時の花びら [ 1 ]
時の花びら

前編
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「その花は誰が生けた」
 小さな円卓の上に、二輪のバラが咲いている。細い陶器の花瓶から競い合うように茎を伸ばし、開き始めたばかりの蕾。白い花びらは透き通った露の光を含んでいる。
「わたしです、だんなさま」
 ミルゼが答えた。
 円卓の前の大きな椅子にゆったりと座る主人。傍らに立つミルゼを見上げ、低い声で言い放つ。
「今すぐ捨てて来い」
「……でも」
「早くしろ。二度と屋敷の中に持ち込むな」
 花から目をそらした主人、ラウルは、うなだれるように椅子にもたれた。堅く閉じられた両目。もともと白かったのに加えていっそう血色の悪い顔。濃い茶色の髪が無造作に伸び、細い輪郭を縁取っている。
 花瓶ごと花を手にしたミルゼは、静かに頭を下げてラウルの側を離れた。扉を開ける音が響いても、ラウルは目を閉じたままだった。

 ラウル・ハミルトンの屋敷には、花と緑の見事な庭園があった。家の玄関を出ると正面には丸い湖、左右には整えられた芝生と豊かな緑。
 春は過ぎ去ったが梅雨には少し早い、六月の朝だった。柔らかな陽気が庭を満たしている。頭上には雲一つない水色の空。
 胸に白いバラを抱えたミルゼは、敷石の道を進んだ。湧き出る水の匂い、透き通った日光の匂い、緑の匂い。
 道の突き当たりには古い煉瓦の壁がある。ミルゼは手のひらでそれを押した。
 煉瓦の塀に囲まれたその空間は、色とりどりのバラで溢れている。
 芝の小道のまわりには棘を含んだ葉が生い茂り、開きかけた蕾が一面に顔を出す。
 正面には円形の植え込みがあり、白バラを実らせる緑の大樹。
 手前には毒々しい紅の群れ。反対側には桃色の小さな蕾。
「おはよう、みんな」
 ミルゼはゆっくり見渡して微笑んだ。
 白いオールドローズの花道を抜ける。一番奥の芝生の上に、小さな石碑が立っている。
 ミルゼは腰をかがめると、持ってきた白いバラを石碑の前に置いた。
「今日も……だめでした」
 石碑に向かってぽつりと呟く。
 ロザリア・ハミルトン
 石碑にはそう彫られていた。
 ミルゼは立ち上がり、屋敷に戻ろうと振り返った。
 その時、声がした。
「ミルゼ。私の小さなバラの子」
 ミルゼは左右を見たが、別の姿はない。
「おまえに私が見えなくとも、私にはおまえが見えている。そのままでお聞き」
「庭の精さま?」
「そこをごらん」
 ミルゼは石碑の隣に視線を移した。芝生の上に、一輪のバラの花が咲いていた。
 光の中から茎を伸ばし、蝶のような花びらが開いている。赤とも橙ともとれる、朝日のような花。
「もう蕾は開いてしまった。じきに散り始める」
 声がミルゼに語りかけた。
「これが枯れるまでだ。わかっているね?」
「……はい」
 ミルゼは首を縦に傾けた。
「無事に戻るのだよ。私の小さなバラの子……」
 声が遠のいていく。
 ミルゼはもう一度、隣の石碑を見た。
「きっと、それまでにだんなさまを連れてきます。おくさま」
 蜂蜜色の波打った髪に青い瞳。色白で細い小柄な体。ビロードの黒いドレスに白のエプロン。
 一見、ごく平凡な少女に見えるミルゼだが、この姿はほんの数日前に得たものだった。
 ラウルの妻、ロザリアが帰らぬ人となってからのことである。
 バラの花を愛したロザリアは、毎日のようにこの庭を訪れた。膨らんだ蕾を指差し、時には見ごろになった花を手に取る。その隣にはいつも、守るように寄り添うラウルの笑顔があった。
 庭の片隅で二人を見守るミルゼは、バラの花だった。蕾をつけたばかりの小さな花。微笑みあい、手を取りあう夫婦の姿に憧れた。
――わたしもあんなふうに寄り添いたい。
――あんなふうに愛し、愛されたい。
 それはいつしか、ラウルへの淡い恋となって花を咲かせた。
――けれどもわたしはただの花。
 ミルゼは想いを閉じ込め、二人を見守り続けた。
 早咲きのバラたちが花開き始めた春、夫婦の姿が庭から消えた。三日、五日、ロザリアもラウルも現れない日が続く。
 七日経ってようやく現れたのは、ラウル一人だった。別人のように痩せて血色の悪い顔。表情からは何一つ感情が読み取れない。
 彼は庭の奥に行き、土の上に小さな石碑を立てた。そして引き返し、庭を出ようとした。ミルゼがその背中を心配して見つめていた時だった。
 ラウルの手が、近くに咲いていたバラの花を鷲掴みにした。
 茎が折れ、花びらは灰のように散っていく。
 ラウルは見向きもせず、庭を後にした。
――おくさまが亡くなられたのだ。
 ミルゼは静かに悟った。
 もともと病気がちな人だった。この七日間、夫婦が一度も庭を訪れなかったわけを知った。
 その日から、ラウルは二度と庭に現れなかった。
 初夏が近付き、バラの花は次々と満開を迎える。ミルゼの蕾も色付き始めたが、心は色を失っていた。花が咲いた時、一番に喜んでくれたであろう人はもういない。
 ある日、ミルゼは庭の精に願いを伝えた。
 そして少女の姿を手に入れた。
 庭の精はミルゼの花を示して、こう諭した。
「この花が枯れる前に、必ず帰ってくるんだよ。もし花の命が終わるまでに戻らなければ、両方の命を失ってしまう」
 朝日のようなバラの花は、すでに蕾を膨らませていた。ミルゼは覚悟を決め、ラウルの屋敷に向かった。
 それから三日。ラウルがバラの花を見てくれたことはない。

 小さな手が扉を叩く。返事を受けて、ミルゼは部屋に入った。窓辺に立つラウルが振り向いた。
「午後のお茶をお持ちしました。それからこれを」
 ミルゼは紅茶を載せた盆を円卓に置くと、片手で抱えていた真紅のバラを差し出した。
「お庭のローテローゼが見ごろなんです。庭師に頼んで何輪か切ってもらいました」
「ミルゼ」
 ラウルは目をそらし、ため息をついた。何を言われるのかは予想できたが、ミルゼは気付いていないふりをして笑顔を作った。
「はい」
「何度言えばわかる? 屋敷にその花は持ち込むな。最初に賄い頭からも言われただろう」
「でも、きれいなんです。見てください」
 ミルゼは抱えたローテローゼの花を差し出した。折り重なった赤い花びら。庭から切り取ってきたばかりで、まだ生き生きとしている。
「お庭のほうはもっときれいです。六月ですもの。これからが一番素晴らしい時期です。どうしてだんなさまは、外に出られない……」
「ミルゼ、出て行け」
 ミルゼの顔から表情が引いた。ラウルはゆっくりと言った。
「その花を持って出て行ってくれ」
「……なぜですか?」
「ミルゼがこの家に来る前だったな。春に、私の妻が亡くなった」
 ラウルはバラを見ず、ミルゼとも目を合わせず、静かに続けた。
「あの庭は妻のものだった。いつも……二人で過ごした場所だった」
 その光景をミルゼがいつも見ていたこと、憧れていたこと、そして彼に密かな想いを抱いていたことを、ラウルは知らない。
「出て行ってくれ。二度とその花を私に見せるな」
 ミルゼは食い入るようにラウルを見つめた。そしてきびすを返し、扉を押し開いて外に出た。
 しばらく廊下に立ち尽くしていた。
 抱えたローテローゼは、目の覚めるような赤。

――だめです、おくさま。
 バラの庭で石碑の前にローテローゼを添えながら、ミルゼは呟いた。ラウルは庭に来るどころか、花さえ見てもくれない。
 石碑の隣の花はすでに開ききっている。これが散り始め、枯れるまで何日持つだろう。
 ロザリアの石碑を見つめた。ミルゼたちバラの花を愛してくれた人。そして、ラウルに愛された人。
――このままにはしておけない。
 ミルゼは立ち上がり、バラの庭を見渡した。
 やや強くなった日差しの下、無数の花が空を見上げている。
 血のような赤、一点の曇りもない白、目の覚めるような黄、ほのかに染まる桃色。これほど多くのバラを集めた庭は、おそらく他にないだろう。
 ミルゼは庭園の中を歩き、一つ一つのバラに指を触れた。

 次の日の午前。ラウルが書斎から戻ると、部屋の扉がわずかに開いていた。今朝はミルゼが掃除に来ていたのだと思い出して、中を見た。無数の彩りが目に飛び込んできた。
「おかえりなさいませ、だんなさま」
 ミルゼが明るい声で迎える。
 扉を開けて中に入ったラウルは、その場に立ち尽くした。
 窓辺、床、円卓の上。部屋中ありとあらゆるところに色とりどりのバラが咲いている。大輪の花をつけた一本の茎、小さな花びらを咲かせる背の低い苗。鉢植えのものも花瓶のものもあったが、どれも咲きたてのように生き生きとしている。
「……なんだ、これは」
 ラウルは部屋を見渡しながら、それだけ言うのがやっとだった。
 部屋の中央で白バラの花束を抱えたミルゼは、にっこり笑った。
「今日はお掃除が済んだら、わたしとお話してくださる約束でした」
「ああ、だからこうして書斎で本を……」
「本はけっこうです。バラのお話をしてください、だんなさま」
 ラウルは目を見張った。ミルゼがはずんだ口調でこう続ける。
「バラの名前を、庭師に教わっているのです。でもだんなさまが一番詳しいと聞きました。わたしにも教えてください」
「……ミルゼ、言っただろう」
「だんなさまがバラをお嫌いなのはわかっています。でも今日は約束ですもの。わたしのお願いですから、聞いてくださいね」
 ラウルを遮るように言ったミルゼは、底抜けに明るい笑みを浮かべる。何を考えているのかさっぱりわからない。ラウルが返す言葉を見つけられないうちに、ミルゼは抱えていた白バラを差し出した。
「これが何と言うかご存知ですか?」
 やや曇った白。花は手のひらほどで、まだ開き始めたばかりでしっとりしている。
「……“パスカリ”か」
「正解です」
 ミルゼは嬉しそうに笑い、白いパスカリの花束をラウルに押し付けた。
「ではこちらは? わたし、初めて見た時はバラだと思いませんでした」
 指し示したのは、円卓の上に置かれた鉢植え。濃い桃色の花を鈴のようにつけている。花は小さく、ミルゼの言う通り普通のバラとは少し違う。どちらかと言えば牡丹のような形だ。
 ラウルはじっと見つめた。
「“アンジェラ”」
「また正解。すごいわ」
 ミルゼはそう言って、今度は隣に置いた一輪ざしを手に取った。
「これは、わたしもまだ覚えていないんです。形はバラらしいけど、不思議な色ですね。それにいい香り……」
 淡い藤色の花びら。ミルゼの手もとから、爽やかな香りが漂ってくる。
「“ブルームーン”だ」
 ラウルは即答した。あえて記憶していたつもりはなかったのに、目にした瞬間すっと名前が出てきた。ロザリアに庭を連れ回されるうちに、自然と覚えてしまったのだろう。
「“青い月(ブルームーン)”……きれいな名前」
「四季咲きの古い花だ。今年も咲いたんだな」
 ラウルがじっと花を見つめると、ミルゼはにっこりした。
 続いてミルゼは、短い茎の先に付いた大輪のバラを手に取った。一重の淡い黄色の花びら。
「これは……言わないでくださいね。わたし、覚えたんです。確か……」
 ミルゼは手のひらに花を載せて考え込む。口元に指を当て首を傾げる姿を見て、ラウルは思わず微笑んだ。
「思い出したか? 物語の主人公の名前だ」
「物語……?」
「海に出てくる」
「ああ! “マーメイド”ですね」
 手を合わせて喜ぶミルゼ。ラウルは笑みをこぼしながら、足元の鉢を持ち上げた。
「これは知っているか? 少し難しいな」
「ええと……」
 ミルゼが八重咲きの花に触れる。白地の端が薄く桃色に染まっている。小さな花に似合わず強い香り。
「“ヒメ”と言うんだ」
「ヒメ……? 可愛い響きですね」
「この花が生まれた東の国の言葉で、“お姫様(プリンセス)”という意味だ」
「東の国のバラなのですか? 見たことがないと思った」
「なかなか見られるものではないぞ。確か今年の冬に、ロザリアが苗を取り寄せて……」
 言葉と同時に、ラウルの表情がしおれた。抱えていた鉢を下ろし、ミルゼに背を向ける。
「どうなさったのですか?」
 少女の声が背後から問いかけた。
「話は終わりだ。片付けなさい」
「どうしてですか? まだバラはたくさんあるのに」
 ミルゼは微笑を含んだ口調で続ける。
「ここにお持ちしたのだって、外に咲いているもののほんの一部ですよ。お庭にはもっともっとたくさんの素晴らしい花があります。良ければ今度は外に出て……」
「話は終わりだと言っただろう」
 ラウルは振り向いて、ミルゼの声を遮った。ミルゼの顔から笑みが消えた。ラウルは側にあった花束をミルゼに渡して、続けた。
「もう片付けてくれ。昨日も言ったように、二度とこの花をわたしに見せるな」
「だんなさまはバラが嫌いなのですか?」
 ミルゼの青い瞳が見上げる。ラウルはため息をついた。
「好きではない」
「そんなはずありません。さっきはあんなに楽しそうに……」
「妻が好んで育てていたから、わたしも覚えただけだ。もう見たくもない」
「なぜ嫌うのです。あなたのおくさまが愛した花なのに」
 ラウルは顔を上げる。ミルゼは青い瞳をまっすぐ向けていた。
「あのお庭は、おくさまと過ごされた大切な場所なのでしょう? それなのになぜ避けるのです」
「庭があっても、ロザリアはもういない」
「いいえ、いらっしゃいます」
 ミルゼはゆっくりと言った。あどけなさの残る顔立ち。だがその視線はラウルを捕らえて放さない。
「おくさまはすぐ側にいらっしゃいます。だんなさまが気付かれないだけ……」
「もういい。片付けろ」
 ラウルは首を振って目をそらした。ミルゼが口を閉じた間に、前を通り過ぎて出口に向かう。
「お庭に出てみてください。きっと気付かれます」
 背後からミルゼの声が追いかける。ラウルは振り払い、部屋を後にした。


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