時の花びら [ 2 ]
時の花びら

後編
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 一人残されたミルゼは、ラウルの出て行った扉を見つめていた。視界を彩る花とは逆に、色あせた気分が立ちこめる。
 腕の中には、ラウルが渡していった花束があった。大輪のイントゥリーグ。折り重なった赤紫の花びらが目に突き刺さる。
「こんなに美しいのに……」
 ミルゼは指先で、そっと花に触れた。一番外側を覆っていた花びらが頼りなく揺れ、離れた。床に落ちた一点の赤。ミルゼはしゃがみこんでそれに触れる。
 庭で石碑の隣に咲く自分の花は、もう見ごろを過ぎかけていた。一番美しい時が過ぎれば、あとは朽ちて散っていく。この姿でいられる時も終わってしまう。
 花びらを拾い上げて立ち上がった。部屋を見渡し、一つ一つのバラに目を配る。
 一重咲きのマーメイド、淡い藤色のブルームーン。
 白地の端を桃色に染めるのは“ヒメ”。
 ラウルが教えてくれたバラの名前。あの時は確かに、笑ってくれたのに。
 夢のような時間だった。ロザリアはいつも、彼とこんな時を過ごしていたのだろうか。
――あと数日。
 ミルゼは指先で、小さな“ヒメ”の花を揺らした。

 廊下を歩くラウルの脳裏には、ミルゼの言葉が響いていた。
――なぜ嫌うのです。あなたのおくさまが愛した花なのに。
 だから見たくないのだ。あの鮮やかな花びらを見ると、それを手にとって微笑むロザリアの姿まで浮かんでくる。
 さっきは違った。ただ純粋に、ミルゼと会話を楽しんだ。ミルゼがバラの名前を一つ聞いては喜ぶのが、微笑ましかった。
 ミルゼが彼に仕え始めたのは数日前だ。働かせてほしいと突然屋敷を訪れた少女を、ラウルは執事の反対も押し切って側に置いた。身寄りのない少女に同情したのか。それとも、少女の波打った金の髪が、ロザリアのそれと重なったせいか。
 そんなラウルの胸中を知ってか知らずか、ミルゼはよく仕えてくれた。ただどういうわけか、しきりにバラの花を見せたがる。毎日部屋に届けるだけでは飽き足らず、庭に出ようと誘いさえする。
 無邪気なのか、少女なりの気遣いなのか。
 ミルゼが側にいるのは構わない。楽しいし、気分が安らぐ。ただ、あの花のことを、あの庭のことを持ち出されるのはたまらない。
 ラウルは首を振ると、自室の扉を開けた。すぐ目の前にミルゼが立っていた。
「おかえりなさいませ」
 にこりともしなかった。少し戸惑うラウルに、ミルゼは表情を動かさずに言う。
「お片付けは済みました。下働きの方にも手伝っていただいて、花は全部外に出しました」
「ああ……ご苦労だった」
 とりどりに咲いていたバラは一輪もなくなり、質素だった部屋が前にも増して殺風景に見える。その中で、一輪だけバラを手にしたミルゼは、ラウルの前に立って少しも表情を動かさない。
「……すまなかったね」
 ラウルは呟くように声をかけた。
「いいえ」
 ミルゼは答えると、手にしていたバラをラウルに差し出した。
「わたしに謝るより、おくさまにこれをお届けしてください」
 赤とも橙ともとれる、明るい朝日のような花だった。幾重にも重なった花びらが大きく開いている。
「ロザリアにこれを?」
 ミルゼはうなずいた。
「お庭は満開のバラでいっぱいです。これを持って訪れてみてください。あのころのように」
 ミルゼは花を突き出すと、半ば押し付けるようにラウルにそれを持たせた。そして無言で扉に向かった。
「あのころのように?」
 ラウルが後ろ姿に問いかける。ミルゼは扉の前で振り返って、うなずいた。
「おくさまがいらしたころのことです。あなたはいつもお側について、一緒にあの庭を愛してくださったではありませんか」
 まるで見ていたかのような言い方に、かすかな違和感を覚える。
「ミルゼ。なぜお前がそれを知っている?」
 ミルゼは答えず、まっすぐな視線を残して扉の向こうに消えた。
 ラウルの手元に残ったのは、朝日のような一輪のバラ。おそらくもう見ごろは過ぎたのだろう。花は開き、しおれ始めている。それでも鮮やかな色は衰えていない。
――おくさまにこれをお届けしてください。
 ロザリアはもういない。
――お庭は満開のバラでいっぱいです。これを持って訪れてみてください。
 そんなことができるはずがない。
――あなたはいつもお側について、一緒にあの庭を愛してくださったではありませんか。
 懐かしい光景が目に浮かぶ。庭園を歩き回り、バラを手にして微笑むロザリアの姿。
 次の瞬間、ラウルは手の中のバラを鷲掴みにしていた。
 茎が折れ、潰された花から花びらが力なく落ちる。
 だがその時、彼の目には別のものが映った。花びらが散るように、朽ち果てていく小さな体。ゆっくりと崩れ落ちる華奢な少女。
「ミルゼ……?」
 ラウルは目をこすった。前には、自分が命を奪った一輪のバラしかない。
 一瞬にして何かを失った感覚。これには覚えがあった。ロザリアが死んだ時と同じ。花が散るように消えていった儚い命。
 ラウルは弾かれたように扉を開け、廊下に飛び出した。

 近づいてくる足音。ミルゼはゆっくりと瞼を持ち上げた。廊下の壁にもたれて座り込んだまま、立ち上がれない。足も、指先も、体中から力が抜けていく。
 ぼんやりした視界の中に、長い影がよぎった。と思う間もなく、ミルゼはその影の腕に支えられていた。知らず知らず微笑んだ。
「だんなさま……」
「ミルゼ、どうした? 立てないのか。しっかりしろ」
 抱き起こして呼びかけるラウルに首を振って、ミルゼはゆっくりと視線を動かした。床の上に、ラウルが投げ出した一輪の花が倒れていた。折れた茎、しおれた葉。朝日のような花びらはすでに花の形を留めず、周りに散っていた。
「やっぱり、枯れてしまったのですね……」
 呟いたつもりだったが、消え入るような声しか出なかった。全身から力が抜けるとともに、少しずつ意識が遠のいていく。
『もし花の命が終わるまでに戻らなければ、両方の命を失ってしまう』
――ごめんなさい、庭の精さま。
 もう戻れないのだと知った時、バラの自分を名残惜しいとは思わなかった。失いたくないのはこちらの命。ラウルの側にいられる、人間の少女の姿。
――ごめんなさい、おくさま。
 最初の望みは遂げられなかった。ラウルをあの庭には連れて行けなかった。
「ごめんなさい……だんなさま」
 小さな唇が言葉を紡ぐ。ラウルは顔を寄せ、その声を聞き取ろうとした。ミルゼは薄く目を開け、唇を微笑みの形に動かして、声を絞り出した。
「わたしは、枯れてしまうけど」
――夢のような時間でした。
「あの庭は今も、満開のバラでいっぱいです」
――ずっとあなたの側に寄り添いたかった。
「どうかおくさまの側へ、行ってあげて」
――本当は、あの人がうらやましかったの。
「あなたがおくさまと過ごしたあの庭へ……」
 それが最後だった。

 どのくらいそうしていただろう。
 ラウルはただ一人、廊下に膝をついていた。抱きかかえていた少女の体はどこにもない。
「ミルゼ……?」
 ラウルは小さく呟いて、自分の手を見つめた。
 すぐ側に、朝日色の花びらを散らした一輪のバラが落ちていた。

 その日、ラウル・ハミルトンは何月ぶりかに屋敷を出た。玄関を出ると正面に丸い湖、その横を通り過ぎて敷石の上を歩く。
 日差しも強い六月の午後だった。
 やがて、古い煉瓦の壁に行き当たる。手の中を見つめた。拾い集めてきた、あの朝日のような花びら。ラウルはもう片方の手で扉を押し開けた。
 まぶしいほどの色彩に、思わず目を覆う。陽に照らされた無数のバラたちが挨拶をしていた。
 ローテローゼの毒々しい紅の群れ、その向こうには目を刺すように白いパスカリ。大輪のマーメイドも並んで顔を見せている。咲き乱れるのは小さな桃色のアンジェラ。反対側では淡い藤色のブルームーンが、静かな空気を帯びて咲いている。
 ラウルは庭の一番奥に目をやった。芝生の上に小さな石碑が立っている。歩いていって、その前に膝をついた。
 ロザリア・ハミルトン
 彼が数か月前に立てた石碑だった。バラの花を愛した妻が、いつもこの場所にいられるようにと。
 ラウルは静かに石碑に近付き、手のひらを広げた。朝日色の花びらが、石碑の上に折り重なった。
「ある人からの使いだ。これを届けてほしいと」
 ラウルは石碑に呟いた。
「本当は、花のまま見せてやりたかったが」
 枯れてしまった。枯らしたのは自分だ。あの花も、あの少女も。
 風が庭を横切った。穏やかな風だったが、石碑の前の花びらを散らすには充分だった。花びらは舞い上がり、ラウルの側を抜けて広い庭へと旅立っていった。
 ラウルはそれを見送ると、庭全体を見渡した。
 明るい日差しに照らされて、溢れるように咲くバラの花たち。春、最後にロザリアと来た時は蕾だけだったものも、今は鮮やかな花を咲かせている。
 この庭を二人で歩いた。蕾を指差して、時には見ごろになった花を摘んで。
「ここにいたのか……ロザリア」
 バラの庭園は、今年も変わらず満開を迎える。
 二人の時を伝えるかのように。
「ではミルゼ、お前はどこにいる」
 庭の片隅で二人を見守っていた小さなバラは、もうここには咲いていない。



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