Sasha [ 2−1−1 ]
Sasha 第二部

第一章 迷い鳩(1)
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 深雪の冬を迎えたレストワール帝国の都、ぺテル。真っ白な庭園を見下ろす皇宮の中では、三桁に届く数の人間が右へ左へ駆け回っていた。
 女官たちは皇宮の隅から隅まで埃を落とし、庭師は雪の中の庭園を絵のように整え上げた。城壁に立つ番兵は次から次へとやってくる訪問者の対応に忙しい。室内にこもる官吏たちも、それぞれ膨大な書類と向き合っていた。
 すべては、この皇宮の奥に住む、一人の少女のためである。

 長い鳶色の髪の上に、光沢を放つ金の輪が載せられる。紅や青、緑の宝石が散りばめられた中、ちょうど額に来る部分にはひときわ輝く紫の石があった。この色はレストワールでは皇家の象徴であり、その血縁の証でもある。
「ぴったりです、どうもありがとう」
 少女が微笑んだ。
 皇宮内に複数ある居室の中でも一番小さな部屋。少女は背もたれのない椅子に腰掛けて、頭上の冠に手を当てていた。そのままゆっくりとそれを外すと、前に立っていた四十過ぎの宰相が受け取った。
「こうして皇冠の寸法をお作りし直していると、改めて実感しますな」
「何をです?」
「やはり、これまでの皇帝とは違うのだと。殿下はお若いし小柄でいらっしゃるし、何より……」
「女ですから」
 少女は宰相の言葉を遮って、少しだけ笑顔を作った。
「由緒ある皇冠をこんなに小さくしてしまうなんて、古い重臣たちはこれだからと言うのでしょうね」
「しかし、ほとんどの者は――特に国民たちは喜びますよ。新しい皇帝陛下はこんな華奢な冠の似合う姫君だと」
 少女は穏やかに息を吐き出すと、宰相の手の皇冠を見つめた。深みのある紫の瞳はこの一年で落ち着きを増したが、あどけない輝きは消えていない。
 少女の名はアレクサンドラ。
 この冬、十六を迎えたばかりの皇女が頭上に皇冠を受ける。
 その新しい歴史が刻まれる日は、一月後に迫っていた。

「冠はどうでした? 皇女さま」
 宰相が去った後、入れ替わりに部屋に来た侍女のマリアが尋ねた。二つに編んだ赤茶の髪が目立つ、若い娘である。
「ぴったりだったわ。宰相殿がわたしに合うように作り直させてくださったの」
「良かったですね。それじゃ、お衣装のほうも見劣りしないものを作らなくちゃ」
 マリアの言葉に、皇女の声が少し小さくなる。
「即位式の衣装なら……礼服を特別に拵えてもらったけど」
「あら、肝心なのはその後の宴で着られるドレスです。お客さまも大勢いらっしゃるし、これ以上ないほどの晴れの席なんですから。最低でも五回は着替えていただかなくちゃ」
「冗談じゃないわ。一つ着こなすだけでも恐怖なのに」
 皇女が肩をすくめる。マリアはおかしそうな表情を隠すこともなく笑う。
「年配の女官たちが言ってましたよ。うちの姫君は年頃なのに見栄えに興味がなくてもったいないって」
「だって……苦手なの。男装しなくなって始めは嬉しかったけど、やっぱりひらひらした衣装はわたしには合わないみたい」
「変なわがままですね」
「あなたや女官たちには張り合いがなくて申し訳ないけど」
 それでもこの一年、一人二役をやめて完全に「皇女」となった彼女は、外見もずいぶんと変わりを見せた。本人は苦手だと言うものの、マリアが見立てた明るい青の衣装も良く映える。耳元で跳ねていた鳶色の髪は、今や二の腕に届く長さになっていた。
 大きな出窓からは、小春日和の太陽が床に陽だまりを作っている。この冬、皇宮は深い白銀の雪に覆われているが、昼間は至って天気が良く、明るい日が続いていた。
 冬の陽気にふさわしく、二人の娘の声は軽やかに弾む。
「これからまた、即位式の準備ですか?」
「いいえ。式のことは今日はおしまい。午後はいつも通り、博士方に付いて勉強します」
「明日からは隣国のお使いとの謁見が続くんでしたね。式場も何度か見ていただかなきゃいけないし、本当にお忙しいわ。それから、皇家のお墓へは……」
「明後日、参る予定です。母上と弟と、――それから、おばあさまに」
 皇女はわずかに目を伏せた。
  一年前、皇女の叔父に当たるミハイル公が失脚した折、イーラ皇太后は公に付いて流刑地へ渡った。孫娘である皇女が手に入れた自由と地位は、皇太后にとってはもう一人の息子の罪と引き換えだったのだった。
 その皇太后が辺境の流刑地で病死したと知らせを受けた時、皇女は泣きはしなかった。叔父の罪を暴いたことは後悔していない。それは祖母も理解してくれていた。皇太后は最期の一年間を息子の側で過ごしながら、孫娘のことも遠くから見守ってくれていたのだ。
(泣いている暇はない。これまでのことを無駄にはできない――)
 殺された母と弟。負の歴史を背負った祖母。罪人になってしまった叔父。
(わたしはあなたのようにはなりません――)
 皇女が立太子して約一年。皇帝アレクサンドル四世は譲位を決意した。帝国史上初の女帝の誕生である。
「サーシャ……」
 皇女は小声で、自分のもう一つの名を呼んだ。祖母が幼いころから呼んでくれた愛称。
 現在、皇女をこの名で呼ぶ人物は、帝国中で一人しかいない。



 皇宮の最上階にある皇帝の居住区。閉じられた扉が並ぶ廊下に、若者が一人立っていた。色素の薄い茶色の髪、切れ長の青い目はこの国では珍しい。加えて姿勢のいい長身もあり、皇宮に仕え始めた頃は嫌でも視線を集めた。
 だがそれも一年前のこと。今では皇帝の周りに仕える人々も、彼の顔と名前、そして立場を覚えている。
 二人の衛兵が扉を開けると、イリヤは深く礼をして中に入った。
 皇宮にしては殺風景な部屋。広くない室内には正面に長椅子が一つ置かれているだけ。そこに腰を下ろす四十前後の大柄な男性に促されると、イリヤは椅子の前に長身を折って片膝を付いた。
「突然呼び出してすまなかったな」
 椅子の上から、現レストワール皇帝アレクサンドル四世が声をかける。
「皇女は今どうしている?」
「宰相閣下と即位式のことで打ち合わせを。皇冠が完成したようですので」
「そうか……」
 皇帝は椅子に身を沈め、視線を遠くに移した。鳶色の髪に紫の瞳。はっきりとした目鼻立ち。皇女の容姿の多くはこの父親譲りだ。
「何かご用がおありだったのでは?」
「いや……そなたと少しばかり話せたらと思ってな」
 皇帝が落ち着いた顔を上げる。イリヤは床の上に立ち上がった。にっこりと、皇宮では彼の代名詞となりつつある笑顔を浮かべる。
「即位式では、陛下が御自ら皇女に戴冠なさるそうですね」
「ああ。わたしが決めさせた」
「それにしても、先帝がご健在のうちに譲位とは、歴史に例のないことですが」
「皇位について二十年近く。私も疲れた。引き継いだ領土を守り、帝政の基盤を固め、やるべきことは果たした。后には先立たれてしまったし、そろそろ位から解放されて静かに生きたい。皇女が世継ぎとして公認された今が、ちょうどいい機会だと思うのだ」
 皇帝は低い声、ゆっくりした口調で語った。
 黙って聞いていたイリヤは少し首を傾けた。そして、微かに笑んでこう言った。
「そのように話しておられるのですか。表向きには」
「何?」
「史上初の女帝陛下誕生を温かい目で見ている者ばかりではありませんから。父君が亡くなられた後では反対勢力に皇位を奪われかねない。そうならないよう、ご自身の手で確実に譲り渡したいのでしょう」
 皇帝は目を皿にしてイリヤを見つめた。やがて大きく息を吐き出し、背もたれに身を任せた。
「……そなたは温厚そうな顔をして、何もかも把握しているな」
「いえ、……少し考えたらわかります」
 イリヤは抑揚なく言った。
 あまり表にこそ出さないが、時の皇帝も娘が可愛くて心配で仕方ないのだろう。一人二役という役目を背負わせ、十五年間隔たっていた分の反動を差し引いても。
「……まあ良い。そなたにはアレクサンドラが置かれている状況を誰よりも理解しておいてもらわねばならぬのだから」
 皇帝の声に、イリヤの表情が硬くなる。
「そなたは得がたい臣下だ。皇位に就いてからも、あれの一番の力になってくれると信じている」
「恐れ入ります」
「政務の上でも、精神的にもな。君主は重い地位だ。支えるものがなければ倒れてしまう」
 イリヤは黙ったまま、表情一つ動かさずに聞いている。
「アレクサンドラの資質を誰よりも早く見抜いたのはそなただったな。感謝している。あれはまだ、君主として成長し始めたばかりだ。これからも今まで以上に力になってやってほしい。皇女もそなたを頼りにしている。――ただ、気をつけてほしいことがある」
 立ち尽くすイリヤの表情が、わずかに動いた。
「特定の臣下が君主と距離を縮めるというのは、あまり歓迎できないことだ。君主が盲目に陥る可能性もあるし、外聞もうるさい。その君主が女である場合は、尚更だ」
 全てが静止したような空気が流れる。
 皇帝はこれを話すために自分を呼び出したのだと、イリヤは悟った。それを知ってか知らずか、皇帝はやや声を落とした。
「――女君主の夫という立場がいかに難しいかは、そなたにもわかっておろう。しかもそなたはアレクサンドラを産んだ皇后の親族。皇家にとって後見にも逆賊にもなり得る、諸刃の剣だ」
「……」
「それでも皇女に仕えてほしいと願うのは、そなたの実力を買っているからだ。難しい立場になるが、そなたなら器用にこなせるだろう。疎遠過ぎず深入りし過ぎず、上手に仕えてやってくれ」


 サーシャは読んでいた本を閉じた。マリアがお茶を載せた盆を抱えて、部屋に入ってきたからだ。
「お疲れさまです。お勉強はもうおしまいですか?」
「ええ。――ありがとう」
 サーシャは微笑んでティーカップを受け取る。
 南向きの窓から、傾いた日の光が射し込んでいる。午後は夕方に近付き始めていた。もうじき、窓から見える純白の雪が朱に染まる。
「今日も終わってしまいますね」
「毎日が本当に早いわ」
 サーシャがカップを傾けた時、部屋の扉を叩く音がした。
「はーい?」
 下町なまりの消えない声で答えて、マリアが扉を開ける。取り次ぎの衛兵と少し言葉を交わした後、サーシャを振り返って意味ありげに微笑んだ。
「――どなた?」
「きっと喜びます」
 誰に言うともなくマリアは呟き、扉を大きく開けた。
「失礼いたします」
 入り口で一礼し、マリアにも軽く会釈をして部屋に現れたのは、イリヤだった。
 サーシャは少し目を大きくして見つめた。
「突然どうしたの」
「来てはいけませんでしたか?」
 青い目が微笑で細くなる。
「そうではないけど……珍しいのね」
 一の従者でも四六時中、側にいるわけではない。皇女の即位が決まってからはお互いに忙しく、数日顔も見ないことも少なくなかった。特に、イリヤのほうから部屋に訪ねてくるのは前例が思い当たらないことだ。
「ほんとに、めったにないことですね」
 向き合う二人を見つめて、マリアが機嫌よく笑いながら言った。
「それじゃあ、あたしは女官長に呼ばれてますから」
「え? マリア……」
「イリヤさん、どうぞごゆっくり」
 扉の前で振り返って笑いかけると、マリアは扉の向こうに消えた。
 一年前、旅先のミハイル領で出会ったマリアは、弟と共に皇宮に引き取られて女官となった。よく気のつく娘だが、時々それが高じてしまうのは考えものだ。何しろ一年前、誘拐犯とその人質だった二人を、駆け落ちしてきた姫君と従者だと思い込んでいた彼女である。サーシャが否定したため勘違いは晴れたが、今は今で別の想像を勝手に膨らませているらしい。
 その結果、サーシャとイリヤは前触れもなく部屋に二人きりにされてしまう。
(わたしは何も話していないし、実際に話すことなど、ほとんどないのに……。マリアは一人で喜び過ぎなのよ)
「サーシャさま」
 突然、イリヤの声が静かに降ってきて、サーシャは慌てて顔を上げた。
「は……はい?」
「どういたしましょう。お邪魔でしたら出て行きますが」
 え、とサーシャは固まる。イリヤは相変わらず笑顔を崩さない。
「――別に邪魔じゃないわ。わたしも時間は空いたから。……ここにいて」
 許可なのか、命令なのか、懇願なのかよくわからない台詞に、イリヤは笑ってはい、と答える。サーシャは頬を赤くして俯く。
(やっぱり、このひとには適わない)
 主導権はこちらにあるはずなのに、どうしても彼に流されているような気がするのはなぜだろう。
「でも本当に珍しいのね。何か用があるわけではないの?」
「――むしろわたしから聞くべきです。サーシャさま、何かご用はございませんか?」
 サーシャはちょっと首を傾けた。
「いつもなら勉学を見てほしい、とお願いするところだけど」
「今日は博士方に来ていただいていたのでは?」
「でも、まだまだなの。皇子として十五年間学んできたことなんて、お飾りの知識でしかなかったのね。これで一月後には皇位に就いて実際に政務を執るなんて……」
 サーシャはため息をついた。
「しかも、博士も……父上の臣下たちも、すごくわたしに甘いの。殿下はお若いから、立太子して間もないから、即位しても実務は周りの人間に任せておけばいいからって。信用されていないということよね。……でも言い返せないわ」
 何度も息を吐き出すうちに、気分も重くなってくる。だがそのまま沈んでしまわない。表情と一緒に顔の向きも浮上させて、サーシャは言った。
「正直言って、あなたに教えてもらうのが一番ためになる気がするの。今までも合間に何度か見てもらっていたけど、これからもお願いしてもいい?」
「サーシャさま、わたしはあなたの従者です。それも元誘拐犯の。そんな素人があなたにお教えできることなど、大してありませんよ」
「そんなこと」
 とんでもない謙遜か過小評価だ。イリヤがその穏やかな表情からは想像もつかないほど博識なのを、サーシャは知っている。ミハイル領で見せた医学の知識も、そのほんの一部に過ぎなかったのである。
「今日、父上に呼ばれていたでしょう。何のお話だったの?」
「ああ……いつもと同じようなことです。新帝陛下の従者としての心構えなどを、一通り」
「そう。父上はなんと仰っていた?」
「……」
 イリヤは表情を崩さずに、少し沈黙した。サーシャはその目を見て首を傾げる。
「サーシャさまのことをずいぶんご心配されていました。皇帝は重い地位だから、と」
「だからあなたに、臣下としてよろしく頼むって?」
「そういうことです」
「他には?」
「他には……」
 イリヤは言い澱んで視線をそらした。サーシャは首を傾けて彼の答えを待つ。目が合うとイリヤは困ったように笑い、やや声を低めて言った。
「女君主の夫という立場について――釘を刺されました」
 サーシャは思わず、椅子から飛び上がりそうになった。
 本気で耳を疑ったが、どうやら聞こえた通りらしい。イリヤはいたたまれなさそうに苦笑しながら、サーシャの反応を伺っている。
 サーシャは会話を続けようと、必死で言葉を探した。心拍数が倍になり、みるみる頬が上気していくのが自分でもわかる。
「ち――父上は気が早いわ! あ、あの、ほ本気にしないでね。父上ったら本当に、何を勘違いして――あ、う、嘘だとは言わないけど。とにかく、あの、わたしは。いえ、あなたは……だから、あの――」
「わかっています、サーシャさま。落ち着いてください」
 イリヤが苦笑したままサーシャをなだめる。
 サーシャの顔はますます熱くなり、なんとか鎮めようと自分の手で頬を包んだ。
(女君主の……夫ですって?)
 不意打ち以外の何者でもない。突然、何を言い出すのだ。だがイリヤ自身に罪はない。彼もまた、反応と対処に困っている。
 サーシャは敬愛してやまない父を、この時ばかりは心底呪った。
「驚かせて申し訳ありません」
 イリヤが穏やかな声と笑みで、サーシャの顔を覗き込んで言った。
「皇帝陛下のお言葉とは言え、お気になさらないでください」
「あの――」
「わかっていますから」
 見慣れた笑顔が目の前にある。
 サーシャの鼓動と体温がようやく落ち着き始めた。それを察したかのようにイリヤはまっすぐ立ち、軽く礼して言った。
「どうもお邪魔いたしました。出て行きますから、落ち着いてゆっくりお休みになってください」
「え?」
 引き止める間もなく、イリヤは部屋の入り口に向っていた。その姿が扉の向こうに消えた時には、サーシャの頬も胸もすっかり冷たくなっていた。
(わかっている? ……何を?)
 一年前、まだイリヤの身分を知らなかった時。サーシャは誘拐犯だった彼に、自分をさらってほしいと頼んだ。あの月夜の記憶は夢だったのだろうか。彼が逆賊だった頃のほうが、ずっと近くにいたような気がする。
 今は一番の従者としてこの上ない支えとなってくれている。帝国中で彼だけがサーシャをその名で呼ぶのも、サーシャ自身が望んだことだった。
 すべては命令通り。だが、それだけだ。
(何もかも叶えられたはずなのに……)
 近付けば近付くほど、距離が広がっていくように思えるのはなぜだろう。

 即位式まで一月を残した晩のことだった。
 皇宮に一羽の鳩が着いた時から、二人の距離は急激に広がっていくことになる。


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