Sasha [ 1−2 ]
Sasha 第一部

第二章 禁忌の塔
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 辺りは影を流したように薄暗く、少し上から見下ろす月だけが光を与えてくれる。自分の身体が、冷たく硬い地面に寝かされていることに、サーシャは気付いた。上体をゆっくり起こしてみた。
 灰色の石の壁。頭上に鉄格子の窓が見え、丸い月と藍色の空が覗いている。そこから冬の張り詰めた空気が流れ込み、身震いした。ドレス姿のままだったのだ。宴を抜け出し、暗い中庭で何者かに捕まるまでのことが、脳裏に閃いた。そのときだった。
「お目覚めですか? 皇女殿下」
 扉がきしみ、月明かりに長身の影が浮かび上がった。サーシャは身構えて壁に背を貼り付けた。現れた人物はカンテラを下げていた。朱の光に照らされたのは、細面の若者だった。年は十七、八くらいだろうが、見下ろす瞳は向かう者をなだめるように落ち着いている。冷酷でもないが感情をもらさない表情。質素な軍服をまとった身体はほっそりしているが俊敏そうだ。
 若者はゆっくり歩み寄り、カンテラを側に置いた。その手があのとき自分を捕らえたものだと、サーシャはすぐわかった。背筋が震えたが、取り乱さないようにしっかり相手を見上げた。すると、相手はサーシャの前に片膝をつき、丁寧に頭を下げた。
「手荒な真似をいたしました。ご無礼をお許しください」
 サーシャは混乱した頭で相手を見据えた。
「あなたは……?」
「あるお方に使わされた者です」
 若者は頭を上げた。月明かりに、青い瞳が閃いた。
「わたしの主のお望みを叶えるため、あなたが必要です」
「どういうこと」
「いいえ、正確に言うとあなたではなく――もう一人のお方が」
 もう一人。
 糸が張るように、サーシャは瞬時に理解した。
「わたしの――弟? アレクサンドル皇子なの? あなたの狙いは。そのためにわたしを人質にしたのね?」
 壁に背を当てたまま、まっすぐ視線を送って問い詰める。
「目的はなんです。皇位? 領土? こんなことが成功すると思っているの? すぐに皇宮が異変に気付いて、わたしを探しに来るわ」
「気付くでしょうね。異変も何も、先刻こちらから鳩をやりましたから。しかし、探し当てたところで助けに来れるかどうか」
「なぜ――」
「この塔にそう易々と近づけるものはおりません。たとえ皇帝であっても」
 サーシャはまばたきするのも忘れて若者を見つめた。彼はふっと笑った。次の瞬間、サーシャは弾かれたように立ち上がり、鉄格子の窓から外を見た。
 高く浮かび上がる月。その下に広大な皇宮が、絵のようにそびえ立っている。
「お気付きですか? 都の西の塔です」
 背後から、若者の言葉が冷たく投げられる。サーシャはすばやく振り返った。若者はうっすら笑みを浮かべてサーシャを見ていた。
 西の塔。十数年前に悪魔が住み着いたと言われ、誰も近付かなくなった禁忌の塔。やがて皇帝は正式な命を出して塔を禁じ、誰一人その扉を開けるものはいなくなった。
 禁じられた開かずの塔。サーシャはその本当の理由を知っている。この塔の地下には、見てはならぬものが眠っているのだ。十五年前に死んだサーシャの弟――表向きは生きているとされている、アレクサンドル皇子の遺体が。
「おわかりでしょう? そう簡単に助けは来ませんよ」
 ややうつむいていたサーシャは、声に顔を上げた。若者は静かな目で続けた。
「もし来ることができるなら、皇帝の命を受けた皇子殿下くらいでしょうね」
「皇子を呼び寄せて、何をする気なの。あなたが使える主とは、誰?」
 サーシャはできるだけ声を落ち着けて聞いた。若者は口だけで微笑んだ。穏やかだが底知れない冷たさを含む笑みだった。



 同じころ、皇宮はかつてない混乱に陥っていた。宴の最中に皇女が消えた。しかも宮内のどこを探してもいない。皇帝は四方に兵をやった。市民には気付かれぬよう、内密に。
 夜明け前、城門の番兵が、一羽の伝書鳩を連れてやってきた。

「それで、何と言ってきているのです?」
 皇宮の一室。イーラ皇太后は病をおして、息子である皇帝の居室へやってきた。皇女が消えたとの知らせを聞いてから、数時間後。部屋では既に人払いをして、皇太后と皇帝の二人しかいない。長椅子に腰掛けたイーラは、立ちすくむ皇帝の大きな背中に問いかけた。
「伝書鳩は、皇女を誘拐した犯人からのものだったのでしょう。何を要求してきたの? サーシャは無事なのですか?」
「母上。アレクサンドラとお呼びください」
 皇帝は振り向いて言った。イーラはたしなめるように続けた。
「今はそんなことはいいでしょう。伝書鳩には何とあったのですか?」
 皇帝は硬い表情で、絞り出すように答えた。
「皇子を――よこすようにと」
「え?」
「皇女を無事取り戻したければ、アレクサンドル皇子が助けに来るようにと」
「なんてこと――」
 イーラは魂の抜けた表情で背もたれに倒れ掛かった。
「皇位を狙う者の差し向けなのね……それで皇太子となる皇子を……。でも一体誰が」
 言いかけて、イーラは首だけ起こして息子を見た。
「まさか――」
 皇帝は目を伏せて、やりきれない様子で表情を閉ざしていた。
「まさか――彼が――」


「ミハイル……公?」
 暗い塔の中。カンテラの明かりに照らされて、サーシャはゆっくりと聞き返した。若者は窓枠に寄りかかって立ち、うなずいた。
「帝国の北部を支配されている、公認の領主です。それがわたしの主」
「その人が、わたしをさらってこいとあなたに命じたの? そして、皇子を要求しろと――」
 若者はもう一度うなずいた。青い瞳が月光を受けた。
 サーシャは怒りと疑問で頭が沸いた。
「なぜそんなことを。ミハイル公は皇位を狙っているの? 謀反を起こす気? 一領を納める貴族が、なぜ――」
「ミハイル公は、現皇帝の弟君でいらっしゃいます」
 サーシャの思考が一瞬止まった。考えがまとまらないまま必死で声の出所を探し、やっと言葉を押し出した。
「嘘――」
「本当です」
 若者はどうということもない顔で見下ろした。
「ミハイル公は、先帝の正当な第二皇子。今の皇帝の血を分けた双子の弟君です」
 信じられない言葉だった。
 父は知っているのだろうか。皇女をさらった逆賊が自分の弟の手先であると、気付いただろうか。
 サーシャは落ち着けて顔を上げた。
「先帝には、父上以外に皇子はいらっしゃらないと聞いたわ」
「当然ですよ。ミハイル皇子はご生誕後間もなく皇宮から引き離され、北部の貴族としてお育ちになられたのですから」
「どうして……?」
「皇太子になられる兄君にとって、ミハイル公は邪魔な存在でした。先帝は継承問題を恐れて、双子のお一人を日陰でお育てになることに決められたのです」
 皇位を継ぐ兄弟の陰で、誰からも省みられることなく育つ。
(まるで、どこかの皇女みたいじゃないの)
 サーシャは内心で、自嘲ぎみに笑った。
「ミハイル公は、皇家の血に相応の地位を欲していらっしゃいます」
「つまりそれは、皇位?」
「当然でしょう。間もなく皇宮から、皇太子殿下がおいでになる。姉姫をお助けに。そこからが本番です」
(弟は来ないわ)
 サーシャは声に出さず呟いた。皇子は来ない。もう生きてはいないのだから。いつも他人の目に映っている皇子は、ここにいる自分の偽りの姿だ。
 もしも助けが来るとしたら、それは父帝の判断一つ。そのときには、皇子の不在も明らかにせざるを得なくなる。
(来てくれるわけがない――あの父上が)


「兵を送りなさい。場所はわかっているのでしょう」
 皇太后は急き立てた。皇帝は固く目を閉じ、うつむき加減に言った。
「しかし――相手は、皇子をよこせと」
「皇子などいないと言ってやりなさい。それこそが真実なのだから」
 皇帝は目を開けた。母后の静かな顔がそこにあった。
「もう潮時です。皇女を取り戻して、この子の弟は十五年前に死んだと宣言してやりなさい」
「しかし――」
「いつまであの子に、あんなことをさせているつもりです?」
 皇帝はうなだれた。
 十五年前に妻と息子を失って以来、彼は一度も、娘の顔を見た気がしない。彼が思い出す娘はいつも、少年の姿をしていた。今も紫の瞳で自分を見ている。
 父上、わたしはここにいます。わたしはアレクサンドラです。あなたの娘です。生きているのはわたしです――。
 待ち焦がれた皇子をわずか数日で失ったことを、認めたくなかった。息子が生まれ、そして逝った日から数日後、彼は初めて、生まれたばかりの皇女に対面した。男とも女ともつかぬ小さな赤子。皇家の血を示す紫の瞳。死んだ皇子も、これと同じ目をしていたのだろうか――。彼は娘を抱き上げ、この子を息子と思おうと決めた。
 自分は息子を死なせてしまった。そればかりか、生き残った娘すら、幸せにしてやることはできなかったのだ。



「夜が明けますね」
 若者が静かに言った。その言う通り、光の筋がこの塔にも差し込み始めている。
 若者はサーシャを振り返り、面白そうに言った。
「そろそろ動くころですよ」
 アレクサンドル皇子のことを言っているのだろう。サーシャは考えた。このまま待っていても、皇子は来ない。来るはずもない。若者は皇子が助けに来ると信じているから、それまで自分から行動は起こさないだろう。
 サーシャは若者を見上げた。このまま何も起こらなければ、彼はどう思うだろう。少なくともいぶかしむ。そして、少しずつ疑い始める。
 皇宮には、皇子を表に出せない特別な理由があるのか? と。
 皇子がいないことに気付かれたら、彼は別の策を練り始めるだろう。皇帝の唯一の子である自分を別の方法で利用してくる。
 そうなる前に。
(先に切り出したほうが勝ちよ)
 サーシャはゆっくり立ち上がった。
「……どうしました?」
 若者が律儀に顔を向けた。まっすぐ見返す。
「弟は、来ないわ」
 サーシャは言った。
「アレクサンドル皇子は、わたしだから」


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