Sasha [ 2−1−2 ]
Sasha 第二部

第一章 迷い鳩(2)
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 サーシャが暮らすのは皇帝の居住区の真下。この階は歴代の皇子たちの居住区とされてきたが、現在は皇帝のただ一人の皇女だけが住んでいる。
 従者であるイリヤは同じ階ではあるものの、渡り廊下を経た別の棟に部屋を与えられていた。
 居間と寝室を兼ねるその部屋の扉を開いて、廊下から差し込む光を頼りに燭台を探す。火を灯すと、薄暗い室内に朱の光が広がった。
 レストワールの冬の日は短い。春夏には夕方と呼べる時間でも、既に窓の外は暗闇だ。サーシャの部屋を出た後、侍従長に呼ばれて指図を受けているうちに遅くなってしまった。主が忙しい時、仕えている者はその数倍忙しい。
 イリヤは預かってきた書簡箱を机に載せると、椅子にかけてその仕事を見つめた。金細工が施された(あかがね)色の箱。蓋を開けると、丁寧に封をされた文が溢れるほど入っている。出して数えるまでもなく、十通は超えているだろう。
 アレクサンドラ皇女への婚姻申し込みである。
 イリヤは長い指でその束を取り出した。中には国内の有力者の署名もあるが、ほとんどは近隣諸国の王家からのものだ。
 年若い皇女が帝国の世継ぎになったと公表された時から、彼らは黙っていなかった。レストワールは大陸の西半分を占める大国である。その皇家と婚姻関係を結べば、自国の安泰は保障される。まして、その相手が未来の女帝であれば。
 イリヤは封を切って中身を確認すると、立ててあったペンを手に取った。
――丁重に、かつ毅然として返信を。
 侍従長からの命令だ。受けもせず断りもせず、ちょうどいい関係を保っておけと。新帝となる皇女の婿に他国の人間を迎えるかどうか、決め兼ねているようだった。
 現皇帝にはその気はない。婚姻を盾に皇位を主張されたり、逆にこちらが他国の継承争いに巻き込まれたりしては適わないといったところだろう。
 女帝の夫には、身分、能力共に申し分ない国内の者を。
 その白羽の矢が自分に立ちかけていることには、以前から気付いていた。代筆のペンを走らせながら軽く息を吐き出す。
 一年前、謀反人の計画を暴くために動いていたイリヤは、その策として皇女を誘拐した。いわば利用したのだ。それが結果的にサーシャを一人二役の任から解き、皇位継承者として認められるように導いたのだが。
 あの時から、こうなることは決まっていたのか。
 ペンを握る手がふと弱まる。
 闇の中に朱色の明かりが広がる部屋は、いたって静かだった。近辺の部屋は使われておらず、女官が廊下を歩き回る足音が時折響くだけ。
 筆先が紙の上で静止した。
 イリヤはゆっくりと顔を上げた。
 何が見えたわけでも、聞こえたわけでもない。ただ直感的に立ち上がり、窓の前に立った。東向きの出窓からは広い庭園が見渡せる。肌を貫くような冷気が入り込んできた。
 雪に覆われた庭園は、暗闇の中で灰色の光を帯びている。そのはるか向こうから近付いてくる小さな影。大体の予想を付けていたイリヤは、窓を大きく開けて影を迎え入れた。
 伝書鳩。皇宮に仕える前、密偵として働いていた頃に使っていたものだ。今ではほとんど使い道もないが、成り行きでそのまま手元に置いている。ただ数日前から姿が見えなくなっていた。
 窓から飛び込んだ鳩は部屋の空中で円を描くと、再び窓辺に立つイリヤの側に戻ってきた。手を差し出して鳩を止まらせる。その足にまだ新しい紙が結わえられているのが目に付いた。
 一瞬、思考が停止した。
「どこに行っていたんです……」
 鳩は答えるはずもなく、きょろきょろした目で首を傾げるだけ。
 仕方なく、その紙を解いて鳩を放す。細長く折り畳まれた文を開いた。
 窓の外では、月が灰色の雪の上に光を落としている。
 イリヤはゆっくりと、その筆跡を何度か読み返した。

 皇宮の庭園は広い。降り積もった雪が全体を白く染めて、どこまでも続いていく。氷の中にいるようだ。宮とは反対側の空に高く、青白い半月が浮かんでいる。冬の冴えた空気が夜空の星を澱みなく輝かせる。
 門の正面にある大きな銅像の下に立ち、イリヤは辺りを見回した。
 雪はやみ、冷たい静寂だけが辺りに漂っている。
「――来たか」
 突然、声がした。
 銅像の後ろからゆらりと影が動き、近付いてきた。像から離れて月の光に照らされたのは、十八、九の若者の顔だった。後ろで束ねたまっすぐな髪。研がれたように光る細い目。褪せた色の外套に身を包み、背丈はイリヤと同じか、少し下くらいだ。
「久しぶりだな。おれが誰かわかるか?」
「……」
 イリヤは答えずに見つめた。次の瞬間、肩を落とし、呆れたような口調で言った。
「――あなたですか、ニコライ」
「ご名答。七年ぶり、か。あまり変わってなさそうだな」
「それはお互いさまです」
「その口調も相変わらずか」
「そんなことを言いにはるばる帝国まで来たんですか」
 イリヤはにこりともせずに相手を見据える。
「いや、おまえの出世した姿を見てやろうと思ってさ」
「それはどうも。ご期待に沿えるかどうかはわかりませんが。――軽口はこのくらいにして、いい加減に話してください。国で何があったのですか」
 ニコライと呼ばれた若者は、そこで初めて笑みを消した。
「やっぱりな。わかるか」
「わかりますよ。よほどのことがない限り、あなたが帝国へ――しかもわたしのいるところまで来るはずがない」
「お言葉に甘えて、本題に入らせてもらおう。こっちの状況はどのくらい知ってる?」
「七年前の記憶の通りです。政権が交代したという噂も聞きませんし、摂政殿が治めておられるのでしょう」
「ああ。今のところはな」
 冷たい空気の中、二人の視線が凍結した。
「女王が亡くなって摂政殿が政権を得て、確実に国を治めてくれると誰もが期待してたよ。事実、数年間はそうだった。けれど納得しない人間がいたんだ。伝統と誇りに取り憑かれた年寄りたちがさ」
「……」
「あんな小さな国で内紛が起こればどうなるか。摂政殿はもう心身共に倒れる寸前だよ。国のほうもな」
 イリヤは目を閉じずに、記憶の中で情景を広げた。どこまでも続く白い大地。時の止まったような古い石の城。
「七年か……」
 呟いた言葉が重く響く。ニコライはその瞬間を捕らえるように聞いた。
「おまえ今、帝国では何をしてる?」
「見ての通りです。皇宮に仕えていますよ」
「――どうしても手放せない仕事なのか?」
 イリヤの瞳が一瞬揺れた。
「どういう意味です」
「帰ってこないか。やっぱりお前がいないとだめなんだよ」
 予想していた言葉だった。驚いてはいなかった。それでもイリヤは息を呑んで、しばらく言葉を返せなかった。
「――わたしは、摂政殿の邪魔になると思って国を出たのですが」
「おれはその摂政殿の命でここに来たんだよ。――どれだけ緊迫しているかわかるだろ?」
 古い情景が再び脳裏に広がった。だがそこに新しい記憶の声が響き渡る。紫の瞳を輝かせた少女の声。
「わたしは帝国の人間です。故国で何が起きようと、今現在を捨てるわけにはいきません」
「それはわかるよ。わかってて言ってるんだ。どちらを選ぶかはおまえが決めることだけど」
「残念ながら――過去を選ぶことはできません」
「おまえ、皇宮に仕えているって言ったけど、どういう仕事なんだ。少し前までは密偵じゃなかったか?」
「……いえ、それは一年前に終わりました」
「今の仕事は? おまえじゃないとできないことなのか」
「……さあ」
 声に出した言葉は、冬の暗闇に消えていく。
「なあ、帰ってこないか。タチアナも待ってる」
 イリヤは正面のニコライから目を外さず、黙って話を聞いていた。だが実際の視線は別のものを見ているようだった。
 雪の敷き詰められた古い情景が脳裏を支配する。精彩を欠いた灰色の記憶。その雪を解かすように、鮮やかな紫の瞳が記憶を妨げる。
『これからも側にいて、わたしのなすべきことを助けてくれる?』



 朝。窓の外は真っ白い光を放っていた。これ以上積もることもなさそうだが、空は分厚い雲に覆われている。
「もう少し大雪が続くわね」
「冬はこれからですから」
 暖炉に薪をくべながらマリアが答えた。この侍女のおかげで、サーシャの部屋は湯の中のように暖かい。石組みの暖炉の中では積み立てられた木が炎を上げている。
 その火が弾く乾いた音に重なって、来客を告げる声が聞こえた。マリアが扉を開けて取り次ぐ。振り返った彼女は血相を変えてサーシャに言った。
「皇女さま、皇帝陛下がこっちに」
「え?」
「もうそこまでいらしてます。このままお迎えしていいですか?」
「そうして。――父上が、どうして突然」
 マリアたち侍女と衛兵が慌ただしく動き、数分後、皇帝の姿が部屋の中にあった。
「どうなさったのです」
 深く礼をして挨拶した後、矢継ぎ早にサーシャは聞いた。
 もともと表情豊かではない父だが、今の顔は硬いと言うより重い。勧められた椅子には目もくれず、側にいたマリアのほうを向いた。
「悪いが、席を外せ。皇女に話がある」
 マリアは気遣わしげにサーシャを見たが、すぐに頭を下げて立ち去った。
 狭い居室に、父と娘が向かい合って立っている。
「……父上?」
「落ち着いて、よく聞け」
 皇帝はかなり上から皇女を見下ろし、静かに言った。
「彼が消えた。少なくとも、皇宮にはもういない」
「……彼?」
 首を傾げた次の瞬間、冬の湖のように、紫の瞳が凍りついた。
 父が“彼”と呼ぶ人。その異変を直々に皇女に知らせに来るような人物。一人しか思い当たらなかった。


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