天と地と湖

天と地と湖
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 西大陸で最初の人間の国ができたのは、一人の勇士が北に砦を築いた時だった。
 神々はこれをとても喜んだ。人間は彼らの手を離れ、地の上で自らを守る術を身に付けたのだと。
 王となった勇士には、神々の祝福として一人の女神が授けられた。
 その名はソフィア。神々の中で最も若い少女神であった。

 ソフィアは神の手によって天から送られ、地の上に一人で取り残された。
 ソフィアはとても美しい少女だった。ゆるやかに波打った髪は日の光のごとくきらめき、白い肌は一点のけがれもなく滑らかで、華奢な肢体は清廉さを形にしたかのように美しい線を描いていた。
 しかしその美しい顔は、屈辱と憎悪によって激しくゆがめられていた。
 なぜ女神である自分が、地を這う人間の妻にならねばならないのか。
 砦の中に通されたソフィアは、夫となる者を睨みつけた。
 人間の王はまだ年若く美しい青年であった。しかし天上の男神を見慣れていたソフィアには、まるで獣のように見えた。彼の髪はソフィアのそれのように輝いておらず、肌の色も土のように濃かった。
 王の青い目は品定めするようにソフィアをながめていた。
「わたしを見つめるのはやめなさい」
 屈辱に耐えきれなくなったソフィアはそう命じた。
 しかし王の視線は離れず、いっそう強くソフィアにまとわりついた。
「あなたは耳が聞こえないの? わたしの命令に従いなさい」
 それでも王の目は動かなかった。その顔には変化がなく、どんな小さな感情も読みとれなかった。
 ソフィアは恐ろしさを感じて命じるのをやめた。
 やがて王が口を開いた。
「女神といえどもそなたはわたしの妻。人間の王の妃だ。そなたの命は聞かぬ」
 耳ににじむような低い声だった。
 命令が聞かぬと知って、ソフィアは怒り狂った。思いつく限りの罵声を王に浴びせ、彼の築いた国を蔑んだ。終いには、女神の力を以てこの国を滅ぼしてやるとまで言った。しかし王の表情は変わらなかった。
「そなたはわたしに嫁ぎ、地の上に残された。もう女神の力は使えまい」
 ソフィアは唇を噛んだ。王の言うことが真実だったからだ。
「わたしの名はアレクセイ」
 若き王は静かに言った。
「人間ごときにも名前があるの」
 ソフィアは心から蔑んで言った。
「魂のあるものには名前もある。当然だ」
 王は言った。その声にはほんのわずかな揺れもなかった。

 人間の国での暮らしは平穏で退屈だった。
 朝が来ると王のもとに民が集まり、神々に祈った。今日の恵みへの感謝と、明日の実りへの願い。ソフィアも王の妃として祈りに交えられた。
 その後は食事を摂った。人間の国の食物はみな土の匂いがして、ソフィアは口に入れる気になれなかった。
 王は、昼間は砦を空けることが多かった。
 ソフィアは人間の臣下たちと取り残された。気が利かず、芸の一つもできず、醜い彼らのことがソフィアは大嫌いだった。
 日が落ちたらまた祈った。王には弟がいて、祈りの時には必ず王の側に来た。ソフィアは彼のことも大嫌いだった。
 夜は王と同じ寝所で休まされた。若き王ははじめて会った時と同じで表情に乏しく、ほとんど口も開かなかった。ソフィアはそれが気に入らなかった。
「一言くらい何か話してみなさい」
 ある夜、ソフィアは寝台の上で王に言った。
 王はやはり表情を変えなかったが、口は開いた。
「そなたの命令は聞かぬと言ったはずだ」
 ソフィアは悔しさに任せて声を荒げた。
「わたしはこの国が大嫌い。この砦の人たちも大嫌い。あなたのことも大嫌い」
 王はソフィアの言葉に応えず、一人で横になって眠ってしまった。
 ソフィアは怒り狂ったが、王の隣に習うしかなかった。
 そのまま何日も過ぎていった。
 ある朝ソフィアが目覚めると、王が寝台の横に立って見下ろしていた。何事かと尋ねると、王は「ついて来い」とだけ言った。
 ソフィアと王は砦の外に出た。
 北の王国は厳しい冬であった。砦も、大地も、道も、純白の雪に覆い尽くされていた。ソフィアはこの雪だけは好きだと思った。天から舞い降りた、けがれない美しいものに見えたからだった。
 王は振りかえりもせず早足で先に進んでいった。
 ソフィアは気に入らなかったが、何も言わず彼についていった。
 神殿の立つ高い丘で王は足を止めた。ソフィアも隣で立ち止まった。
「何があるの」
 王は答えなかった。彼の目は雪に覆われた大地の果てを見つめていた。ソフィアも仕方なくそれに習った。
 しばらくそうしていると、信じられないことが起こった。純白の雪が金色に変わりはじめたのだった。
 ソフィアは驚いて隣の王を見上げた。王も少しだけソフィアを見たが、すぐにそらした。ソフィアもやはり視線をもどした。
 雪は今や、燃えるような黄金に変わっていた。そこに突然、光の矢が差し込んだ。ソフィアが驚く間もなく矢は二本、三本と続き、やがて大きな塊となって地上の果てから現れた。
 冬の朝日は、大地をいだくように光で包みこんだ。
 ソフィアはただ驚いていた。人間の国に来て、これほど美しいものを見たのははじめてだった。
 呆然と立っていることしかできなかった。王は隣でやはり黙って立っていた。
 やがて光がすべての地に満ちた。
 ソフィアはゆっくりと隣の王を見上げた。
「魂のあるものには名前もあると言ったわね」
 そう聞いた。
「言った」
 王は答えた。
「この国にも名前があるの?」
 ソフィアは聞いた。
「ある」
「何という名前?」
「シーア」
 王は低い声で呟いた。
 シーア、とソフィアは口の中でくりかえした。王は何も言わなかった。
 二人はそのまま黙って立っていた。
 またしばらくしてから、ソフィアが口を開いた。
「アレクセイ」
 王の名を呼ぶのははじめてだった。
「どうしてこの国をつくったの?」
「民人が安らかに暮らせる土地が欲しかったからだ」
「どうやってつくったの?」
「人を束ねるわたしと、神と話せる弟とが力をあわせた」
「この国を愛している?」
「愛している」
 それからソフィアは二度と、この国を大嫌いだとは言わなかった。
 土の匂いは嫌ではなくなった。獣のようだと思っていた人々も、よく見るとみな美しいことに気がついた。ソフィアはそれを神々に伝えるように天に祈った。
 王はやはり表情に乏しく、ほとんど口を利かなかった。そのかわりにソフィアが話すようになった。寝所で二人になると、その日に見たものや聞いたものや知ったことを一つ一つ教えてやった。王は聞いているのかわからないまま眠ってしまった。そしてソフィアも隣で眠った。
 ある夜、ソフィアが話しはじめると、王の顔に不思議な変化が現れた。青い目に水の雫が浮かんでいた。
 ソフィアはたずねた。
「何をしているの」
 王は答えた。
「泣いている」
「どうして?」
「弟が死んだ」
 ソフィアにはその意味がわからなかった。ただ祈りの時いつも側に来る王の弟が、今日はいなかったことを思い出した。
 うつむいた王の目から雫がこぼれおちた。
 それを見たソフィアは今まででいちばん嫌な気持ちになった。胸が痛くて苦しくてたまらなかった。このように感じたのははじめてだった。
「泣くのはやめなさい」
 ソフィアは命じた。王が泣くのを見ていたくないと思ったからだった。
 しかし王は泣くのをやめなかった。命令は聞かぬと言い返すこともしなかった。
「やめなさい」
 ソフィアはいっそう強く命じた。
 それでも王は泣くのをやめなかった。
 ソフィアは突然、王を抱きしめた。そうすれば王が泣くのをやめるような気がしたのだった。どうしてそう思ったのかはわからなかった。
 王は何も言わずソフィアに身を預けていた。
 ソフィアは更に強く王を抱きしめた。そしてその頭を撫でてやった。

 それから二人は長いあいだ共に暮らした。
 王国は春を迎え、夏を過ぎ、秋を送り、再び冬に入った。それが何度も何度もくりかえされた。
 ソフィアと王は四人の子を成した。子の三人は男児で、末の子だけが女児であった。四人の子はみな神のように美しかった。
 ソフィアはいつも朝には神に祈り、夜には王と話した。二人はよく朝日を見に行った。そしてときどき抱きしめあった。
 何度目の冬になっても、ソフィアの美しさは変わらなかった。髪は輝きつづけ、白い肌には一点のけがれもなく、華奢な肢体もずっと同じ線を描いていた。
 だが王は変わっていた。髪の色は落ちはじめ、美しい顔には皺が刻まれた。しかしソフィアはそれに気付かなかった。王の変化はとてもゆっくりで目には見えないのだった。
 ある夜、王はソフィアに言った。
「わたしはいつか死ぬ」
 ソフィアは不思議がって聞きかえした。
「死ぬ?」
「そうだ」
「どういうこと?」
「生きている人ではなくなる」
「生きている人でなくなったら、何になるの」
「魂は天になり、骨と肉は地になる」
 それを聞くとソフィアは怒って言った。
「あなたはアレクセイでしょう。天や地になるのはやめなさい」
 王はただ笑うだけだった。
 それからまた季節がめぐった。
 ある朝ソフィアが目覚めると、王が隣に眠っていた。
 ソフィアは王の肩をたたいた。しかし王は起きなかった。
「起きなさい」
 ソフィアは王に命じた。しかし王は起きなかった。
「目を開けなさい」
 ソフィアは王に命じた。王の目は開かなかった。
「何か言いなさい」
 ソフィアは王に命じた。王は何も言わなかった。
 ソフィアは王の名を呼んだ。それから王を抱き上げた。王の目は開かず、王の唇は言葉を編まず、王の身体は動かなかった。
 ソフィアは、王の魂が天になってしまったことを知った。
 ソフィアは王を抱きしめた。目から雫がこぼれおちた。ソフィアは、かつて人間の王がそうしたように泣いた。
 朝日が昇っても、再び沈んでも、ソフィアは王を抱きしめて泣きつづけた。ソフィアが流した涙は王国の大地にたまり、湖をつくった。冬になり湖が凍っても、夏になり湖が溶けても、ソフィアは王を抱きしめて泣きつづけた。
 やがて王の骨と肉が地になっても、ソフィアは一人で泣きつづけた。
 神々はソフィアを哀れんで、ソフィアの魂を天に、骨と肉を地に変えてやった。
 ソフィアは人間の王と同じように死んだ。

 ソフィアと王の子どもたちは、みな美しく成長した。中でも末の娘の美しさは女神そのもののようだった。
 兄たちはその神々しさをたたえ、妹を国の新しい王にした。
 こうしてシーアは、神の化身である女王の治める国となった。

 はじまりは人間の王に嫁いだ少女神。天と地を統べ、湖をつくった母なる女神であった。
 その名は西大陸最古の物語として、後世に伝えられている。



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