Sasha [ 1−3 ]
Sasha 第一部

第三章 逆賊
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 サーシャはまっすぐ若者と向き合い、目をそらさないようにした。若者の目が少し揺れたが、すぐに笑みを浮かべてこう問い返した。
「何を……おっしゃっておいでです?」
「皇子はわたしだと言ったのだ」
 サーシャは少し上向き加減に言った。その声も口調も、すでに「皇子」のものだった。
 若者は目を細めてサーシャを見た。サーシャは少し身が固くなったが、平然とした顔を保った。
「わたしがアレクサンドルだ。あなたが皇子を呼び寄せる人質にとった皇女こそ、本物の皇子だ」
 若者は怪訝そうに聞いた。
「何をどう見たら、あなたが男だと思えるんです?」
(それはそうよね)
 肩の出た薄紅のドレス、結い上げた髪に数々の装飾品。本来こちらのほうが、自分の本当の姿なのだから。
 サーシャは若者を上から下まで見通した。そして、行動でわからせてやることに決めた。
 耳元に手をやり、ぶら下げていた大きな耳飾りを外す。次の瞬間、異変に気付いた若者の顔面に、それを投げつけた。
「――!」
 サーシャと相手とはほんの数歩しか離れていなかったが、彼は間一髪で手をかざし、それを受け止めた。サーシャは隙を与えず、顔の前に出した彼の腕をつかむ。利き腕を締め上げると、相手は思った通り腰の剣に手をかけた。サーシャは丸腰だ。若者は鞘ごと剣を取り、自分を戒めるサーシャの腕を振り払おうとした。紙一重でサーシャは離れ、今度は床に身を落とした。そして一瞬で、彼の手の鞘から剣を抜いた。数歩下がってそれを振り下ろす。若者は鞘で食い止めた。二人は静止した。
「これでもまだ、信じないか?」
 サーシャは剣ごしに若者の目を見た。彼はさすがに、目を丸くして何も言えないように見えた。
 が、一瞬間をおいて。
 彼はサーシャの手首をつかんだ。そして至近距離まで顔を寄せ、ふっと笑った。
「やはりそうでしたか」
「!」
 サーシャは一瞬、彼が何を言っているのかわからなかった。剣を構えた手が震え、相手から目が離せない。
 すると、若者のほうが鞘を下ろし、数歩下がった。彼は何を考えているのか、楽しそうにサーシャを見て言った。
「十五年前、皇家に双子の皇子と皇女がご誕生になりました」
 サーシャは肩で息をしながら、落ち着いて聞いていた。若者は語るように言った。
「しかし、その片方が数日で亡くなられた。お二人のご生母である皇后陛下もお後を追われ……。残された皇帝陛下は、双子の生き残りに一人二役を演じさせることに決められた」
「――!」
「どうです。正解でしょう?」
 若者はにっこり笑った。サーシャは黙って立っていられなくなった。
「知っていたのか。それでわざと、わたしにこんな――」
「ミハイル公はとうにお気付きでしたよ。ですからそこを逆手にとって、双子の一人を人質にし、一人を呼び寄せることをわたしに命じられました」
「……」
「ただわからないのは、生き残ったのがどちらか、ということです」
 若者は歩み寄り、子供に言い聞かすようにサーシャに言った。
「皇子か皇女か。本当のあなたは、どちらです?」
 サーシャは一瞬だけ目を閉じた。
(皇子がいないと知られたら、取り返しの付かないことになる。でも継承権のない皇女なら、いなくても変わらない)

――わたしは、いなくても変わらない?

 サーシャは考えを押しやり、きっと顔を上げた。
「わたしは皇子だ」
「そうですか」若者はあっさり言った。「それでは皇帝はなぜ、皇子にこんなことを?」
「十五年前、姉上とわたしが生まれた時、国中がそのことで沸きあがった。生まれたばかりの皇女が数日で死んだなど公言できない。皇女は生きているものとして、表に出る時だけわたしがそれを演じた。もともと皇女は深窓で育つものだ。さほど無理はなかった」
「なるほど」
 若者は数回うなずいて、今度はサーシャの目をじっと見た。
「よく話してくださいました。それではお礼に、こちらのことも明かしましょう」
「……え?」
「わたしはミハイル公に仕えていると申しましたが、実はそうではありません。申し遅れましたが、わたしの名はイリヤ。逆賊に加担するふりをしながらそれを捕らえるために働いている、いわば、逆賊の逆賊です」



 朝日が完全に姿を現し、都に光が溢れたころ。サーシャはイリヤの手引きで、塔の入り口にいた。イリヤはまず一人で塔を出て、数分で戻ってきた。きちんと装備された馬を二頭連れて。
「これで行くのか?」
 サーシャは馬の喉を撫でながら聞いた。
「そうです。乗馬はお嫌いですか?」
「いいえ……いや」
 慌てて言ったサーシャを笑顔で見つめて、イリヤは手にしていた外套を差し出した。
「羽織ってください。そのお衣装では外に出れませんよ」
 サーシャは宴に出た時の女性用の正装のままだった。素直に受け取って身にまとった。外套はローブのようになっていて、頭までかぶせれば顔も隠せるようになっていた。
「これから都の街中を横切って、ミハイル領に向かいます。市民にご身分が知られないよう、お気をつけください」
 サーシャはうなずいた。
 朝の光の下で、イリヤの姿を初めてはっきり見ることができた。
 サーシャより頭一つ分ほど背が高く、簡素な服装ですらりとして見える。薄茶色の髪は不ぞろいに伸び、この地方では珍しい切れ長の目をしていた。表情は口調と同じく穏やかで紳士的なのに、どこか人をくったところがあるのは、この目のせいだろうか。朝の光の中で青い目が明るく輝き、それが彼の年相応の若さに加えて、少年の幼さも残しているように見えるのだった。
 サーシャは、馬の様子を見るイリヤの横顔をじっと見ていた。
(信用して――いいのだろうか)
 逆賊の逆賊。彼は自分をそう称した。謀反を企むミハイル公に取り入るふりをして、実はその謀反を取り締まるために動いている。力を貸してほしい――と、彼は言った。ミハイルの勢力を抑えるために、皇族であるサーシャの力が必要なのだという。だが、彼がミハイルに加担していないとは証明しきれない。欺かれているのはこちらかもしれない。イリヤがサーシャを騙してミハイルの前に引き出し、謀反の道具にされないとは限らない。
 サーシャは穴の開くほど、この若者を見つめた。
 すると。
「準備はできています。どうぞ」
 彼が馬の手綱を引いて振り返った。サーシャはとっさに目をそらした。そして考えた。
(仮に嘘だとしても、それは彼だけじゃない。わたしもこの人を騙している)
 サーシャが本当は皇女だということを、まだ明かしていない。
(このまま様子を見たほうが賢明かもしれない。騙されたなら騙されたふりをして、逆手に取れる)
 まだ、切り札は残っている。
 サーシャはうなずいて、イリヤの手から手綱を受け取った。その時、彼は囁いた。
「ミハイル公の領地は、主の悪政のため荒れきっています。特に今年は寒波もあり、市民の飢えがひどい。そのことを覚えておいてください」
 まばたきしたサーシャに、イリヤは念を押すように言った。
「あなたにはまず、民の様子をご覧になっていただきたい」
 サーシャは言葉の意味を把握しきれないまま、とにかくうなずいた。謀反を企むミハイル公。荒れきった領地。皇族の自分ができることはきっとある。例え自分が身代わりの皇子でも。
 サーシャは馬の背に飛び乗った。幼少から施されてきた世継ぎ教育のおかげで、乗馬は問題なくこなせる。馬上で背筋を伸ばして手綱を取ると、側に立っていたイリヤが満足そうにうなずいた。
「ご立派なものですね。さすがは皇族だ」
「わたしは皇太子だ。このくらい――」
 そのとき。
 一瞬の出来事だった。イリヤが傍らからサーシャの腕をつかみ、自分のほうに引き寄せた。
 落ちそうになって身を固くした、次の瞬間だった。
 イリヤはサーシャを支えるように受け止め、流れるように唇を重ねた。
「――」
 目を見開くサーシャをよそに、イリヤはすぐ離れてにっこり笑った。サーシャはその腕に支えられながら状況を把握することもままならず、必死で考えを巡らせていた。
 今、自分の身に何が起こったのだろう。この若者は何をしたのだろう。彼が腕を引いたせいで馬から落ちそうになって、彼に受け止められて、そして、そして――
 サーシャの目はみるみる三倍になり、頬は発熱したようにほてり、同時に右手を振り上げた。
「この――無礼者!」
 イリヤがその手を受け止めた。余裕の表情で、サーシャの反応を観察して楽しんでいるとさえ見える。サーシャは余計に神経をかき立てられ、自分でも何を言っているのかわからずにまくしたてた。
「今――今、何をしたのです。あなたは、あなたという人は――」
 イリヤは落ち着きを崩さなかった。その彼の口から出た次の言葉は。
「やはりあなたは、皇女のほうですね」
「!」
 サーシャの顔から、今度は一気に血の気が引いた。
 言い返す言葉もなくまばたきを繰り返すサーシャを、イリヤは優しく馬の背に座り直させた。
「それだけ確かめようと思いまして。ご無礼をいたしました」
 そして自分の馬に飛び乗り、笑顔で続けた。
「ご安心ください。皇女殿下とわかったからには、これ以後は指一本触れませんから」
 馬上でなんとか姿勢を正したサーシャは、もう何一つ言葉を見つけられなかった。


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