Sasha [ 1−7 ]
Sasha 第一部

第七章 幻
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「誘拐されたアレクサンドラ皇女だ。城にお連れしろ」
 兵士の後ろから、背の高い男が命令した。数日前にこの街で見た市長だった。
 二人の兵士が剣を手にして、サーシャのほうに向かう。前に立っていたイリヤがじっと構えて視線を向けた。
「丸腰で十の兵士に向かう気か」市長が冷たい声を放つ。「安心しろ、皇女殿下は領主様の前にお連れするだけだ。下手に抗うほうが、そなたにも殿下にもためにならないのではないか?」
「……」
 イリヤは黙ったまま、無表情で両手を上げた。
「その男はミハイル公に欺き、皇女を誘拐した。領主にも皇帝にも危害を加えた逆賊だ。連行しろ」
 市長の声に、兵士の数人が剣でイリヤを取り囲む。イリヤは表情を動かさずに静止していた。
「失礼いたします、皇女殿下」
 別の兵士の手がサーシャにかかる。
「いや――離して」
 声も虚しく、サーシャの細い腕は二人がかりの手で捕らえられた。サーシャは身動きできないまま顔を上げ、市長に向かって叫んだ。
「なぜ――なぜわたしがここだとわかったの?」
「先刻、街であなたのお姿を拝見したと申す者がおりまして」市長は凍りついたような視線で話す。
「……?」
「あなたがご自分で名乗られたのでしょう。皇宮に仕える者が皆、お父君の味方だと信じておられましたか?」
 そのとき、サーシャは刃で貫かれたような思いがした。
(あの兵士!)
 皇宮から派遣され、誘拐された皇女を探していた兵士。サーシャは見つかったが、とっさに皇子になりすまして切り抜けた。あれがミハイル公の手の者だったというのか?
 サーシャはイリヤの顔を見た。彼もサーシャを見たが、その目には感情を出さず、何も読み取れなかった。
(ごめんなさい)
 サーシャは心の内で、何度も繰り返した。
(わたしのせいで――)

 二人が捕まったまま階下に下りると、すでにそこも市長の兵士で固められていた。眠っていた子供たちが目を覚まし、泣き声を上げている。マリアは剣で抑えられ、呆然と立ち尽くしていた。だが、下りてきたサーシャの顔を見るなり、目を見開いて叫んだ。
「サーシャ!」
 サーシャの頭に悲痛な声が響く。とても彼女と目を合わせられなかったが、顔を上げないわけにはいかなかった。
「マリア……」
「どういうことなの、これ。露見したの? どうして急に?」
 家の外では、すでに変化に気付いた街人たちが集まり始めている。
「乱の中心になった男たちを捕らえろ」
 市長は吐き捨てるように命じた。
「二度とこんなことを考えないよう、極刑にかける。この逆賊も一緒にな」
 そう言って、両腕を押さえ込まれたイリヤの顔を覗く。イリヤは表情を閉ざしたまま、市長に目を向けた。
「やめて! 極刑など許しません!」
 サーシャが叫ぶ。市長は振り向いて言った。
「皇女殿下、あなたには別の役目を負っていただきます。我らの領主さまが皇位を手にされるために」
「皇女? なんのことなの、サーシャ」
 マリアが戸惑いの声を上げる。
 サーシャは答えられずに俯いた。もう、彼女に何を言う資格もない気がした。
(わたしのせいで)
 兵士が走り回り、街人が叫び、辺りは戦のようになっていた。子供たちの泣き声が響く。街人の中から、サーシャへの疑問の声が上がる。
 市長は彼らを一掃するように叫んだ。
「ここにいる民衆どもは、皇女を誘拐した逆賊に手を貸し、領主さまを欺こうとした。全員、謀反の罪に値する」

(わたしのせいで!)



 雪に閉ざされた城の、暗く冷たい部屋。サーシャは連れて来られるなりそこに入れられ、外から錠を下ろされた。
 二つの窓の他、何一つ置かれていない殺風景な空間。夜明けまで数時間。月の光だけが降りそそぐ中、床にうつ伏せになってじっと動かずにいた。
 イリヤと十人ほどの街人は、捕らえられて囚人の牢に入れられているという。それを聞いても、もう何をどうしようとも思わなかった。
 こうなった今、自分に何ができるというのだ?
(やはりだめだったのだ。わたしが愚かだから――)
 サーシャは床に頬を押し当て、目を閉じた。このまま地に潜り込んで消えてしまいたいと思った。
(虚像の分際で、思い上がったことをするから。影は影でいるべきだったのだ)
 涙も出なかった。
 空気の冷たさも感じられなかった。
 月の光だけが辺りに満ちて、柔らかなベールを作っている。サーシャはその中に身を沈め、目を開けなかった。
 五感が少しずつ薄れていく。
 瞼の向こうの光がうっすらとし、次第に意識が遠のいてきた。
(やっぱりわたしは、だめなのだ)
……。
(皇子の代わりにはなれない。皇女としても中途半端)
……。
(みんなが必要としているのは、わたしではなかった)
……上。
 遠く、声が聞こえた。サーシャの意識はそれを受け入れず、じっと目を閉じていた。
 イリヤの顔が胸に浮かんだ。
(あのひとが、初めてわたしを見つけてくれた)
……姉……上。
(でもそれは買いかぶりだ。本当のわたしなど、どこにもいない)
……姉上。
 声が、頭の中にはっきり響いた。
 サーシャは本能的に目を開いた。ゆっくり頭を上げ、身体を起こす。

“姉上”

 月のベールの中に、少年が一人、立っていた。
 耳元まで伸びた鳶色の髪、皇家の者だけが持つ紫の瞳。限りなく優しく、どこか哀しい笑みを浮かべて、彼はそこにいた。
 サーシャは動けずに見つめた。
(わたし?)
 まさに、皇子の姿をした自分だった。だが、自分はここにいる。一人二役を演じているとは言え、同時に二人の人間が存在するはずはない。その証拠に、少年はサーシャに微笑んで、もう一度、こう呼んだ。
“――姉上”
 夢を見ているのだろうか。それとも、十五年前に死んだ双子の弟が、幻となって現れてくれたのだろうか。
「アレクサンドル……」
 サーシャは弟の名を呼んだ。十五年間、自分が演じ続けてきた皇子の名を。
 彼は相変わらず、月光に溶けてしまいそうな柔らかな笑みで、サーシャを見つめている。
 サーシャは口を開けたまま、言葉に詰まった。何から言うべきかわからなかった。血を分けた双子の弟。死んだのに生きている皇子。自分が演じ、その分だけ皇女の自分を影に追いやってきた者。
 その張本人が、今、目の前に立っている。
 皇子の目はただ優しく哀しく、サーシャを見つめたまま動かずに立っている。
 サーシャは口を押し開いた。何か言わなければ。成長した姿で現れてくれた弟に。
 サーシャは彼から視線を落とし、重い言葉を押し出した。
「――ごめんなさい」
 頭上から、柔らかな声が降りそそぐ。
“……なぜ?”
 耳からではなく、頭に直接響いてくるような声だった。サーシャは俯いたまま答えた。
「わたしは、あなたの代わりを務めきれなかった。父上を喜ばせられず、民も助けられず――。わたしは皇子になどなれないわ。この手では何一つ守れない」
“どうして、そんなことを?”
「だって、この状況を見て」
 サーシャは声を高くして見上げた。弟の表情からは笑みは消えていたが、相変わらず穏やかだった。
「なぜあなたは、死んでしまったの?」
 サーシャは問い詰める。皇子の視線が揺れた。
「父上にもこの国にも、あなたは必要だったのに。世継ぎとして成長し、皇帝になるのはあなただったのに。わたしでは代わりになれない――」
“代わりなど”
 皇子は再び微笑んだ。サーシャをまっすぐ見下ろして続ける。
“あなたはわたしの影などではない”
 弟の声が、月のベールとサーシャの胸に響く。
“あなたを待っている人々がいます。彼らが必要としているのは死んだ皇子ではなく、生きているあなたです、姉上”
「……わたしを?」
 弟はゆっくり頷いた。
“あなたはその足で彼らを助けに行き、その手で彼らを救い、その声で彼らを導くことができる。あなたがうらやましい”
 そこまで聞いて、サーシャは雷に打たれたように気が付いた。当たり前だったこと、今まで見過ごしてきたことに。
 弟は、死んだのだ。
 もうこの世にはいない。もう帰ってこない。父に会うことも、世継ぎとして育てられることも、国民と触れ合うことも、彼にはできないのだ。
 サーシャはゆっくりと立ち上がった。まっすぐ向き合うと、弟のほうが僅かに背が高い。
「ごめんなさい」
 さっきとは、まったく違う意味で。
「わたしは十五年間、あなたの代わりを演じてきた」
 弟の温かい視線から、目を離さずに。
「でも、あなたの分まで生きることはできない」
 弟は死んだ。自分だけが生きている。それが動かぬ事実だ。それだけのことにやっと気付いた。死んだ皇子の影に取り憑かれていたのは、父よりも自分のほうではなかったか?
 弟はにっこりと微笑み、漂うような声で姉に語りかけた。

“それでいいのですよ、姉上”
“あなたはわたしでも、虚像の皇女でもない”
“何よりも先に、あなたという一人の人間なのだから……”

 光が溢れた。それは月ではなく、顔を見せた朝日だった。
 サーシャは呟く。
「まだ間に合うかしら? わたしにも、できることがある?」
 弟は、今度は力強く頷いた。
 サーシャはイリヤを、マリアを、弟のアリョーシャを、街の民たちを、自分を信じてくれた人々を思い出した。
(わたしはここにいる。生きている。あのひとたちを助けられるのは、わたしだけ――)
 固く、胸に誓った。
 朝日が少しずつ、辺りに満ちてきた。サーシャは、前に立つ皇子の姿が少しずつ薄らいできていることに気付いた。彼は間もなく消えるのだ。本当は十五年前に消えてしまった命なのに、今ここに、自分の前に現れてくれた。
 サーシャはしゃんと顔を上げ、アレクサンドル皇子と向き合った。
「弟よ。あなたを冥界に送ります」
 皇子は何も言わず微笑んだ。
「もう眠って。静かに……」
 サーシャの声が消えていくのと同時に、皇子の姿は朝日に溶けた。もしかすると彼は、十五年前死んだときから、ずっと側にいてくれたのではないだろうか? 残していった父のことを、また、自分の役まで演じることになった姉のことを思って。
(そして最後に、わたしに姿を見せてくれた……)
 だが、もう二度と現れないだろう。サーシャは自分を見つけた。皇子の身代わりでも皇女の虚像でもない、本当の自分を。
 地を踏みしめる足が、こんなに力強かったことはなかった。全身に浴びる朝日が、こんなに明るかったことはなかった。
(わたしは、サーシャ)
 光の中に立っている、この自分が。
 一瞬だけ目を閉じ、そして開いた。
 朝日が辺りを支配し、一日の始まりを告げていた。運命をもう一つ、大きく左右することになる、新しい一日の幕開けを。


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