Sasha [ 1−1 ]
Sasha 第一部

第一章 皇子と皇女
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 亡き皇后の兄であるパヴェル公が、甥に当たるアレクサンドル皇子に対面したのは、実に十四年ぶりのことであった。幼い赤子であった皇子は近々十五を迎え、正式に皇位を継ぐ者として立太子することになる。その祝いの先駆けとして皇宮を訪れたが、皇子の頼もしい成長ぶりはまぶしいばかりだった。
 背丈はさほどないようだが、姿勢正しくまっすぐ立つと、気高さと凛々しさを備えた若盛りの少年である。華美ではないものの仕立ての良いビロードのジャケット、襟元で若草色のリボンを結び、すんなり伸びた足には淡い茶のズボン。腰に下げた剣が建て前でないことは、皇子の若々しい風格と凛とした振る舞いからもわかる。
 耳元まで伸びた鳶色の髪、そして何より、皇家の血筋を示す紫の瞳。その目を明るく輝かせて、若い皇子はパヴェル公に深く頭を下げた。
「お久しぶりです、伯父上」
 風のように澄んだ、よく通る声だった。皇子の気品と威厳にすっかり圧倒されていた公は、慌てて会釈を返した。
「何とも、驚きを隠せませぬ。十四年間で殿下がこれほどもご成長なされようとは……。亡き妹……皇后陛下が生きてご覧になれば、どんなにかお喜びでしょう」
 アレクサンドル皇子はおおらかに微笑んだ。
「母亡き後、わたしが世継ぎとして何不自由なく育てられることができたのも、伯父上の後見があってこそです。感謝いたします」
「いいえ。妹が遺した皇子殿下が立派に立太子なさるのを見届けるのが、老いた身の楽しみでございました。明日にも十五の日をお迎えとのことで、喜ばしい限りでございます」
 パヴェル公は深々と頭を下げ、ひざまずくと皇子の手を取った。そして頭を上げると、思い出したように顔をほころばせて言った。
「皇子がこれほどご立派にご成長とあれば、双子の姉君であられるアレクサンドラ皇女も、さぞお美しくおなりでしょうね」
 皇子はにっこり笑った。
「姉上は、まことにわたしとうりふたつのご容姿でいらっしゃいますよ」

 レストワール帝国の都、ぺテルは、近づく記念の日に沸きかえっていた。皇帝の第一皇子と第一皇女が、十五の誕生日を迎えるのである。皇后の命と引き換えに生まれた双子の姉弟。アレクサンドラ皇女とアレクサンドル皇子。二人は帝国の宝として大切に育てられた。特に第一皇子であるアレクサンドル皇子は、いずれ皇位を継いで国を治める身である。十五歳は、少年が一人前の男として認められる成人の年。第一皇子がいよいよ皇太子となる日を、皇宮の中でも外でも皆が心待ちにしていた。

 パヴェル公との面会を終えると、アレクサンドルは皇宮の西のはずれに向かった。祖母に当たるイーラ皇太后の宮だ。
「おばあさま」
 部屋に通されると、皇子は祖母の寝台の前でひざまずいた。
「ご病気と伺いましたが、お加減はいかがですか?」
 天蓋に覆われた寝台で、皇太后は身体を起こした。
「嬉しいこと。大きくなった孫が、こうしてばあやのお見舞いに尋ねてきてくれるとはね」
 皇太后が手で合図すると、側に控えていた侍女たちは速やかに立ち去った。部屋には、イーラ皇太后と孫のアレクサンドル皇子二人だけになった。
「こっちにいらっしゃい、皇子殿下」
 皇子は一礼した後、天蓋を開けて中を覗く。病床で身を起こした祖母は、六十を過ぎたとはいえまだ気品溢れる美しい女性だった。顔色は悪いが見苦しいほどではなく、ゆったりと肩にかかる黒髪が品の良い顔立ちを際立てている。
「すっかりご立派になられましたね。皇子はおいくつにおなりかしら」
「明日で十五です、おばあさま」
「そう……では、立太子の祝いの宴があるのですね」
「はい」
「あなたの姉上は? アレクサンドラ皇女はどうなさっていますか?」
「ご気分が悪いと臥せっておいでです。この分では明日の宴もわたし一人かと……」
 皇子が言い終わる前に、祖母の深いまなざしが彼を捕らえた。言葉に詰まったが目をそらすわけにもいかず、見つめ合ったまま黙っていた。やがて、皇太后のほうが沈黙を破った。
「明日の宴は、皇子のほうで席に立つのね」
「そのつもりです」
「皇女は病床にあり欠席……」皇太后はうつむき、深く息を吐き出した。
「おばあさま、わたしは……」
「あなたには、十五年も辛い役目を背負わせてきましたね」皇子の言葉を遮って、祖母は続けた。「アレクサンドラ皇女とアレクサンドル皇子。片方が死に、片方が生き残った。そして……」
「おばあさま」
 皇子はとがめるように言った。そして首を振った。それ以上言ってはいけない。そのことは口に出してはいけない。
 十五年前、帝国に双子の皇子と皇女が生まれた。世継ぎの御子とかわいい姫君の誕生に、国民は沸いた。しかし、皇子は数日で逝去。母の皇后もすぐに後を追う。残ったのは皇女、アレクサンドラ一人。悲しんだ皇帝は皇子の死を隠す。そして、皇女は十五年間演じてきた。死んだはずの弟皇子と、その陰に隠れるおとなしい皇女の役を。一人で、二人分。
「サーシャ」
 やがて、皇太后が孫を呼んだ。サーシャというのは、アレクサンドルとアレクサンドラ、両方に使える愛称である。祖母は二人だけのとき、孫娘を密かにこう呼んできた。
「サーシャ。あなたはもう、自由になってもいいはずです」
 祖母の言葉に、サーシャは息を詰まらせた。立ちすくむ孫を前に祖母は続けた。
「わたくしが陛下にお話しましょう。こんな偽りを続けていていいわけがない。あなたにいつまでもこんなことをさせていられません」
「おばあさま。わたしは……」
「明日の宴で立太子すれば、皇子の存在が動かしようのないものになってしまう。今更皇子は死んだなどと言っても、手遅れになってしまいます」
「おばあさま。わたしは皇子です」
 サーシャは、今度はきっぱりと言った。
「死んだ弟の役を、わたしがこのまま演じきって見せます。ご心配いりません。陛下と国民の期待を裏切らない、立派な皇太子をお見せしますから」
「でも、それではあなたが」
 半ば叫びかけた祖母の声は、サーシャの微笑みに打ち消された。
――それではあなたが、あまりにも哀れです。
 死んだ皇子を演じ続け、本当の皇女の姿を公然に出せない、一人二役の哀しい身柄。
 皇太后はサーシャの手を握ったまま、とうとう涙を流し始めた。サーシャは彼女の手を何度も握り返した。たった一人、自分の本当の存在を理解し、案じてくれる祖母の手を。
(期待するのはやめよう。わたしはアレクサンドル皇子。アレクサンドラ皇女は病弱でおとなしく、めったに表には出てこない……)
そう。そういうことになっている。



「策は、あるのか」
 皇宮の一角で、静かな声が聞いた。側に控える人物が、低い姿勢で答えた。
「はい。それにはまだ、材料が足りませんが」
「どんな物だ」
「同行人が一人、必要です」
 答えた人物は意味ありげに微笑んだ。聞いたほうは言葉を詰まらせた。
「それは……」
「ご心配には及びません」若い声が答えた。「明日の宴で、間違いなくこの手でご誘導いたします」



 宴の晩、サーシャは十五年の人生でこれ以上ないほど、手をかけて着飾られた。淡い桜色のドレス。短めの髪は年ごろの娘らしく頭上でまとめ、ティアラが光を受けて輝いている。
 数時間前、侍女がこの衣装一式をそろえて持ってきたときは、何の間違いかと思った。今日は「皇子」の姿で出席するはずだったのだ。ところが用意されたのは皇女の衣装。それもこの上なく吟味された、質の良い女性の正装。サーシャがこの衣装を見て喜ばないわけがなかった。年ごろの娘なら誰でも望むように、美しい装いをしたいと思うのは当然だ。たとえ、少年の姿で過ごす時間のほうが、圧倒的に多くても。
 とはいえ、これは一体どういうことだろう。
 サーシャはわけがわからぬまま、頭からつま先まで装飾品と香水を浴びせられ、侍女に導かれて宴の会場へと向かった。
 広間に扉一枚隔てた隣室で、父の片腕でもある宰相に呼び止められた。四十過ぎの温厚な男で、皇子と皇女の秘密を知る数少ない人物の一人である。サーシャは相手が何か言う前に厳しく問い詰めた。
「これはどういうことだ? 今宵は立太子の宴。わたしはどうしても、皇子の姿で出なければならないというのに」
 日ごろから皇子として振る舞っているせいで、口調にも尊厳にも世継ぎとしての風格が身についている。人のいい宰相は申し訳なさそうに言った。
「私もそう申し上げたのですが、陛下が、皇女のほうを出すようにと」
「父上が?」
「はい」
 そう言って宰相は、頭を下げて横に下がった。
 視界が開けて、サーシャの前にはレストワール帝国現皇帝、父の姿が立っていた。
「父上……!」
「アレクサンドラ。美しくなったな」
 皇帝は娘を見据えた。父に会うのは、皇子として神殿行事に参加して以来、数ヶ月ぶりだった。まして、皇女の姿で最後に顔を見せたのは何年も前のことである。サーシャは少しためらってから頭を下げた。
「お久しぶりです、父上。今宵はわたしのためにこのような宴を開いていただき、ありがとうございます」
 父は無表情でうなずいた。
「行きなさい。客がおまえを待っている。十五歳になったアレクサンドラ皇女を」
「皇女を?」
 父は表情を変えずに視線をそらした。サーシャは一瞬で悟った。祖母である皇太后が、父に頼んだのだ。そして、父は許してくれたのだ。この大切な席で、サーシャが偽りの皇子ではなく、本当の皇女の姿を表に出すことを。
「父上……お父さま」
「早く行け。帝国の皇女として恥ずかしくない娘を演じるように」
「――はい!」
 サーシャはこれ以上ないほどの笑みを溢れさせ、父の御前から離れた。広間の入り口に向かう。皇女の姿で人前に出るのは、何年ぶりだろう。
(皇子の陰で、幻のような存在でしかなかったアレクサンドラ皇女。ようやく、人の目に映ることができる……)
 それは、押し殺していた本当の自分に対する喜びだった。
(良かったわね、サーシャ。やっと気付いてもらえる。皇女の存在を、たくさんの人に見てもらえるのだ)

 扉が開き、サーシャは促されて入り口に立った。
 暗い会場の中、賓客の視線が一気に注がれる。皇族をたたえる音楽が響く。
 大きく開かれた扉から、アレクサンドラ皇女の小さな影が現れた。桜色の衣装に包まれた細い身体が、すっと背筋を伸ばして立っている。中性的な顔立ちに微笑を浮かべ、紫の瞳がシャンデリアに照らされて明るく輝く。皇家の血筋を表す色だ。
 どこかでほうっと声が上がった。それが次第に広がっていく。広間にいる客の多くは、「アレクサンドラ皇女」の姿を初めて見る者だ。
 サーシャは感嘆の目の中をくぐりぬけ、広間の一番奥、宴の主が座る席についた。そして、金細工の椅子の前に立ち、声を張り上げた。
「今宵は、わたくしどもの十五の宴にお集まりいただいたこと、心より感謝いたします」
 自分の声がいつもより上ずっていることに、サーシャは気付いた。
「皇太子となるアレクサンドル皇子は、残念ながら急病のためこの席につくことがなりませんでした」
 広間の片隅が少しざわついたが、すぐに収まった。少年の声で話すことに慣れたサーシャは、できるだけ柔らかく高い声を出すように努めた。
「しかし、不肖ながらわたくしが弟の分まで、この席を取り仕切らせていただきます。皆様、どうか良い夜を……」
 サーシャが小さな頭を垂れると、広間中がいろめきたった。サーシャはほっと息をついた。久しぶりに人前で話す皇女の口調が、こんなに疲れるものだとは思わなかった。とにかく席に座ると、祝いの杯を取って客に微笑みかけた。心の奥底で感じた違和感に、気付かないふりをしながら。

 宴は順調に進んだ。皇子が欠席と聞いて失望する人は少なくなかったし、中には不審がる者もいたが、サーシャの皇女ぶりを見て忘れてしまったようだった。
 アレクサンドラ皇女は、本当に生き生きとして輝かしく見えた。皇子の陰に隠れ、おとなしくなよやかな姫と言われていたが、今宵の皇女は誰の目から見ても、朗らかで美しい年ごろの姫君だった。高貴で端正な容貌、皇女の名にふさわしい知性と品格。何より、皇女自身の資質と思われる、穏やかで優しげな気性。この帝国で一番素晴らしい、一番幸せな少女だと、誰もが思った。当の本人が内心でどんな想いを抱いているのか、知る由もなく。

 サーシャは、祝いの言葉を述べに来る客たちに、愛想良く受け答えしていた。
「皇女さまには初めてお目にかかりますが、まことに輝かんばかりのお美しさですな」
 サーシャはにっこり微笑んだ。つい先日、皇子の姿で謁見した外交官だった。この人も知らないのだ。あのときの皇子が、今自分の前にいる皇女と同一人物だということは。
「弟君の陰に隠れて、表にお出ましにならないなどもったいない。十五におなりになったのですから、皇女さまももっとこういう席に立たれれば皆がどんなに喜ぶか」
 そう言って人のいい笑顔を浮かべる外交官に、サーシャは言ってやりたくなった。
 わたしは、毎日のように表に出て、あなたがたとお会いしたり、こうした公の席に着いたりしているのですよ。あのときの皇子はわたしなのですよ――。
 誰にも気付かれぬよう、息を吐き出した。顔で笑いながら、心は表情を失っていた。
(愚かなわたし。何を期待していたのだろう)
 華やかな会場を見渡して、サーシャは胸の内で呟いた。
 ここにいる誰もが、虚像のアレクサンドラ皇女しか見ていない。弟王子の陰に隠れた、病弱でおとなしい姫君。もしここにいる姫が、一昨日は他国の使者を迎え、昨日は内務大臣と対等に政治の話をしていた皇子と同一人物だと言えば、皆はどう思うだろう? この自分が実は皇子の身代わりで、少年に化けて世継ぎ教育も武術の稽古もこなしてきたと知ったら、どんな顔をするのだろう。
 誰も知らないのだ。サーシャのことを。
 サーシャはそっと、側に立つ衛兵に目をやった。先ほどの外交官に頭を下げ、サーシャから目を離している。サーシャは音を立てずに立ち上がった。そして流れるように人垣の中を進み、数秒後には会場の壁の外にいた。
 外に出たかった。もうこの空気は息苦しかった。
 回廊を歩き、衛兵の目を逃れて中庭に出る。都は冬を迎えていた。噴水と銅像と、豊かな植物で飾られた庭は、灰色の雪で覆われていた。静かで冷たい空気がサーシャを落ち着け、休めてくれた。
(本当のわたしは、どこにいるのだろう……)
 サーシャは夜の闇に問いかけた。返事は来なかった。
(わたしは皇子ではない。でも、皇女でいることもできないのだ)
 いつまでこうして生きていくのだろう。もし父帝が亡くなりでもしたら、自分はどうなるのだろう。
(父上……)
 そう。一番こたえたのは、父のことだった。皇女で席に立てと言ってくれたときの、意志のない目。あれはあきらめの目だった。
(父上には、死んだ皇子のことしか見えていない。わたしはその身代わりでしかない。皇女のわたしは、いらないのだ……)
 背後に人の気配を感じたのは、そのときだった。
 身体を固くした。衛兵や侍女なら声をかけるはずだ。だが相手はその様子もなく、足音も立てずに少しずつ近づいてくる。声を上げて人を呼ぼうかと迷った、一瞬後だった。
 サーシャは大きな手で口を塞がれ、両腕の自由を奪われていた。


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