トロイメライ

トロイメライ
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 中学に入って間もない春の日だったか。
 僕は音楽室で黒板を消していた。立っていても瞼を閉じたくなるような、暖かい午後だった。六限目の音楽の授業を終え、残っているのは僕一人。その日は日直か何かだったと思う。最後に鍵を閉めて早く帰ろうと、少し乱雑にスポンジを滑らせていた。黒板に白い線が幾重にも残った。
 板書をすべて消し終わり、やれやれと息をついた時だった。黒板消しを置いた僕の手が、唐突に横にあったチョークをつかんだ。
 ひとりでに。
 手は僕の意思に反してチョークを走らせ始めた。目を丸くして見ていると、黒板の上にこんな一文が現れた。

“ねえ、ピアノ弾かない?”

 僕の字じゃない、少し癖のある丸文字だった。女の子のかなあとぼんやり見つめていると、手はチョークを置いて、今度は黒板とは違う方向に動き始めた。僕は自分の手に引っ張られる形で、ピアノの前に立たされた。窓際にある、大きなグランドピアノだ。黒い蓋の上に陽の光が注がれている。
 案の定、手は蓋を開けた。ピアノに鍵をかけるのも日直の仕事だったと、僕はゆっくりと思い出した。
 手が伸びて、鍵盤に触れた。どうして素直に受け入れられたのか、今でも不思議に思う。僕は自分の手に導かれるまま、椅子に腰かけ、鍵盤の上に両手を置いた。指が踊り始めた。
 「エリーゼのために」。
 どんな素人でも知っている、最もポピュラーなピアノの曲だ。右手の小指薬指があの悲しげな囀りを始め、続いて左手から右手へとおなじみのメロディーが流れ出す。
 僕は鍵盤を手に任せ、曲に合わせてペダルを踏み変えたり、椅子の上で身体を揺らしたりした。
 懐かしい感覚。
 指先からメロディーが染み渡り、全身が溶けてしまいそうになる。
 「エリーゼのために」は、僕が最後に弾いた曲だ。
 冒頭の旋律を繰り返して演奏が終わる。僕の手は鍵盤上に未練を残すように、最後の和音を必要以上に伸ばしていた。
 その手が突然、黒板のほうへ引っ張られる。
 はいはいはい。チョークで話がしたいんだろ。
 手が白い字を綴っていく。
“今の曲、知ってる?”
「知ってるよ」
 僕は思わず声を上げた。誰に言ったのか、ちゃんと届くのかもわからないまま。
 届いていたみたいだった。
“弾いたことあるの?”
「あるよ」
“いつ?”
「小六の時」
 黒板に字が現れては消えていく。文字通り、消えていくのだ。新しい一文字が書き出される前に、前の一文は跡形もなくなる。
 よくよく考えてみればものすごく不思議なことなのに、僕は気にも留めず消えては現れる文字を見つめていた。覚めてしまえば思い出して笑ってしまうような夢でも、眠りの中では大真面目に見てしまうのとよく似ている。
 とにかく、手はこう書いた。
“今は? 弾かないの?”
「弾かないよ」
“どうして?”
「中学生になってやめたんだ」
 僕は答える。手は動かない。黒板には“どうして?”の文字が消えずに残っている。これは同じ質問をもう一度ということなんだろうか。
「どうしてって、別に。女の子たちも中学に入ってやめる子はたくさんいたし」
 ピアノは特別好きでも、嫌いでもなかった。姉のついでのようにレッスンに通い、中学に入ると当然のようにやめた。懐かしさはあるけど未練はない。
“もう弾かないの?”
「機会がないし」
“さっきは久しぶり?”
「うん」
“じゃあ、せっかくだからもう一曲”
 手は子供のように僕を引っ張った。ピアノの前に座らされる。すぐに左手が鍵盤を弾き始めた。
 「紡ぎ歌」だ。四年の時だったか。僕が初めて自分で選んだ曲。軽快なメロディーと速いテンポが好きだった。
 乗せられるままに歌を紡いで、あっという間にエンディング。手は当然のように黒板に向かった。
“楽しかった?”
「うん」
“今の曲も知ってる?”
「うん。好きな曲だよ」
“よかった”
 自分で黒板に字を書き、自分でそれに答える姿は、第三者が見ていたらさぞ滑稽だっただろう。
 僕は唐突に聞いた。
「君は何者?」
 しばらくの間、黒板には何も現れなかった。ゆっくりと手がチョークを動かした。
“ユウレイだって言ったら、どうする?”
 まさか。王道すぎる。放課後の音楽室でピアノを弾く幽霊。人の手に取り憑くという話は、ちょっと聞き慣れないけど。
 僕の戸惑いを面白がってか、自称ユウレイはくすりと笑った。黒板に“くすり”という文字が現れたわけじゃないけど、確かに笑った、気がした。
“ねえ、お願い”
 急にユウレイが書いた。
“もう一曲弾かせて”
「今度は何?」
“あたしが一番好きだった曲”
 その一文を見た時、僕は、きっとこの曲が最後なんだな、と思った。
 ピアノの前に座った。手は鍵盤に乗ったまま、なかなか動かない。僕は深呼吸をした。
 ゆっくり、音を奏でた。
 柔らかな旋律。
 一つ一つ、零れ落ちる音の玉。
 知っている曲だ。
 何だったかな――。
 僕は思い出せないまま、音のゆりかごに身を任せた。

 気がつくと曲は終わり、僕はピアノの前に一人で座っていた。手は、自由に動くようになっていた。
 僕はぼんやりした頭で、最後の曲がシューマンの「トロイメライ」だったことを思い出した。
 あの三曲の演奏はなんだったのか。僕の手を操っていたのは本当に幽霊だったのか。
 その時どんなに考えてもわからなかったし、今になってもわからない。
 ただ一つ、後になって知ったのは、“トロイメライ”がドイツ語で“夢”を意味するということだけだった。



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