風見姫
風がどうして生まれるのか、知っている人はあまりいない。
世界のどこかに、風見の国という小さな国がある。
風の旅人と呼ばれる者たちが、めぐる季節とともにその国にやってくる。風見の国では、小さな少女が彼らを歓迎する。
その少女は、“風見姫”。
彼女は世界中の風の旅人と話し、彼らの行き先を決めるのだ。その年、その季節、世界のどの地で、どんな風が吹くのか。
知っているのは、風見姫一人だけだ。
「凪! そんなに走ったら転ぶわよ!」
「だいじょうぶ! この辺はあたしのなわばりだもん!」
緑の茂る小さな土手を、少女が走っていく。黒い髪を二つにしばった幼い少女だ。すその短い服から出た足が、元気よく大地をけり続ける。
次第にその足が速まっていく。
と思うと、すでに足は主人の意思を離れ、勝手に土手を下っていた。
「わ。わ、わ、わ」
少女――凪は短く叫びながら、土手の下に着地した。
足の裏ではなく、背中と腰で。
「いたたたた……」
「ほうら、見なさい。調子に乗るからよ」
すりむいた腕をさする凪に、頭上から声がかけられた。先ほどからずっと側を飛んできた小鳥、風花だ。
風見の国では、鳥はもっとも神聖な生き物とされる。風の行く道を誰よりもよく知っているからだ。彼らは人の言葉を話し、人の友達として暮らしている。
「凪。ほら、見て」
風花は、凪の肩にとまって言った。
「風の旅人たちがあんなにたくさん。春一番の準備をしてるんだわ」
「そうだね……」
凪は服に付いた草を払い、立ちあがる。
「もう、春なんだね」
緑のじゅうたんにさざ波が起こる。
日の光の中を飛んでいくのは、マントをなびかす風の旅人たち。
彼らが動けば、春の大地に風が生まれる。
ふと、凪は視線を止めた。
群れを成して飛ぶ旅人たちから、一人だけ外れた者がいる。地上に降りたち、仲間たちを見上げもしないで。
凪は土手を駆けて、彼に近付いた。
同い年くらいの少年だ。旅人のマントをまといながら、二本の足で土手を歩いている。
「ねえ」
凪は彼に追いついた。
「どうして飛ばないの?」
旅人の少年が振りかえる。
「おまえ、誰だ」
「凪よ。ねえ、どうして飛ばないで歩いてるの?」
「おれは無駄に風を起こすのが嫌いなんだ。行くべき道が決まり、風が必要になった時に初めて空を飛ぶ」
少年は空を仰いで言った。
凪はしばらく彼を見つめていたが、やがてにっこり微笑んだ。
「行くべき道は決まったの?」
「まださ。これから風見姫のとこに行く」
「じゃあ、行く手間がはぶけたわ。今からここで決めてあげる」
少年が足を止めた。探るように凪を見る目が、やがて見開いていく。
「おまえが風見姫か」
凪は目くばせすると、空に手をかざした。風花が飛んできてその上を舞う。
「もうすぐ、春一番の季節よ。あんたにはいちばんすてきな行き先を決めてあげる」
少年はまばたきした。そして、はじけるように笑い出す。
「おれは朗っていうんだ」
朗は手を差し出した。
凪は喜んで、その手を握ろうとする。だが触れた瞬間、その間からたつまきが起こった。風が周りの空気を巻きこんで、青空に昇っていく。
おどろいた凪の前で、朗は指を鳴らした。
すると、一つだったたつまきがいくつにも分裂する。
風のうずは意思を持った生き物のように、二人から離れて遠い空へ飛んでいった。
凪は見上げていた顔を戻し、朗を見た。
「すごい! もう一回見せて?」
「これっきりだ。あいさつ代わりだよ」
ぶっきらぼうに言った朗のほおは、薄く染まっている。
「すごいなあ……あたしにもできればいいのに」
「できないのか? 風見姫なのに」
「あたしの役目は、風の旅人の行き先を決めること。風を起こすことはできないの。いいなあ。あたしも旅人なら良かったのに」
「……行き先を決めるのだって、大事なことだと思うぞ」
「ほんと?」
「うん」
朗はうつむきがちに続けた。
「だってさ……これから冬が来る土地に、春一番が吹いたら困るだろ? 夏の嵐を待っている時に、木枯らしが吹いたらびっくりするよ」
「そうよね!」
凪は目を輝かせて飛びはねた。くるくる動く少女は、春の空のようだ。朗は目を丸くしてそれを見ている。
「ちょっと、凪! この子の行き先を決めてあげるんじゃなかったの?」
少女の上で声があがった。風花だ。
凪は足を止め、再び朗と向きあった。
「約束よ。あんたにいちばんすてきな行き先をあげる」
「どこだよ?」
「春を待ってる人のところ!」
凪は叫んで、両腕を広げた。
「春が待ちどおしい人は世界中にいるわ。その中でもいちばん待ちわびてる人のところに、あんたを送る。あんたが行って春一番を起こせば、その人きっとすごく喜ぶわ」
「どんな人なんだ?」
「春になったら戻ってくる恋人を待っているの。早く会いたくて、春が待ちきれないのよ」
朗は赤いほおをして、少し首をかたむけた。
「それは――いいかも」
「でしょう?」
凪は手を叩く。
「行き先はね、東よ。風見峠を下って、ガラスの谷を越えたらすぐにその国が見えるわ。そこの町で、小さな家に猫と暮らしている女の人を探して。見つけたら、思いきり元気に春一番を吹かせるのよ」
「わかった」
朗はしっかりとうなずいた。そして彼の足は、緑のじゅうたんを離れて空へとあがる。
「ありがとう、凪。役目はしっかり果たすよ」
「次の季節にまた来てね!」
凪が手を振ると同時に、朗は東の空へ消えていった。
風が生まれる。
空の下に一人で立つ凪は、朗が残していった風の香りに包まれる。
「ばいばい……また会おうね」
凪はしばらく黙って、朗の去った空を見つめていた。
そのうち、うるさい声が飛ぶ。
「凪! そろそろ帰らなくちゃ。他の旅人たちが訪ねに来るわ」
「――うん!」
凪は叫ぶと、下りてきた土手を今度は登りはじめた。
風見の国にも、もうすぐ春一番が来る。
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