〈やさしい〉の反対

〈やさしい〉の反対
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 小学校三年の時、隣のクラスの友達が得意げに聞いてきたことがある。
「〈やさしい〉の反対って、なーんだ」
 どうやら担任の先生が、授業の脱線でその話をしたらしい。
 私の通った小学校は児童の数が減少ぎみで、一年生から六年生までそれぞれ一学級ずつしかないのが普通だった。そんな中で、私たちの学年は四十人と例年より多く、更に二年生で転校生がやってきたため、三年生からは二学級に分かれることになった。
 家と学校を行き来するだけの小学生にとって、学校は全世界の半分だ。二年間もそれを共にしてきたクラスメイトが真っ二つに分かれるというのは、地球が真っ二つに割れるのと同じくらいの一大事だった。
 別の教室で受ける授業。別の先生から聞く話。二学級の間で少しでも何らかの違いがあろうものなら、誇ったり悔やんだり時には訴えたりと大変な騒ぎになった。
 そんなエピソードの一つが、この話である。
「〈やさしい〉の反対って、なーんだ」
 クラス分けで引き裂かれてしまった親友から持ちかけられて、私は真剣に悩んだ。
 もちろん、〈やさしい〉の反対が肝心なのではない。
 去年までは同じクラスにいた友達が、別の教室で別の先生から聞いた話を、私は知らない。それは幼い私にはとても屈辱的だったし、人生における大きな損失だとさえ思えた。

「だから、必死で考えたのよー。〈やさしい〉の反対」
 箸を止めてまくし立てる私に、彼は顔も上げずに言った。
「くだらね」
「そりゃあ、今思えばね」
 冷めてしまった昼食のトレイに目を落とした。学食で食べるたまご丼は、何度見てもとろろ汁に見える。
 向かいの彼を見ると、無言でうどんをすすっている。脇には、すでに空になったお椀がもう一つ。
「よく食べられるよねー、二食分も」
「お前が少食すぎ。その丼も、小さいほうだろ」
「じゅーぶんだよ。酢の物も食べたもん」
「女は食費かからなくていいよな」
「へへー、合計百八十円也」
 彼は割り箸を置くと、お椀を傾けて汁を飲み干した。二つになった空食器が並べられる。
「それで?」
「んー?」
「〈やさしい〉の反対って、何だったの」
「それがさあ」

 小学生の〈やさしい〉の定義は、デパートでなんでも買ってくれるお母さんや、宿題を忘れてきても怒らない先生だった。要するに〈やさしい〉と〈甘い〉が同義語で、甘いお菓子のようなものをくれる大人が〈やさしい〉人だったのだ。今思えば、なんともわかりやすい考え方をしていたと思う。
 だから私は答えた。
「〈やさしい〉の反対は、〈怖い〉でしょ?」
 ここで言う〈怖い〉人とはもちろん、テストで悪い点をとった時のお母さんや、給食のシチューのなべをひっくり返した時の先生である。
 ところが隣のクラスの彼女は、すました表情で「ちがいますー」と言った。混乱した私はますます考えた。
 〈厳しい〉、〈激しい〉、〈怒る〉、〈いじわる〉……中には使い方の違うものまで挙げたが、どれ一つ彼女を頷かせることはできなかった。

「……なんとなくわかった」
「ほんと?」
「正解は、〈難しい〉だろ」
「……ぴんぽーん」
 つまり、〈やさしい〉は〈優しい〉ではなく〈易しい〉だったという、取るに足らない引っかけ問題だったのだ。国語辞典を引けば簡単にわかったのだから、小学校時代の悩みの小さなことよ。
「やっぱりくだらないじゃん」
「まあね。騙されたよ」
「わざわざ辞書引くのもアホだな」
「知的好奇心旺盛と言ってよねー」
「誰が」
 彼の指が、私の丼とつんと弾いた。
「さっさと食え」
「はーい」
 答えるなり、私は丼に箸を突っ込んだ。量が少ないくせにいつも私のほうが遅いのは、少食だからかおしゃべりだからか。たぶん両方だ。
「ちなみに、もう一つの〈優しい〉の反対は?」
 口を上下する私を見ながら、彼は何気なく聞いてきた。
「載ってなかった」
 私は箸を動かすのに忙しい。たまご丼は最後に必ず、二粒三粒のお米がお茶碗に貼りついている。最後まできれいにしないと気が済まない。
「ごちそうさま」
 ようやく箸を置くと、掌を合わせた。
「食った?」
「食ったー」
「じゃあ行くぞ」
「ふぁい」
 中途半端に返事して、お茶の残りを流し込む。
 その間、彼は私の食器を自分のほうに寄せ、二枚のトレイを重ねてまとめた。
「ありがとー」
「ん」
 すでに立ち上がっている彼は、私の前に手を伸ばす。最後のお湯呑も受け取って、二人分の食器を持ち上げる。
「返してくるから、先に行くなよ」
「財布持って逃げてあげる」
「アホ」
「ほんとに逃げるぞ」
 笑いながら言うけど、私はここを動かない。
 〈優しい〉の反対は何だろう。〈易しい〉の反対がわかってからも、私はずっと考えてきた。
 小学生の頃は〈優しい〉と〈甘い〉が同義語で、その反対が〈怖い〉だった。
 では今は?
 〈優しい〉の反対がわからないのは、〈優しさ〉が何よりもわかり辛いものだからなのかもしれない。
 目には見えない、手で触れることもできない。でも確かにある大切なもの。
 学食の片隅でぽかぽかする胸を抱えて、私は彼を待っている。



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