Sasha [ 1−5 ]
Sasha 第一部

第五章 決起
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 小さな家の土間に寝台が並び、子供たちがそれぞれ寝かされている。一番端にはサーシャが出会った娘の弟、アリョーシャがいた。
「マリア、みんなの様子はどう?」
 サーシャは土間から離れ、湯を沸かしている娘に声をかける。
「ずいぶん人が集まってきたわ。ほとんど街中の人間全部よ。男達が中心になって、話し合いを始めてる」
 マリアの目はいくぶんか輝きを取り戻し、表情が動くようになった。何もできないよりは何かをしていたほうが慰められるようだ。それが弟を助ける道につながるのなら、なおさら。
 サーシャは湯を張った器を受け取り、寝台の並ぶ土間に戻った。子供が寝息を立てる側で、イリヤがひざまずいて様子を見ている。サーシャが歩いてくると、顔を上げて会釈した。
「お湯をもらってきたわ」と、サーシャ。「この子たち、どうなの?」
「環境が良くなった分、少しは落ち着いたようです。賢明なご判断でした」
 イリヤはにっこりした。サーシャは不思議と気恥ずかしくなり、目をそらして続けた。
「だって……街中の子供たちが苦しんでいるのだもの。温かくて空気もいいこの家にまとめて引き取れば、ずっと看護がはかどるわ。連絡も取りやすいし」
 イリヤは穏やかにうなずいた。
 ここは、ミハイル領の街で最も大きな民家だった。数年前から決まった住人はおらず、街人同士で集会などを開く時に利用しているという。
 サーシャはまず、人々が集まって行動できる場所を探した。多くの人が入れて、話し合いができて、食べ物が調達しやすく、病気の子供たちをまとめて看護できる場所。それを話すと、マリアがここを思い出し、街のリーダーたちに話を付けてくれた。今ではここに多くの街人が出入りし、女たちは子供の世話を、そして男たちは今後の行動について話し合うべく、家の階上に集まっている。
 イリヤが聞いた。「貴族ではなく商人と名乗ったのも、何かお考えがあってのことですか?」
「……わたしが生まれ持った身分で生きている貴族だと知ったら、みんなはやる気をなくしてしまう。平民だけでもその気になれば貴族と戦うことができると思ってほしいの」
 権力を持たない者こそ団結すれば強いということを、サーシャは知っている。彼らには打算がない。純粋に家族を愛し、隣人を愛し、お互い幸せに生きていきたいと願うだけだ。その純粋さは、いざとなれば裏切り合い、お互いを破滅へと導く権力などより、はるかに強い。その強さを正しい方向へ導くのが上に立つ者の役目だと、サーシャは教えられてきた。
「街は一つになり始めている。こうなったら、ミハイル公が落ちるのも時間の問題だわ」
 サーシャは熱のある子供の身体を拭いてやりながら、語りかけた。
「すぐに助けてあげるからね」
 イリヤはそんなサーシャを側でじっと見つめていた。今度はサーシャが尋ねる番だった。
「あなたは、何者なの?」
「何者とは……?」
「誰かに雇われてミハイル公の動向を探っているの?」
「そんなご大層な使者に見えますか? わたしは逆賊ですよ」
「医師の真似事もできるようだし……政治についてもわたしよりよく知っているわ」
「ほんの予備知識です」
 イリヤは相変わらず軽く笑うだけだった。何もかも考え通りに進む中、彼だけが自分の把握しきれないところにいる気がして、サーシャは落ち着かなかった。



「城を落とせばいいのよ」
 サーシャはきっぱり言った。集まった男たちは若者から年配まで二、三十人、皆サーシャの言葉に揺れ動いた。
「ミハイルの城を? とんでもない」
「どこの慈悲深いお嬢さまかと思ったが、やっぱり箱入り娘には変わらんな。言うことが地に付いてない」
 サーシャは彼らを前に、すっと背筋を伸ばした。部屋の入り口からは、女子供が心配そうに覗いている。マリアの姿も見える。サーシャの後ろにはイリヤが立ち、話し合いを見守っている。
(彼らが戸惑うのは、実績がないからだわ。自分たちに事が起こせるという確信を持てていない。それなら)
「いきなり領主の城を狙おうとは言わない。ではまず、近いところから始めましょう」
「近いところ……?」
「そう」
 サーシャは言って、少し部屋を見渡した。入り口に立っているマリアを見つけ、目が合う。
「今、真っ先に改善しなくてはならないのは、子供たちのことよね」視線を戻して言う。「あなたたちだって、領主に訴えるより何より、まずは自分の病気の子を助けたいでしょう」
「当たり前さ! 誰に訴えるにしても、何よりも先に子供たちのことを見てほしいと思っていた」
 大声を上げたのは、マリアの側に立っていた中年の女性だった。彼女も二人の子供が病にかかり、マリアの弟たちと一緒にこの家で看病していた。近くにいた女たちが、次々に共鳴する。
「その通りだ。子供が苦しむ世の中というのは、誰もが苦しむ最悪の世の中だからね」
「ミハイル公に子はいないのかい? 家族を持つ者なら、こんな非情なことはできないはずだ」
 サーシャはその一つ一つの言葉にうなずいた。そして、再び皆の正面を向いた。一同は静かになった。
「だから、まずはあの子たちを助けるための一番の近道を選びましょう。必要なのは、生きていくための食料と、ほんの少しの薬草だけ。特別難しい病気にかかっているわけでもないのだから」
 皆はうなずき合った。マリアが細い声をサーシャに向けた。
「でも、どうやって……? 役人達が聞く耳持たずなのは、あなたも十分見たでしょ」
「それなら、自分たちで動いてやればいいわ」サーシャは即答した。「言葉で言って聞かないのなら、行動で見せつけることも必要よ。訴えなくてもいい、誰の許可も取らなくていいから、自分たちで食料と薬草を調達しに行きましょう」
「……押し入って略奪してくるってことか」
 前にいた青年が呟いた。周りがざわめいた。娘たちは不安そうな顔を見せた。
「どうやって……あたしたちは役所の事情も知らないのに」
「それは簡単なことです」
 全員の視線が、いっせいにサーシャの後ろに降り注がれた。サーシャも振り返った。黙って立っていたイリヤが、初めて口を開いたのだ。彼は穏やかな中に不敵さを秘めた笑みで、言い聞かせるように話した。
「役所の事情さえわかればいいのでしょう。それならわたしが引き受けます。実際の指揮を取るのはこの人――わたしの妹ですが」


 その日の夕方。街が太陽を見送り、薄暗くなり始めたころ。
 街の民衆は、役所の周りに散り散りに潜んでいた。ある者はさりげなく前をうろつき、ある者は近くの建物の影に潜み、ある者は中の様子をうかがう。
 そしてサーシャは、役所の大きな建物の裏、街の食料庫がある場所の更に裏にいた。役所の中の動きを見ていた少年が、右手を大きく掲げた。動いても大丈夫、の合図だ。サーシャは建物の間に積んであった木箱の間から、食料庫の入り口の様子を見た。見張りの兵は表に四人、裏に二人。イリヤの言った通りだ。
 サーシャは、反対側の建物に向かって石を投げ込んだ。地面に落ちる音がして、兵士が振り向く。不審がり、四人のうち二人が、物音のした隙間を覗き込む。
 その瞬間だった。
 建物の間から若い男が数人飛び出し、兵士を押さえつけた。武器を奪い、残りの二人にも多勢で襲い掛かる。
 サーシャは乱闘が始まったのを見届け、裏に走った。合図を送るまでもなく、こちらではこちらに隠れていた者たちが、二人の兵を仕留めていた。
「外の見張りは全て抑えたわ。食料庫を開いて!」
 サーシャの声で戸が開き、一斉に群集がなだれ込んだ。開けてしまえば、形成はこちらのものである。兵士は一か所にまとめて縛り上げた。周りにいた街人が全て建物に入ったのを見届ける。
 サーシャはイリヤを探しに走った。次の段階、略奪した食料を捕まらずに運び出す手段は、彼が準備している。サーシャは裏の建物をくぐり抜け、全力で足を動かした。だがその時、思いがけない声が聞こえた。
「――皇女殿下!?」
 思わず足を止めた。建物と建物の間の、狭い路地だった。少し入り組んだ別の道から、一人の人物が叫びながら走ってくる。
「皇女! アレクサンドラ皇女ですね!?」
 兵士だった。皇宮付の衛兵で、何度か顔を見たことがある。彼のほうもサーシャを、皇女アレクサンドラを知っている。
(父上の命でわたしを探しに来たのだ――でもだめ!)
 今は、皇女として見つかるわけにはいかない。
 近くには二人以外の人影は見えなかった。とっさに走り寄り、兵士の口を塞ぐ。
「お――皇――」
「声を上げるな! わたしが誰かわからないのか!」
 サーシャは使い慣れた声と口調で、兵士を黙らせた。彼がぽかんとしたのを見て手を離す。その代わり視線で離さない。
「姉上とわたしの区別がつかないか。この装いでは無理もないが」
「お――皇子!? 弟君のほうでいらっしゃいますか!?」
「声を上げるなと言っているだろう」
「殿下、なぜ女人の衣装など……しかもそのような下々のものを」
「考えあってのことだ。姉上はわたしがお助けする。そなたは指揮官の元に戻れ。今見たものは決して他言するな」
「し、しかし――」
「皇太子の命令だ。退け!」
 兵士は慌てて一礼して、狭い道を転ぶように走り去っていった。自分を助けに来てくれた者に気の毒かとも思ったが、やむをえない。
 すぐに向きを変え、走り出そうとした。その時だ。手を叩く音が聞こえ、別の人影が近付いてきた。
「――見ていたの?」
「お見事です、皇太子殿下」
 イリヤだった。サーシャは顔を真っ赤にして、彼から視線をそらした。自分の一人二役を生まれて初めて見破った人である。そのイリヤは相変わらず殴りたくなるような笑顔で、穏やかに言ってのけた。
「本当に演じ分けられるのですね。皇子と皇女と。どちらが本当のあなたなのです?」
「……どちらでもないわ」
 サーシャは上ずった声で言い返し、きびすを返した。


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