Sasha [ 1−6 ]
Sasha 第一部

第六章 約束の行方
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 略奪は、誰の目から見ても成功だった。盗み出した食料は街人の集まる家に全て運び込まれた。サーシャはその後、証人を消すことを考えた。食料庫を見張っていた兵士は全て捕らえ、捕虜として家に連れ込んだ。
「……そのうち数人は、こちらに寝返ったそうですね」
 イリヤがそう言ったが、サーシャは驚かなかった。役人に仕えているとはいえ、兵士もこの街の人間である。悪政に反感を抱いて当然だ。
「ミハイル公の耳に知らせが届くまでに、次の行動に移らなくてはならないわ」
 集う家の広い部屋で、サーシャは街人たちに言った。この略奪には、町の民のほとんど全員が参加した。役人側にも寝返ったものがいる。これはすでに反乱である。市長とその軍だけでは対処しきれまい。そうなると、動くのは当然、一番上の者。領主であるミハイル公だ。
 街人たちは床に並んで座り、じっと黙ってサーシャのほうを見つめていた。肌が切れそうなくらい空気が張り詰めている。サーシャはそれに気付いて、にっこり笑って見せた。
「あなたたちはすごかった。もう役人も領主も敵ではないわ。黙っていることなどないのよ。声を上げて正解だったでしょう?」
「違いないね」
 後ろのほうにいた若い女性が、真っ先に答えてくれた。サーシャは微笑み返す。
「だから、次に行きましょう。腐った政治は一番上から正さなくてはいけない。領主の城に……ミハイル公に訴えに行くの」
 若者たちが声を上げた。女たちは手を取り合った。サーシャはその光景を見つめて、自分の胸も満たされていくのを感じた。ほんの少し声をかけてやり、ほんの少し動きを指図するだけで、民衆とはこんなにも強くなるのだ。皇宮で皇子の身代わりとして施されてきた世継ぎ教育は、この日のためだったのではないだろうか。
(ここに来て良かった。わたしにもできることがあったのだわ)

 話し合いは終わり、夜は更けて、街人たちは散り散りに帰っていく。明日はいよいよ、ミハイル公の城に乗り込むことになる。
 人が慌ただしく動く中で、イリヤが静かに声をかけてきた。
「何度も言いますが、明日はくれぐれもお気をつけください。位が上の者ほど、あなたのお顔を見知っている者は多くなります」
「わかっている。この計画が終わるまでは、絶対にわたしは捕まらないわ」
 サーシャは言いながら、イリヤの青い目に見入っていた。吸い込まれそうになって、はっと我に返る。顔がほてるのを感じながら目をそらした。このごろ前にも増して、彼と話していると落ち着かなくなる。
 サーシャは必死で言葉を探した。そして、あることに気が付いた。
(反乱が成功したら……最終的にはミハイル公と対面して、わたしがここにいることを皇宮に知らされるわ。帰らなくてはならない……)
 その途端、まだ始まってもいない反乱が、このまま終わってほしくないとさえ感じた。皇宮に戻っても、虚像の皇子と皇女を演じ続けるだけだ。このままここにいて、自分を必要としてくれる人たちと暮らせたら――。
 サーシャがいたたまれずに黙っていると、イリヤが口を開いた。
「今日は、ご立派でした」
「え?」
「ミハイル公の悪政を戒めると言っても、まさか民衆がそのために動いてくれるとは思わなかった。あなたのお力です」
 見下ろすイリヤの瞳は、限りなく優しく、同時に力強い。サーシャは慌てて俯いた。
「わたしは……それほど大したことをしていないわ」
「いいえ」イリヤの声が、上からはっきりと届いた。「いいえ。あなたです、サーシャさま。ミハイル領にご同行をお願いしたのが、あなたで良かった」
 イリヤはふわりと微笑を浮かべた。
 その瞬間、サーシャの中で何かが弾けた。

――あなたで良かった――

 同じ言葉を、心の中からまっすぐ返した。
(さらってくれたのが、あなたで良かった。ここまで連れて来てくれたのが、このひとで良かった――)
 彼が自分を皇宮から連れ出し、初めて自分の正体を見破った。そしてミハイル公のことを教え、民のことを教え、サーシャにこの道を示してくれたのだ。
(反乱が終わったら、このひととも、もう会えない)


 マリアと一緒に子供たちの様子を見ながら、サーシャはずっと足元の浮くような気分でいた。手はしっかり動いて、湯を沸かしたり薬草を煎じたりしているのだが、頭の中は空気のように頼りない。自分が何を考えているのさえわからず、ふわふわと上の空だった。
「サーシャ、その布を取ってくれる?」
 マリアの声も、意味を残さないまま頭の中を素通りしていった。
「――サーシャ、サーシャ」
 腕を揺らされて、やっと気付く。マリアの顔がすぐ側にあった。
「ご……ごめんなさい」
「どうしたの、ちょっと変よ」マリアはくすくす笑って、からかうように言った。「あの人と何かあったの?」
「え?」
「あんたの兄さん――の、ふりをしている人」
 その一言で、サーシャは一瞬にして現実に引き戻された。
「マリア、あの……」
「ごまかしてもだめよ。始めからおかしいと思っていたのよね。あんた、商人の娘にしてはしつけはいいし、命令慣れしているし」
 マリアは弟にシーツをかけてやりながら、はきはきと続けた。
「それに、あんたと彼、とても兄妹には見えないわよ。まるで、おとぎ話の姫君と騎士みたいだもの」
「――」
「ね、本当はどういう関係なの?」
 まさか、ミハイル公の動向を探る逆賊と、彼にさらわれた皇女だとは言えない。サーシャが言葉に詰まっていると、マリアは勝手におめでたい勘違いをしてくれた。
「わかった、駆け落ちでしょう」
「え――?」
「あんたはどこかのお姫さまで、彼は少し位の低い従者か何かで、家が結婚を認めてくれないから、彼はあんたをさらって逃げた」
 サーシャは苦笑した。本当にそうだったらどんなにいいだろう。
「違うわ。わたしは姫君などではない」
「……そうなの?」
「彼が兄ではないのは本当だけど……詳しくは言えないけど、とにかくわたしはそんな大した身分ではないのよ」
「なあんだ――」マリアは肩を落とし、ため息と共に呟いた。「――惜しいわね」
「え?」
「あんたが平民なのが残念に思えたの。どこかのお姫さまとか……少しでも権力のある人なら、その力を使ってあたしたちを導いてくれるに違いないから」
「わたしが?」
「もう実際に、そうしてるじゃないの」
 マリアはあっさりと言った。それから少し視線を落とし、弟を見つめた。サーシャは黙って姉弟を見つめる。
「初めて会ったとき、あんた、なんて言ったか覚えている?」
 マリアは穏やかな声で、こう語った。
「黙って死んでいくことはない、叫んでいいって言われた時、あたしものすごく嬉しかったわ。そんな風に言ってくれる人、初めてだったもの」
 マリアの目は優しく弟を見つめている。赤ん坊のアリョーシャは、今日の略奪のおかげでたっぷり栄養を取り、薬湯も飲ませてもらえた。他の子供たちも同じだ。
「本当に、あんたがお姫さまならいいのにね。あんたがあたしたちの上にいてくれれば、この子たちは一生、飢えることなく生きていけるわ」



 集う家の、一番上の階。屋根裏部屋に近い狭い部屋。南向きの窓を開けて、イリヤは月光の中に立っていた。露が凍った窓枠に、舞い降りる影がある。イリヤは手を差し出して、その影を受け入れた。伝書鳩だ。
 十日ぶり、サーシャと都を出て以来の連絡である。イリヤは文を月の光にかざし、ゆっくり読み取った。薄く笑みを浮かべる。
「ご心配なく……すべて順調です、父上」
 鳩を部屋の中に入れ、窓を閉める。階段を上る足音が聞こえたのは、その時だった。
 振り向くと、木の戸が開いて、人影が入ってくる。イリヤはもう一度、細く窓を開けた。月の光が入り込んで、人影を映した。
「サーシャさま……」
「こんなところにいたの」
 サーシャは左右を見ながら、少しずつ歩み寄ってきた。鳩が飛び上がり、天上の梁に止まった。
「まだ起きておいででしたか」
「マリアと子供たちを見ていたの」サーシャは月光の中で頷いた。「あの子たち、ちゃんと食事を与えられたら、ずっと元気になったわ。マリアも安心して、今眠ったところ」
「そうですか。あなたはお休みになられないのですか?」
 イリヤが問いかけると、サーシャの顔から表情が引いた。少し口を開けたまま、視線が宙をさまよう。
「サーシャさま……?」
「お礼を、言いに来たの」
 サーシャは持ち直して、ゆっくり言った。
「礼……? わたしに?」
「そうよ」
 サーシャは落ち着いているように見えた。まっすぐ背を伸ばし、少し低い位置からイリヤを見つめている。紫の瞳が月光に照らされる。
「わたしを皇宮から連れ出してくれたこと、ここまで連れて来てくれたことを、感謝したいの。あなたがいなければ、わたしはここの人たちのことも、ミハイル公のことも何も知らなかった」
「逆賊に礼を言うのですか?」
「逆賊でもなんでもいいの。わたしはここに来て、初めて自分の居場所を見つけられた気がする」
 そこまで言うと、サーシャはちょっと気恥ずかしそうに視線をそらした。それから胸の前で手を重ね、小さく頭を下げた。
「ありがとう」
 イリヤは知らず知らず微笑んでいた。男装して皇太子を演じ、政治を論じ国賓を相手にし、時には剣を手にする皇女。その素顔はまだ幼ささえ残る、素直で不器用な少女ではないか。
「わたしは道を作っただけです。そこを歩いて行くべきところに辿り着いたのは、あなたご自身の力です」
 サーシャはためらいがちに頷いた。
 しばらく間があった。
 そして、
「イリヤ」
 名前を呼んだ。イリヤは目を見開いた。サーシャは俯きがちに、それでも目だけは彼を見ていた。胸元で手が握りしめられていた。
「この反乱が成功したら、その報は都まで届くでしょう。そうしたら、父上がわたしを迎えにいらっしゃるわ。わたしは皇宮に戻らなくてはいけない」
 イリヤは頷いた。すでに考えていたことだった。さらってきた皇女は、いつか返さなくてはならない。だが、サーシャはじっと彼を見つめ、別の何かを訴えようとしていた。
「そうなったら」
 月明かりに、紫の瞳が浮かんだ。サーシャは一つ息を吐き出し、言葉を紡いだ。
「そうなったら、その時は……もう一度わたしをさらってくれる?」
 イリヤは初めて表情を変えて、サーシャを見た。視線がお互いを捕らえ合う。サーシャは夜露のような瞳で、イリヤの答えを待っている。
「それは――」
 イリヤは言葉を押し出し、少し微笑んだ。
「それは少し、もったいないな」
「え?」
「あなたはこの先、皇族として国の上に立つ存在です。わたしがさらっていいお方ではない」
「国の上に――わたしが?」
 サーシャは呆然としていた。
「考えたことはなかったのですか?」
「だってわたしは、皇子の身代わりでしかない――」
 イリヤは黙って、少女を見守った。
 ミハイルの城に密偵として入り、そこで聞いた不思議な噂。一人二役を演じる皇子と皇女。皇位に一番近いところにいながら、自分を影におしやって来た皇女。
 その本当の存在を、イリヤは見出した。そしてそれは、悪政に苦しむこの土地で花開いた。国の上に立つ少女。皇子であり皇女であり、それ以前に国にとって不可欠な者。
 サーシャは困惑を押しやり、再び顔を上げた。
「仮に、わたしが皇位を継ぐ者であったとしても」
 サーシャの瞳は月の雫のように、辺りを照らす。
「国の上に立つ者は、国以外のものを愛してはいけない?」
「――」
「皇女であるわたしは、一人の娘として一人のひとを愛してはいけないの?」
 月の光が、冬の空気に満ちた。
 二人の視線がまっすぐつながった。その距離が少しずつ、少しずつ縮まる。
 紫の瞳が手の届くところまで来た時。
 イリヤは少し身をかがめ、サーシャは少し背を伸ばし。
 唇が重なった。
 梁の上で、鳩が羽音をたてた。
「――殴らないのですか?」
 顔を離すと、イリヤは笑顔でそう聞いた。サーシャはすねた子供のように顔を背けた。
 イリヤが微笑みをこぼし、サーシャが真っ赤になって俯いたそのとき。
 階下から、細い悲鳴が上がった。
「……マリア!?」
 サーシャが真顔に戻り、声を上げた。二人は顔を見合わせる。続いて、何かが押し倒され、物が壊れる音。それがやむ前に、サーシャはもう部屋の扉に向かって走り出していた。イリヤはその腕をつかんで止めた。
「わたしが先に行きます」
 イリヤがサーシャの前に立った時、階段を駆け上る、複数の足音が聞こえてきた。一歩下がって壁を睨む。次の瞬間、目の前で扉が開いた。
「領主さまの使いだ。こちらに皇女殿下がいらっしゃるだろう」
 剣を手にした兵士が数人、扉の向こうに立っていた。


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