放課後の悪魔
私の名前は早川理枝子。はっきり言って、美人だ。
「すごい早川さん。期末試験も学年首位だったね」
ついでに、頭もいい。
「早川さん、ノートありがとー。いつも助かるよ」
おまけに、性格もいい。
「早川さんってすごいよね。みんなに好かれてるのわかるな」
そうよ。美人で頭も良くて性格もいい、誰からも好かれる完璧な優等生。
学校での私の地位は、ゆるぎないものだった。
――あの男に会うまでは。
ああ、疲れた。
机を教室の端まで引きずって、ため息をつく。
時刻は夕方五時前。
授業はとっくに終わって、今は放課後。
教室では六人の当番が掃除をしているはずなんだけど――。
『ごめーん。私、今日塾の日なんだあ』
『私も私も。やっぱ早川さんと違って、死ぬ気で勉強しないとやばいしさー』
『俺は塾じゃないけど約束があって。悪いな』
『部活のミーティングに顔出さなきゃ』
『母親が風邪で寝込んでて……』
一人くらい残れっての。
「だいたい、掃除なんて大した時間じゃないのに……」
「じゃあそう言えばいいじゃん?」
……。
不意に、乱入して来た声。
ゆっくりと、顔を上げる。
「やあ」
「……!」
悪魔が、放課後の教室に光臨した。
「な、ん、でっ! ここにいるんですか!」
「校門で待ってたんだけど、なかなか来ないから。掃除当番だったのか。大変だね」
へらへらと笑う悪魔は、うちの高校の男子の制服を着ている。
そうよ。こいつよ。
藤崎拓真。一つ年上の二年生。
こいつが、私の地位をおびやかしたのよ。
原因は、〈ロバの耳〉だ。
誰だって、人には言えない本音を抱え込んでいる。
穴でも掘ってそれを叫び出してしまわないと、日常は生き伸びられないのだ。
特に私みたいに、美人で頭も性格もいい――と思われてる人間はね。
今日と同じようなシチュエーションだった。
次々とクラスメイトたちに去られて、掃除に残ったのは私一人。
でもそこは、美人で頭も性格もいい早川さん。
「いいよ。気にしないで。一人でもなんとかなるから」
にっこり笑って、みんなを追い出し――もとい、送り出した。
一人になったその時が、〈ロバの耳〉の穴だ。
「……塾の一つや二つあきらめろ。何の約束だバカップル。当番のたびにミーティングがあるってどうよ。家族が病気なんてベタな嘘、バレバレだっての……」
それを誰かに聞かれるなんて、どうして予測できた?
「いやー、あの時はびっくりしたよ。本当に早川さんが言ってるのかって、耳を疑ったもん」
「……」
「早川さん生徒会にも入ってるし、二年でも有名でさ。すごく評判いいのに、まさか誰もいない時に――ねえ?」
「……」
悪魔の嘲笑を無言で聞き流し、ほうきを動かす。
乗せられちゃだめだ。乗せられちゃだめだ。
おとなしく耐えていれば、私の地位は安全なんだから。
〈ロバの耳〉を聞かれたあの日以来、悪魔――藤崎先輩は、毎日放課後になると私を待っている。
一緒に帰るために。
なぜならあの日、彼は言ったのだ。
条件付きで、私のもう一つの人格を知らなかったことにしてくれると。
その条件っていうのが――。
「本当に付き合ってくれて嬉しいよ、理枝子」
がしっ。
悪魔の手が、私の手をつかむ。
「名前呼ばないでください」
「付き合ってるんだからいいでしょ?」
「手、痛いんですけど……」
「仕方ないなあ。帰る時間までとっとこう」
さも名残惜しそうに、先輩は手を離す。
早川理枝子、人生最初にして最大の失敗。
よりによってこんな悪魔に、〈ロバの耳〉を聞かれてしまうとは。
「先輩、なんであんな条件を出したんですか?」
掃除のために下げた机を戻しながら、横顔に向かって聞いてみる。
「理枝子が好きだからだよ」
即答しやがった。
「理枝子は、なんで優等生のフリなんかしてるの?」
にこにこしながら、先輩が聞く。
フリだなんて人聞きの悪い。
まあ、そうなんだけど。
「誰にだって裏表ぐらい、あるでしょう?」
椅子を下ろしながら言う。ムカつくから、目なんか合わせてやらない。
「学校の教室なんて、限られた空間だから。一度キャラクターが決まっちゃったら、ずっとそれを演じ続けないと居心地が悪くなっちゃうんです」
「ふーん」
「ふーんって。先輩はそういう経験ないんですか?」
「ないよ。そんなつまらないこと」
あっさり。
そんな効果音が聞こえそうな言い方に、思わず顔を上げた。
目が合って、先輩はにっこり笑う。しまった。
「理枝子の言うとおり、誰だって裏表はあるし、誰だって多重人格だよ。でも、だから面白いんじゃない?」
「面白い?」
「人と付き合っていくうちに、相手のいろんな人格が見えてくるのがさ。ずっと同じ人格しか見せ合わないなんて、つまらないと思わない?」
「……」
答え兼ねた私は、目をそらして片付けるべき場所を見た。
そこでふと、気付く。
まだまだ残っていたはずの机が、すっかり元通りになっていたことに。
顔を上げると、先輩は相変わらずにこにこ笑っていた。
「……いつの間に」
手伝ってくれていたんだろう。
でも、悔しいからお礼は言ってあげない。
「帰ろうか」
まったく気にしない様子で、悪魔は言った。
校門を出て、並んで歩き始める。
夕日を見送った後の空は、透き通ったオレンジだ。
先輩は、そんなに背が高くない。
低いわけでもないけど、男の人としては中の上くらいだ。
私は女の子の中では高いほうに入るから、先輩とはあまり差がない。
「背が高いね。何センチ?」
同じことを考えていたらしく、突然聞いてきた。
「百六十五センチです」
「六センチ勝った」
「勝負してどうするんですか」
「だって、彼女より低いのはさすがに嫌だろ?」
彼女ねえ……。
うきうきと足を進める悪魔。
同じ制服で並んで下校する姿は、誰が見ても両想いのカップルだろう。
「先輩、私のどこが好きなんですか?」
〈ロバの耳〉の事件が起こるまで、私は先輩のことを知らなかった。
でも先輩は、もっと前から私を知っていたはずだ。
事件後すぐに、付き合うことを条件に出したのだから。
あの時の私に一目ぼれしたとは考えにくいし。
「どこって聞かれてもなあ……」
先輩は笑ったまま、顔を傾けた。
「生徒会の私を見てですか?」
役員をしていたら、全校生徒の前に出ることはしょっちゅうある。
先輩が私を知っていたのなら、その時に見た可能性が一番高い。
「いや。そうでもないよ」
予想を裏切って、先輩は言った。
「確かに、最初に理枝子を見たのは生徒会の仕事をしている時だったと思うけど。でもそれで好きになったのかって聞かれると、そうとも言えない」
「じゃあ、どこで?」
「わからないよ」
これ以上困らせないでと言うように、先輩は首を振ってみせる。
学校では、美人で頭も性格もいい私。
その私を好きになって、〈ロバの耳〉を聞いて幻滅したのならわかる。
でも先輩は、そうじゃなかった。
「さっき、教室で言ってたことですけど」
「多重人格の話?」
あっさり答えられて驚いたけど、すぐにうなずく。
「私は、面白いなんて思えません。誰でも多重人格なのはわかってるけど、やっぱり決まったキャラクターを演じてしまうし、人にもそれを求めちゃいます。自分の違う面を見られたくないし、人の違う面も見たいとも思えない」
「それが面白いのに」
「先輩は、怖くないんですか?」
思わず声を荒げた。
「自分の違う面を見せて嫌われたり、人の違う面を見てしまって嫌いになっちゃったり。そういうの、怖くないですか?」
「嫌いになるかな?」
「……なりますよ」
美人で頭も性格もいい私は、掃除を押し付けられても文句なんて言えない。
『早川さんって、そんな人だったの?』
そう言われるのが怖いから。
「私、自分のこと嫌いです」
宣言するみたいに、前を向いて小さく叫んだ。
「優等生じゃない自分も嫌いだけど、優等生を演じてしまう自分はもっと嫌い」
嫌なやつだって、わかってる。
だけど、自分の地位を失うのが怖い。
自分のキャラクターからはみ出してしまうのが怖い。
「そんな、悲しいこと言わないでよ」
顔を向けると、先輩が私を見ていた。
笑っていたけど、少し曇ったような表情で。
「悲しい?」
「だって、俺は理枝子のことが好きなのに、理枝子自身が自分を嫌いなんて悲しいだろ?」
口調と同じくらい、まっすぐな視線を向けられる。
顔が赤くなるのが自分でもわかった。
……よくもまあ、こんな恥ずかしい台詞をすらすらと言えるもんだわ。
「さっき、理枝子のどこが好きかって聞いたよね?」
先輩は、いつもの笑顔に戻って言った。
「どの理枝子を見て好きになったのかは、はっきりわかならい。でも、理枝子が好きだって気付いた時のことはわかるよ」
「……え?」
「この前の放課後、理枝子の独り言を聞いた時。付き合ってって頼んだ日だよ」
私の口は、文字通り開いたままふさがらなくなった。
あの日、好きだって気付いた?
掃除を押し付けられて、一人で教室に残って文句を言っていた、私を見て?
「それまでも、生徒会の仕事とかで何回か見かけたから、理枝子のことは知ってた。学年首席だって評判だし、優等生だと思ってたよ。それがあの日、一人でぶつぶつ言ってる理枝子を見て」
「……びっくりした?」
「びっくりもしたよ。でもそれより、興味を持った」
「……」
「この子は他にどんな顔を持っているんだろうって、知りたくなったんだ」
先輩は相変わらずにこにこ笑顔だ。
楽しいおもちゃを見つけた子供みたいに見える。
その子供を見守る大人みたいにも見える。
この人は、子供の顔と大人の顔、両方を持っている。
「俺は、理枝子が好きだよ。優等生じゃない理枝子も、なのにそれを演じてしまう理枝子も、どちらも好き」
私の顔に、再び体中の熱が集まった。
まさか。まさか。まさか。
そんなふうに言う人がいるなんて、考えてもみなかった。
「だから、自分を嫌いだなんて悲しいこと言わないで」
ね? と言って、私の顔を覗き込んでくる。
私の地位をおびやかした悪魔。
この人さえいなければ、何の心配もなく優等生でい続けられたのに。
……だけど、嬉しかった。
「そんなに言ってほしくないなら、言わないであげます」
心とは反対に、可愛げのない言葉が飛び出してくる。
「良かった」
先輩は笑い声を立てて、再び前を向いた。
その手が突然、私の手をつかむ。
「な、何するんですか!」
「帰る時間までのおあずけだったでしょ?」
「あれはそういう意味じゃ――」
「照れない照れない」
「照れてないっ!」
繋がる腕を振り回しても、握られた手は離れない。
私はうなだれて、引きずられるまま歩き続けた。
先輩の手は体温は低いのに、不思議とあったかい。
この悪魔が持っているいろんな顔を見てみたいと、そう思い始めていた。
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