したわけではないのです。確かに侍従長の元に届けは出ています」
「でも、わたしは何も聞いていないわ」
 謁見室の中で一番小さな部屋。華奢な皇女が窓を背に立ち、中高年の男性が五人ほど前に並んでいた。
「お言葉ですが、厳密に言うイリヤの主は殿下ではなく私です」
 痩せた侍従長が平淡な声で言う。
 サーシャが反論しようとすると、一番端にいた宰相が間に入った。
「とにかく――その届けが出たのはいつ頃ですか、侍従長?」
「こちらに届いたのは今朝です。衛兵が言付かったのは昨夜の遅くだそうですが」
「どうして、すぐに知らせてくれないの」
「慣例というものがございます、殿下。従者一人のためにお休みのところを妨げるわけには」
 聞きながら、サーシャは時間を戻してほしい思いでいっぱいだった。深夜だろうがいつだろうが、イリヤに異変があったと聞いたらすぐさま飛び起きたのに。
「それで――その者は、皇女殿下の従者を辞任すると?」
 重臣の一人が無神経にも聞いた。サーシャを含め全員の視線が侍従長に集まる。
「いいえ。届けの文面では、ともかく期限未定の休暇をいただきたいと。理由はございませんでした」
「なんという身勝手な。殿下が一番お忙しいこの時期に」
 サーシャは俯いて唇を噛みしめた。顔を上げてその場の誰とも目を合わせたくなかった。
 そんな皇女の様子に構わず、彼らはめいめい言い立てる。
「まあ、殿下の従者は一人ではございませんから。イリヤが抜けたのは手痛いが、なんとかなるでしょう」
「その通りです。元々ご即位に向けて人員を増やすつもりでしたから、この機会に従者の顔ぶれも一新させましょう」
「それがいい。お気になさることはございませんよ、皇女殿下。イリヤの代わりの人間くらいこの国にはいくらでもおりますから」
 サーシャは床に落とした目をいっぱいに見開いた。答えるどころか顔を上げる気すら起こらない。
(この人たち、一体何を言ってるの)
 イリヤの代わりなどいない。一年前、サーシャの一人二役を初めて見破った人。暗闇から抜け出せなかった自分を救ってくれたのも、君主としての道を示してくれたのも、この一年間誰よりも支えてくれたのも、すべて彼だ。
 前にいる重臣たちはそんなことを知る由もない。それどころか彼らは、イリヤの実際の資質さえ量りかねている。サーシャの知る限り、あれほど知識が広くしかもそれを的確に使える者は年長者にもいなかった。普段は穏やかで無駄に資質を表に出さない分、気付かれにくいだけだ。
「彼を放っておけと言うの? どこに消えたのか、いつ帰ってくるのかもわからないのに」
「探したいのは山々ですが……今の殿下は従者一人に構っておられる状況ではないでしょう」
 声を上げたサーシャを宰相がやんわりと諭す。
 その次に重臣の口から出た言葉に、サーシャは自分の耳を疑った。
「むしろ、こうなって喜ぶべきだとも言えます」
 宰相の隣に立つ、一番年配の重臣が口にした言葉だった。
 サーシャは瞬きもせず聞き返した。
「何ですって?」
「ですから私は一年前から反対していたのです。皇后陛下のご親族が皇女の従者になるなど、慣例では考えられぬこと。外聞が何と申しているかご存知なのですか」
「彼の父君はわたしの母上の兄君よ。今も昔も一番の後ろ盾になってくださっている。その人たちを頼りにして何がいけないの」
「皇家の外戚が、婚姻を盾に地位と権力を貪ることは歴史上珍しいことではありません」
 五人の中で一番若い、長身の男が冷ややかに言い放つ。
「婚姻の持つ威力の恐ろしさを、殿下はわかっておられないのです。ですから我々は女帝となられる殿下のご縁談も、慎重に事を運ぶつもりでおりました。ところが皇帝陛下は……皇女の婚約者はもう決まっていると」
「重臣の多くは異議を申し立てております。殿下には二桁に届くご縁談が上がっているというのに、始めからあの若者に決めてかかるなど……」
「どうして彼ではいけないの? あんな人は近隣の王族でもそういないわ」
「イリヤが有能なのは認めますよ。何も女帝の婿君として相応しくないと申すわけではないのです。――ただ、国内外共にご縁談が多く持ち上がっている中、彼が殿下の近しい立場にいると具合が悪いのです。従者とは言え、年の近い若者が姫君のお側に付くのは外聞の悪いことですし、外戚となれば尚更です。せっかくの良縁も逃げてしまいかねません」
 サーシャは肩をすくめて、前に並ぶ重臣たちを見上げた。彼らに悪意がないのはわかっている。言い方はどうであれ、女帝となる自分の身を想っての考えなのだ。
 だがそうやって保たれていた感謝の念も、侍従長の次の言葉によって瞬時に崩れ去った。
「イリヤももしかすると、それがわかっていたから皇宮を去ったのかも知れませんね」
 皇女の目がいっぱいに見開かれた。
「それは考えられることです。彼も自分の立場の微妙さはよくわかっていたでしょうし、我々からも折を見て忠告を与えていましたから」
「ああ――それでしたら彼も身を引くでしょうね。自分の存在が皇女殿下の枷になると気付いたなら」
「私も常々言っておりました。あの若者は理解したのかしていないのかよくわからない態度しか見せませんでしたが、やはり自分でも考えていたのですね」
「ですから殿下、お気にかけることはございませんよ。イリヤは殿下のことを考えて自ら身を引いたのですから――」
 言いかけた侍従長の言葉が止まると共に、彼らの視線が固まった。前に立つただならぬ気配の皇女の上に。紫の瞳が刃のように五人を貫き、細い肩はぎこちなく震えている。
「あなたたち――よってたかって、彼に何を言ったの」



 後悔と、情けなさと、恥ずかしさで消えてしまいそうだった。
 サーシャは居室の長椅子に腰を下ろし、自分の膝に顔を(うず)めていた。
 重臣たちがイリヤに何を言ったのか、大体の想像はつく。早い話が、
「おまえは新帝となられる皇女の邪魔だ」
 とかそれに似たような言葉を遠まわしに、しかし遠慮のない口調で言ったのだろう。
(知らなかった――気付かなかった)
 皇宮に仕える者の中で、イリヤにいい感情を抱いていない者がいることは知っていた。彼の立場の微妙さも難しさも、わかっているつもりだった。
 だが父の、場合によっては自分の臣下が、嫌がらせに近い言葉をイリヤに向けていたなんて。しかもその言葉は、他でもない自分のために言い立てられたものだったのだ。
(何も聞いていなかった。一言も話してくれないなんて)
 重臣たちに言われたことを一人で考え、イリヤは何も告げずに皇宮を去ったというのか。
『あなたはこの先、皇族として国の上に立つ存在です。わたしがさらっていいお方ではない』
 一年前。自分をもう一度さらってほしいと頼んだ時、イリヤはそう答えた。はぐらかされてしまった感はあるが、要するに自分の願いは受け入れられなかったのだ。だがその代わり、自分が皇宮に留まりサーシャに仕えることを約束してくれた。
 あの青い瞳が皇宮のどこにも存在しない。
 サーシャは腕の中に顔を埋めた。
『これからも側にいて、わたしのなすべきことを助けてくれる?』
(どうして……)
 前に膝付いて光栄だと言ってくれた、あの時の微笑が頭から離れない。
(どうして消えたの。どうしてその時、わたしは側にいなかったの?)
 窓の外は既に暗くなり始めていた。大きな雪の粒が再び舞い降りている。寒さと静けさで、部屋の中は時が止まったようだった。
 雪の積もる音さえ聞こえそうな静寂の中、サーシャは俯いて目を閉じていた。
 やがて、一つの考えが持ち上がってきた。
 昼間の重臣たちの言葉。イリヤは彼らの忠告に従って皇宮を去ったのだと。
「違う……」
 声に出した瞬間、考えが確信に変わる。
(あのひとが、周りに何か言われたくらいでわたしの側を離れるはずない)
 そんな性格ではないのはよく知っている。何より、約束した。重臣たちの意見がもっともだとしても、それだけでサーシャに一言も告げずに消えてしまうわけがない。
(何か事情があったのだ)
 サーシャが顔を上げた時だった。
「皇女さま」
 扉を叩く音が響いて、マリアが姿を見せた。
「お一人のところお邪魔してすみません……あの、お客さまです」
「どなた?」
 戸惑いがちに入ってきたマリアは、願ってもない人の名を告げた。
「皇后陛下の兄君で西方の領主でいらっしゃる、パヴェル公です」

 イリヤの実の父でサーシャの伯父に当たる公は、謁見室で一人待っていた。扉が開いて長い髪の皇女が入ってくると、椅子から立ち上がった。
「お久しぶりでございます、殿下。ご即位のお祝い申し上げに参りました」
 旅姿のままの彼は深々と頭を下げた。サーシャも礼を返したが、内心は言葉を選ぶのももどかしい気分だった。
「ご遠方からありがとうございます。ご到着は即位式の数日前と伺っていたので、驚きました」
「都合があり都の付近の町に駐在していたのですが……皇宮からのご使者に知らせを受けて参りました。この度は息子の勝手な行動に、なんと申し上げてよいのか……」
 パヴェル公は顔を上げたが、サーシャと目を合わそうとはしなかった。皇帝より一つ年下の彼は普段から穏和な人柄だが、今は憔悴しきった様子で言葉を無くしている。
「ご即位の前にこのような騒ぎを引き起こし、申し訳ございません。謝罪は私から正式にさせていただきます。どうか息子のことはお気にかけられませぬよう。ご即位前のお忙しい時期ですから」
「伯父上もそう仰るのですか?」
 サーシャは紫の瞳で見上げた。パヴェル公はわずかに視線を動かす。
「本来、殿下にお仕えさせていただけること自体がもったいない身だったのです。始めからいなかった者だと思ってお忘れください」
「彼はわたしの一番の従者でした。今もそうです」
 サーシャは思わず声を張り上げた。
「どうして即位などできるのです。この道を示してくれた彼がいないのに。忘れるなんてできません」
「もったいないお言葉です……。息子はなんと愚かなことを」
 パヴェル公はため息をついた。やはり目を合わそうとはせず、独り言のように呟いた。
「一年前、殿下の従者にしていただいた折は、本当にありがたいことと思いました。それが今頃になって……こんなことになろうとは」
(今頃になって?)
 伯父が漏らした微妙な言い回しを、サーシャは聞き逃さなかった。
「伯父上には――何か心当たりがおありなのですか?」
 パヴェル公は初めてサーシャの目を見た。四十前にしては若い栗色の目はまばたきもせずに開かれている。唇が何か言いたげに動いたが、言葉が出てこない様子だった。
「教えてください、伯父上。彼の居場所をご存知なのですか?」
「いいえ……私は」
「何かご存知なのでしょう? お願いします、どんなことでもいいのです」
「何も申し上げることはございません。どうかお忘れを」
「伯父上、お願いです。これさえ聞いたら、もう彼のことは何もお尋ねしません。無事でいるのを知りたいだけです」
 目をそらそうとするパヴェル公を、サーシャは逃すまいとまっすぐ見つめた。やがて公は肩を落とし、サーシャの背に合わせて身をかがめた。
「確信はございません。あまり公言できることではないのですが……」
 サーシャは同じ高さに来た伯父の目を見つめ、次の言葉を待った。公は声を落として続けた。
「――帝国の北の外れ、かつてのミハイル領より更に北に、シーアという小国があります」
 シーア。聞き覚えのある地名だった。大陸の西部で唯一レストワールに併合されず、独立を保っている北方の小国。レストワールとは争いもないが国交もなく、北端で孤島のように静かに存在している。皇家の世継ぎとして諸外国について学んできたサーシャでさえ、この国についてはほとんど知識がなかった。それほど国境の外と接触を持たない国なのだ。
「その国が……何なのです?」
 サーシャはゆっくりと聞いた。伯父は少し間を置くと、まっすぐな視線を向けて続けた。
「イリヤの母の生地です。息子は十一になるまでその国で育ちました」
「……母君の?」
 サーシャは繰り返したが、今一つ整理できない。
 パヴェル公の正妻は帝国の中流貴族の姫君で、数年前に病死したと聞いている。その女性(ひと)とイリヤの母親とは、同一人物ではないのだろうか。
 以前から気になってはいた。イリヤとパヴェル公は少なくとも外見に関しては、全くと言って良いほど似ていないのだ。伯父は帝国の民には最も多い、濃い茶の髪と目を持っている。サーシャはイリヤと目を合わせるたびに、その青い瞳はどの血筋から受け継いだのだろうと不思議に思っていた。
「伯父上……?」
「これ以上お話しすることはできません」
 パヴェル公は姿勢を元に戻した。
 サーシャは尚、正面を見て視線を動かさなかった。
「では彼は……生まれ故郷に戻ったということですか」
「おそらくは」
 いくつもの疑問が頭の中を駆け巡る。
 サーシャは目を見開いた表情のまま、伯父に頭を下げた。
「――聞かせてくださり、ありがとうございました」
 そのまま部屋の出口へ向かう。
「殿下」
 背後から呼び止める伯父の声。
「どうか……ご無体なことはなさいませぬよう」
 振り向いたサーシャは表情を動かさず、二、三度頷いた。

 廊下に出ると、早足で歩き始める。部屋まで送るという衛兵の言葉も振り切った。
 わかったこととわからないことが脳裏で渦を巻いている。
(故郷へ帰った……母君のご生地へ)
 イリヤの口からシーアという地名は聞いたことがなかった。それだけではない。誘拐犯として自分の前に現れるまで、彼がどうしていたのか、どこで育ったのかも知らなかった。イリヤは自分から話そうとしなかったし、サーシャもあえて聞こうとはしなかった。
(わたしはあのひとのことを、何も知らない)
 だからこうして置いていかれるのか。そして、一人残されて何もできないのか。
 ふと、廊下の先に小さな影が目に止まった。庭園に面した窓の枠に、何か動くものがある。夜の廊下は一定距離でかけられた燭台の光があるだけで、薄暗い。
 サーシャは歩み寄って、ぼんやりした光を頼りにその影を見つめた。
 鳩だった。窓枠にとまり、サーシャが近付いてくると小さく羽音を立てた。
(あの時の……)
 イリヤの伝書鳩だ。一年前、サーシャが自分をさらってほしいと頼んだ時、側にいたのを覚えている。
(あなたが唯一の証人なのね)
 サーシャは微かに笑んで、鳩に手を差し出した。鳩は人に慣れているのか、軽々とその指に止まる。
『国の上に立つ者は、国以外のものを愛してはいけない?』
『皇女であるわたしは、一人の娘として一人のひとを愛してはいけないの?』
 窓の外では半月がわずかに欠けていた。細い窓枠から月光が静かに降り注ぐ。
 サーシャは夜空を見上げ、一人頷いた。
(会いたい)
 会って、あの声できちんと話が聞きたい。
 鳩が指から飛び上がると、サーシャはもう歩き出していた。

 居室に戻ると、明かりはつけずに服を探す。持っている中で一番質素なものに着替えると、今度は書斎に向かった。政治学を中心に、ありとあらゆる学問の本が壁一面に並ぶ。その分厚い革表紙の間から、やや古びた紙切れを引き出した。帝国全土の地図が描かれている。
 それを握りしめると、部屋の入り口に向かった。音を立てぬよう、静かに扉に手をかける。すると、驚いたことに扉が独りでに全開した。
「何をなさってるんです」
「あ――」
 サーシャは後退りした。扉の前に、鋭い目をしたマリアが立っていたのだ。
「どこに行かれるんですか? 手に持っているのは何です」
「マリア、これは……」
「さあ、部屋に戻ってください」
「マリアお願い、見逃して――」
 サーシャの声を遮り、マリアは扉を閉めると、部屋の中に押し入った。そのままサーシャの手をつかんで引き寄せる。
「お願い、行かせてほしいの」
「いけません」
「お願い! どうしても会いたいの!」
「だめですよ、皇女さま」
「いや――」
 部屋の中央まで引っ張っていかれ、サーシャが絶望的な声を上げた時だった。マリアはサーシャの背後に立つと、その鳶色の髪に手を通した。サーシャが呆然としているうちに手早く髪をまとめ、自分の髪を編んでいた皮紐で束ねる。
「マリア……?」
 サーシャが呟くと、マリアは前に回った。
「そんな格好で王宮を抜け出すつもりですか? すぐに見つかって連れ戻されますよ」
「マリア、あなた」
「お静かに」
 微笑んだマリアは自分の頭を覆っていた女官用の頭巾を取り、サーシャの髪の上に載せる。形を整えて満足そうにうなずくと、今度は手にしていた外套を差し出した。
「買い出しに行く女官が身につけるものなんです。これだけすれば目立ちませんよ」
「――行かせてくれるの?」
「一年前、あなたがたに最初に助けられたのはあたしです。イリヤさんには皇女さまの側にいてもらわなくっちゃ」
 サーシャは笑み崩れた。
「マリア、ありがとう」
「即位式までに必ず帰ってきてくださいね。ご無事で、それからお二人で」
「もちろんよ」
 微笑み合うと、マリアはサーシャの背に手を当てた。サーシャは頷き、扉に向かう。
「皇女さま、気をつけて」
 サーシャは扉の前で振り向くと、もう一度頷いた。そして扉の向こうに踏み出した。


[ BACK / TOP / NEXT ]

Copyright (C) Kizugawa Yui.All right reserved.