約束のサンタクロース
後編
バスが発車する音が響いて、あたしは我に返る。
隣のおじいさんを伺うと、もう笑ってはいなかった。バスを見送る目が、心なしか寂しそうに見える。
「……七本目ですね」
なるべくさりげない口調で言う。
「そうですね」
おじいさんは、あたしを見ずにうなずいた。
街中に流れるクリスマスソング。鈴の音。
暗い夜空に光を投げかける、ツリーの電飾。
声を弾ませる家族連れや恋人たち。
にぎやかな街の風景は、寂しい人間にとってはこんなに残酷なものなんだ。
「ボーイフレンドとは、ケンカでもしたんですか?」
おじいさんが突然、あたしに聞いた。
さっきまで道を見ていた顔を、あたしに向けて。元気はないけど、少しだけ微笑んでいる。
なんで、あたしが彼氏のせいで寂しがってるとわかるんだろう。この日に一人で歩いている女の子なんて、だいたい一種類か二種類しかいないからかな。
それともあたしが、そんなに寂しそうな顔をしているんだろうか。
「ケンカっていうか……」
あたしが一人で怒っているだけだよね。
そう。これは、ケンカでさえないのだ。
彼は今ごろ、充実したクリスマスを過ごしているんだから。
「サンタクロースは来ないんだよ、おじいさん」
楽しいクリスマスを過ごせるのは、運が良かった人たちだけ。見習いパティシエの彼女なんかは、もちろんその中に含まれない。
「何があったのか知りませんけど」
おじいさんはあたしを見つめて、穏やかに言った。
「うまくいかない時だってありますよ。相手を大切に思っているなら、自分もそう思われていると信じてください」
人生の大大先輩の言葉に、あたしの涙腺はちょっとだけゆるみかける。
「おじいさんは、信じられるの?」
「はい」
優しい声だけど、きっぱりとした肯定。
「娘と……少し前に、ケンカをしてしまいましてね。もうとっくに嫁に行って、孫もいるんですけど。その子のことで、ちょっと口を出しすぎて……嫌われてしまいました」
なんて言えばいいのかわからず、あたしはただ見つめる。
おじいさんは、笑っている。
「クリスマスには、孫を連れて遊びに来てくれる予定だったんですよ。私は一人暮らしですし、それは楽しみでねえ……」
「……」
ひょっとして。
「おじいさんの待ってる、サンタクロースって……」
途切れたあたしの言葉を待たず、おじいさんはにっこりとうなずく。
にわかに大きくなったような鈴の音。
街に溢れる光の洪水。
どうせあさってには、何事もなかったみたいに消えるのに。
……ううん、消えるから。
一晩で消えてしまうから、クリスマスの夜はこんなに明るいのかも知れない。
流れていたジングルベルにエンジン音が重なり、はっとした。
目の前にバスが止まって、着飾ったたくさんの人々が降りてくる。
腕を組んだ恋人、騒がしい女子高生のグループ、お母さんに手を引かれた小さな男の子――。
バスから降りた男の子は、あたしたちのほうを見て顔を輝かせた。お母さんから手を離し、こちらに駆け寄ってくる。
「――おじいちゃん!」
無邪気な声が弾ける。
呆然としているあたしの隣で、おじいさんが立ち上がった。五つか六つくらいの男の子が、その腕の中に飛びこむ。
「おそくなって、ごめんねぇ。メリークリスマス!」
ちょっと生意気そうな、元気な声。
おじいさんは顔をくしゃくしゃにして、男の子の頭をなでる。
あたしは少し離れて見つめながら、魔法にかかったような気分でいた。
ずっとずっと、サンタクロースを待っていたおじいさん。
クリスマスにはサンタクロースが来て、いちばん欲しいものをプレゼントしてくれる。
あたしは男の子の後ろに、一緒にバスを降りたお母さんが立っているのに気がついた。
あたしと十歳も違わないだろう、若いお母さん。ケーキの箱を持って、ちょっとぎこちなく笑って、おじいさんと男の子を見つめている。
「おかあさんがねぇ、ことしはおじいちゃんのとこ、いかないっていったんだよ」
男の子が、おじいさんを見上げて言う。
「でもぼく、ぜったい、いくっていったんだ。やくそくしてたもん」
「そうだねえ、よく来たね」
ただただ微笑むおじいさんと、得意げな男の子。黙って立っているお母さん。
良かったね。
心から、そう思った。
あたしのところには、サンタクロースは来ないけど。
おじいさんには来てくれて、良かったね。
少しだけあったまった心を抱えて、バス停に背を向ける。
「お嬢さん」
後ろから、おじいさんの声。
振り向くと、おじいさんも男の子も、不思議そうな顔をしたお母さんも、みんなあたしを見ていた。
「あなたのところにも、サンタクロースは来てくれますよ」
微笑んで言うおじいさん。
あたしは微笑み返して、その場を去ろうとした。けれどその前に、無邪気な声に呼び止められる。
「おねえちゃん、まって」
おじいさんにくっついていた男の子が、手を離してお母さんのほうへ行った。お母さんの手には、赤いリボンを結んだケーキの箱。
男の子は素早くリボンをほどくと、あたしのほうに走ってきた。
「メリークリスマス!」
小さな手から差し出される、きれいなリボン。そして、天使の笑顔。
あたしは思わず、リボンを受け取った。
男の子は満足そうに笑って、おじいさんとお母さんのほうへ戻って行く。
おじいさんはあたしを見て、やっぱり微笑んだ。
お母さんも目を丸くしながらも、笑いかけてくれる。
あたしは笑い返すと、三人に背を向けて歩き出した。
細くてつるつるしたリボンが、あたしの指に心地よく絡みつく。
小さなサンタクロースがくれたプレゼント。ありがとう。少しだけ心が痛くなくなったよ。
ふっと息を吐いて、リボンの端に頬ずりする。
あたしはその時はじめて、リボンに言葉が並んでいることに気がついた。端のほうに、黒いペンで書かれたいくつかの文字。
なんだろう。D……? Dearだ。
――Dear Tomomi
Tomomi――朋美。
――あたしの名前。
真っ暗闇の心に、いっせいに明かりが灯されたみたいだった。
一瞬でわかった。これは、彼だ。
あのケーキの箱は、彼の店のものだったんだ。
あの男の子を通して、あたしに届けてくれたんだ。
心がとけていく。
冷たかった指先が、リボンを持ったところから温かくなっていく。
『相手を大切に思っているなら、自分もそう思われていると信じてください』
どうして、信じられないなんて思ったんだろう。
どうして、寂しいのがあたしだけだなんて思ったんだろう。
本当は、わかっていた。
彼は、あたしのことがどうでもいいわけじゃない。知らない誰かのことも、あたしのことも幸せにしてくれようとしていた。
誰かにはケーキで。あたしには気持ちで。
パティシエになりたいという彼の夢、どうして心から応援してあげられなかったんだろう。
ケーキもプレゼントもいらない。イヴに会えなくったって、同じ夢を見ていればずっと一緒にいられたのに。
……本当は、わかってたよ。あたしのサンタクロース。
リボンの端にそっとキスしたあたしの頬には、とけた雪のように涙が流れていた。
……あれ?
でも、待てよ。
あの男の子、どうしてあたしが“Tomomi”だとわかったんだろう。いくら彼の店でケーキを買ったからって、それを持ってあたしに会いに来られるなんて、偶然にしては都合が良すぎる。
あたしは突然、とんでもないことに思い至った。
あの男の子と、おじいさんは。
「サンタクロース?」
とっさに振り返り、バス停が見える位置まで走る。
三人はもう、そこには残っていなかった。
その夜、彼からメールが来た。
『今日はごめん。イヴは終わったけど、あさってに会お』
どんな話ができるのか楽しみだ。このリボンを見せたらなんと言うだろう。イヴにお店に来た男の子のこと、彼は覚えてるかな。
そしたら、教えてあげよう。あなたのケーキを買った小さなサンタクロースは、おじいちゃんと楽しいイヴを過ごせたみたいだよって。喜ぶだろうな。
でも、覚えてろよ。今度はあたしの番なんだから。
イルミネーションは消えてしまっても、あたしたちのクリスマスはこれから始まる。
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