Sasha [ 1−4 ]
Sasha 第一部

第四章 冬の城
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「この村を越えたらミハイル領です。皇女殿下……」
 イリヤは言いかけて、ふと振り返った。視線がぶつかる。サーシャは慌ててうつむいた。が、イリヤは平然とした声で、
「この呼び方は控えたほうがいいですね。なんとお呼びすればよろしいでしょう?」
「……サーシャ、と」
 目を合わせないように斜めを向いて答えた。
「わたしは、皇子でも皇女でもあり、またどちらでもない者だから」


 深い森を抜けると、少しずつ雪が多くなってきた。城門を越えると、雪に覆われた古い街が続いている。白い街だ。空気も光も音も凍ったように張り詰めている。
「ミハイル領です」
 イリヤが呟くように言った。サーシャは息を飲み込んだ。
 進む道の遥か遠くに、灰色の塔のような城が見える。あれがミハイルの城。雪に埋もれて、時間が止まったような静けさに包まれている。サーシャは、幼いころ祖母が聞かせてくれた昔話を思い出した。魔女の呪いによって眠りについた姫と共に、王も妃も家来たちもみんなが眠っているいばらの城。だがミハイルの城を包んでいるのはいばらではなく雪。そしてその中で待っているのは眠れる美姫ではなく、皇位を狙う父の弟。サーシャには叔父にあたる。
 二人は馬を引き、徒歩で街の中を進んでいた。サーシャの服装はずいぶん質素なものに変えられ、その上にあの外套を羽織っているので身なりも顔も外からは見えない。
 前を行くイリヤが振り返った。
「そのうち、民と交わることもあるでしょう。いいですか、わたしとあなたは……」
「お忍びの旅に来た貴族の姫と、その従者でしょう。もう聞いたわ」
 サーシャはぶつけるように返す。イリヤは目を丸くして苦笑した。
「これはこれは。ずいぶんと嫌われたものですね」
「当たり前でしょう」
 ふいに、サーシャは立ち止まった。イリヤも振り返る形で足を止める。
「どうして?」喉の奥から声を絞り出す。「どうしてあなたは、知ってしまったの?」
 サーシャは十五年間、完璧に一人二役をこなしてきた。誇っていいのかどうかわからないが、男装と少年口調には自信がある。皇子として過ごす時間のほうが長いのだから。
 それが、初めて暴かれた。出会って一日も経たない若者に。しかもよりによって――あんな方法で。
「知られるわけにはいかなかったのに。皇子の身代わりすら務められなければ、わたしが存在する意味がなくなってしまう――」
 一人二役と言っても、国の求めるもの、父の求めるものは、いつも世継ぎである皇子であった。偽りの姿ばかりが大きくなる。皇女の存在はどんどん消えていく。
「アレクサンドラ皇女は、十五年前に死んだのよ」
 サーシャはイリヤを見上げて言った。そしてうつむいた。
「父上もこの国も、わたしのことはいらないのだわ」
「それは違う」
 その声に、サーシャは再び声を上げた。見下ろすイリヤの顔から、あの穏やかだがどこか不敵な笑みが消えている。真剣さだけを宿す視線が、サーシャを見つめている。
「少なくともわたしは今、あなたを必要としています」
「わたしが? わたしは皇位継承権を持たない皇女よ。皇子の身代わりを務められなくなったら、何の価値もない――」
「皇子でも皇女でも関係ない。あなたの力が必要なのです。サーシャさま」
 彼の口から聞くその名は、不思議な響きを持っていた。事情を知り、不憫がってくれる祖母だけが呼んでいた名。皇子と皇女二人の間でさまよう、一人の自分を表す名。それを今、初めて自分を見破った若者が、まっすぐ自分を見て口にしたのだ。
 サーシャは彼の目に見入り、言葉を押し出した。
「必要? それは――わたしをどう――」
 声は途中で遮られた。
 人波とざわめき。見ると、少し奥に入ったところで群集がたかり、あちこちから声を張り上げている。
「市長を出せ!」
「食べ物を!」
 集まっているのは皆、平民階級だろう。ひどく貧しい身なりをしている。薄汚れてあちこち裂けている布。しかも薄着で、この季節にはかなり厳しいだろう。誰も彼も痛々しいほど痩せていて、土やすすにまみれた肌を剥き出している。
 皇宮育ちで貧困層の様子など見たこともなかったサーシャは、思わず後ずさりした。イリヤが隣で気遣わしげにその肩を支える。
「あれは……?」
「ミハイル領の市民たちでしょう。役所に訴えているようです」
 予想通りの答えが返ってきた。
「言ったでしょう。今年は寒波による凶作で、市民は飢えていると――」
 サーシャは息を呑んで、その群集に見入った。
 灰色、土色、薄茶色。華美で色鮮やかな皇宮とはまったく違う、枯葉のような光景が雪の中に浮かんでいる。
 やがて、群衆がにわかに沸いた。彼らがたかっていた建物の中から、一人の初老の人物が現れた。遠目にしか見えなかったが、市民たちよりずっと整った、立派な身なりをしている。
(あれが市長――)
 市民たちの訴えに応じて出てきたのだろう。サーシャが見入っていると、群衆の中から一人の影が、前に進み出た。まだ若い、サーシャと一つ二つしか変わらなさそうな娘で、両腕にぼろ布に包んだ何かを抱えている。彼女は市長の前に歩み寄りながら、身を震わせて叫んだ。
「助けてください!」
 冷たい沈黙が広がり、娘の声が響き渡った。
「市長さま、この子を助けてください! 死んでしまうんです。親のない不憫な子です。どうぞご慈悲を――」
 サーシャは、彼女が抱えているのが布にくるんだ赤ん坊であることに気付いた。親のない子ということは、彼女の弟か妹だろう。
「この子は病気なんです。食べ物も薬もないし、このままでは死んでしまいます」
 娘の声に共鳴するように、まわりの群集から叫びが起こった。
「市長や貴族の家には食べ物があるんでしょう! あたしたちにも分けてください!」
「こんな街の様子を見ても動かないなんて、あんたたちは狂ってる!」
「医者に行く金なんて庶民にはない。冬になってから、街の子供は半分も死んでしまったんだ!」
「食べ物を出せ!」
「その子を助けてやれ!」
 群集のわめきを前に、市長は黙って立っていた。やがて、側に控えていた兵士の一人が、あの娘に向かって手を出した。サーシャは助けの手を差し伸べたのかと思ったが、それは大きな思い違いだった。
 兵士の手は彼女の編んだ髪をつかみ、そのまま乱暴に引っ張った。娘は叫んで、その拍子に抱いていた赤ん坊を取り落とした。
「アリョーシャ!」
 娘が赤ん坊の名を叫んだ。サーシャも叫びそうになったが、あまりのことに声が出ない。
 地に放り出された赤ん坊が泣き声を上げる。捕まった娘は髪を引っ張り上げられ、群衆の前で吊るし上げられるような状態になった。群衆は娘への同情と、市長への憤りで再びざわめいた。が、すぐにやんだ。もう一人いた兵士が人だかりに向かって弓を引き、彼らの頭上を矢が飛んだからだ。集まっていた人々が、いっせいに叫んで散り散りになった。子供の泣き声があがる。サーシャは背筋が凍り付いて、叫びが喉まで出かかった。
 その時、市長の冷たい声が降り注いだ。
「こんなことで役所を騒がすな。痛い目に遭いたくなかったら去れ」
 兵士がもう一度弓を構える。群衆の中に震えるような憤りが広まったが、もう声をあげる者はいなかった。もう一人の兵士が、捕まえていた娘を放り投げた。細い体が雪の上に叩きつけられた。
 サーシャは怒りで頭がいっぱいになり、走り寄ろうとしたが、イリヤの手が腕をつかんだ。
「離して! あんなのを放っておけない」
「ご身分をお忘れですか? 市長や役人はあなたのお顔を見知っているかも知れません」
 サーシャはぐっと詰まって、もう一度群衆のほうを見た。市長は冷たく背を向け、役所の中に戻ろうとしていた。サーシャの気は静まらず、再びイリヤに向かって訴える。
「ミハイル公は――領主はどうしてこのような事態を放っておくの? 上に立つ者のすることではないわ。市民がこんなに苦しんでいるのに」
「役人の暴挙を咎め正すような領主なら、そもそもこの街はこんなことになっていません。政治というものは上から腐るものです」
 サーシャは息を吸い込んだ。冷たい空気が胸いっぱいになった。
「知らなかった――こんなこと」
 サーシャは胸を押さえて呟いた。
「わたしは皇宮で……国の動きが一番届くところで暮らして、いずれは皇位を継ぐものとして育てられてきたのに。その国の一地方で、民たちがこんな風に暮らしているなんて。わたしは何も――知らなかった」
 イリヤはサーシャを見下ろして、やがて口を開いた。
「それなら、これから知ればいい」
「え?」
「今までできなかったことより、これからできることを考えるのです。そのために、あなたをここまでお連れしたのですから」
 そのために?
 サーシャは彼が言った言葉を思い出した。わたしが必要だと――それはこのことだったのか?
 聞こうとしたがやめた。やるべきことは他にあるはずだ。
 サーシャは群集のほうに向き直り、地面を蹴って駆け寄った。市長はすでに姿を消し、群衆も言葉少なく散り始めている。
 サーシャは、あの兵士に捕まった娘を見つけて、側に走った。彼女は赤ん坊を抱き上げて立ち尽くしていた。
 何と言うべきか迷ったが、とにかく声をかけてみることにした。
「あの――大丈夫ですか?」
 娘は即座に顔を上げた。怯えた顔で赤ん坊を抱きしめる。
「驚かないで。さっきから見ていて――あなたのことが気になって」
 娘はなおも警戒心を緩めず、上目遣いでサーシャを見ていた。薄茶の布を頭からかぶり、編んだ髪が肩に垂れている。
 サーシャは、平民階級の者と直接話すことは初めてだった。とにかく、娘に打ち解けてもらえるよう、必死で言葉を探した。
「わ、悪気はないんです。わたしは――」
 ふと考えて、後ろに付いてきたイリヤを振り返る。
(貴族の姫とその従者と言う予定だったけど――)
 サーシャは向き直り、こう言った。
「わたしは、サーシャ。都の商人の娘なの。こちらに来たのは父の仕事の使いで……」
「サーシャさま――」
 後ろから言いかけたイリヤの声を遮って、
「この人は、わたしの兄なの」
 精一杯、不自然でないように微笑んで見せた。そして再び、彼女の腕の中を覗き込む。
「この子――病気なの? 医者には見せた?」
「街の医者などお金ばかりで、あたしたち市民のことなど見てはくれないわ」
 娘が初めて口を開いた。
「あたし、マリアというの。この子は弟で、アリョーシャ」
 サーシャは娘が話してくれたことに喜びながらも、すぐに弟のほうに注意を移した。病で弱っている赤ん坊。一歳は過ぎているだろうに、恐ろしく身体が小さい。食べ物もろくになく、医者にも行けず。サーシャがただ見つめて、思案していると。
「ちょっと――失礼」
 後ろから、イリヤの手が伸びた。アリョーシャを軽く腕に移し、布を剥いでその小さな頬に手を当てる。マリアが不安そうな顔をした。サーシャも正直、イリヤに任せるのは心配だったが、彼は落ち着いて赤ん坊の様子を診ていた。頬と額で体温を確かめ、次に手首を取る。しっかりとその身体を布でくるみ、マリアに渡して抱かせた。そして自分の外套を取り、マリアの腕ごと包むようにかけてやった。サーシャはその光景をぽかんと見つめていた。
 イリヤは静かにマリアに言った。
「特にややこしい病というわけではないが、かなり弱っているようです。熱がひどいし、明らかに栄養が足りていない」
「でも、どうすればいいの。こんな暮らしで」マリアが泣きそうな顔で言った。「うちはただでさえ貧乏だし、今年は街中が飢えている。少ない食糧はほとんど貴族たちで独占して、あたしたち平民はただ飢えて死んでいくだけよ」
 サーシャはマリアの声を聞きながら、そびえ立つ城のほうを見上げた。雪に覆われたミハイルの居城。あの中に、これから戦わなければならない叔父がいる。そして紛れもないその人が、マリアたち市民を苦しめている――。
 サーシャはマリアが抱く赤ん坊を見て、静かに呟いた。
「黙って死んでいくことはないわ。声を上げましょう」
「え?」
 マリアが不思議そうに声を漏らした。イリヤは黙って見つめていた。
「みんなでこの状況を打ち破るの。あなたたちは叫んでいいのよ。一番上の者にも聞こえるように」
 サーシャはそう言って、ミハイルの城を見上げた。


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