蛍の光
後編
時計は、午後九時に近付いていた。
私はやっぱり二階の空き部屋を借りて、少し眠ることにした。横になると疲れが全身に行き渡り、ベッドに沈んだ。
目を閉じて、ゆっくりと眠りに落ちる。
父と母が立っていた。やっぱり闇の中だったけど、二人のまわりだけ、柔らかい光に包まれていた。
母がにっこり笑った。
父は憂いを帯びた微笑だった。
父が亡くなったのは私が小学校に入ったばかりのころで、顔もろくに思い出せなかった。でも今、目の前にいる父は、はっきりと顔立ちがある。
「お父さん……?」
私は二人のほうに一歩歩み寄った。すると、二人を包む光がゆっくり遠ざかり、小さくなっていく。
「待って!」
叫んだ途端、光は完全に闇の中に溶けた。
ドアを叩く音がした。
「神崎、神崎」
私は起き上がり、ドアに向かって言った。
「開いてるよ」
「なんだ。鍵、掛けなかったのか」
直哉くんが部屋に入ってきた。父の顔はもう記憶から消えていた。
「十一時だよ。眠れたか?」
「うん。ありがとう」
「窓の外、見てみ」
「え?」
直哉くんは窓を開け、ベランダに通してくれた。星が地上を照らしている。
直哉くんが下を指差す。私は見下ろした。
そこには、もうひとつの星空があった。
深い闇が広がっている。その上を小さな小さな光が動いている。ふわふわと漂い、消えては光り、消えては光り、幻のよう。
「これって……」
目が離せなかった。
「ホタル……」
「見たことないだろ?」
直哉くんは得意そうな顔をした。
「毎年、ここの川に来るんだ」
「夢みたい……」
言葉は無意識にささやかれた。
「キレイ……」
「下りていってみる?」
直哉くんが懐中電灯で川原を照らし、座る場所を探してくれた。私たちは草の上に腰を下ろした。
側に置いたラジオが告げる。
『只今、時刻は午後十一時を回りました……』
「明かり、消すよ」
「うん」
懐中電灯の光が消えると、夢幻の世界が広がった。
目の前に、星のような蛍たちが飛び交っていた。光の線を描きながら、時折ふっと消え、また現れる蛍たち。
小さな……本当に小さな蛍なのに、確かに光っていた。蛍たちに照らされ、水面が光る。草の緑が見える。彼らは確かに光っている。生きている。
ラジオはいつのまにか語るのをやめ、静かな音楽を奏でていた。
私は草の上に身を倒す。背に当たる地面は少し冷たかった。風が優しく顔にあたり、前髪を揺らした。
宙を舞う蛍と空の星たちが、私の視界で輝いている。
直哉くんが空を仰いで言った。
「地球と似たような星ってさ、宇宙にはいくつもあるんだってな」
「うん?」
「じゃ、生まれ変わったとき地球の期限が切れてても、他の星になら住めるわけだ」
「そうね……」
「神崎なら、どの星に生まれたい?」
「私?」
思わぬ質問に、改めて夜空を見渡す。
「そうだなあ……」
星はたくさんあるけど……
「私は……星自身がいいな」
自然と口をついて出てきた、正直な言葉だった。
「人間に生まれ変わるより、星になりたい」
「星に?」
「映画か何かで聞いたことがあるの。星は、蛍なんだって」
そう。父も母もまだ生きていたころ、一緒に映画を見てこんな話をした。
「蛍が高く高く飛んでいって、空の黒いところにつかまっちゃったんだって」
「ふーん……」
しばらく二人とも、何も言わず、飛び交う蛍たちを見つめていた。
『……では、これでお別れです』
ラジオのアナウンスが最後の曲名を告げた。
『蛍の光』
「あ」
私たちは同時に声を上げた。
「そっか……お別れの曲だもんね」
オルゴールの音が『蛍の光』を奏で始めた。
一音一音、確かめるようにふるわすメロディーは、確かに蛍の光に似ている。
「蛍の寿命ってさ、短いんだよな……」
直哉くんがぽつりと言った。
「そうらしいね……」
「じゃあ、さっきの神崎の話からするとさ、星は昇天した蛍か?」
「……そうかもしれない……」
蛍が星空を舞っている。このまま光りながら飛んでいって……星になるのかな。
人間もそうならいいのに。
あんな透き通るような光に身を包まれて……。
ああ、そうか。お父さんとお母さんは、蛍の光に包まれていたんだ。闇の中に消えて、星になったんだ……。
やがて『蛍の光』の旋律は、静寂の中にに消えていった。直哉くんがラジオを消した。
「終わっちゃったね……」
私は呟いた。別れの曲の終わり。世界の終わり。命の終わり。
蛍の光は現れては消え、消えては現れる。
星は動かない。永遠に光り続けるんだろう。
直哉くんが突然言った。
「よし、弾いてやる」
「え?」
「『蛍の光』」
彼はそう言って、側にあったギターを抱えた。
弦が歌声を上げ、『蛍の光』を奏で出す。一音、一音、ゆっくりと……。ギターの音は優しく優しく、夜に降り注いだ。
蛍はあいかわらず、光と闇を交互に飛んでいた。あの美しい光も、死んだら消えてしまう。それでも蛍は光り続け、飛び続ける。
儚い……そして、強い。
蛍は生きているんだ。
世界を照らしながら。
自分の命を証明しながら。
……やがて、直哉くんのギターは最後の節を歌い、曲が終わった。
「ありがとう……直哉くん」
「神崎」
彼は私の顔を見下ろして、こう言った。
「星になんか、なるな」
「えっ?」
「生まれ変わって、また人間になれよ」
直哉くんの声も表情も、驚くほど優しかった。
「いいか……? よく聞け」
彼が諭すように言うと、私は静かに目を閉じた。
「この宇宙のどこかに、地球とよく似た星がある。そこには海があって陸があって、たくさんの動植物が生まれて、やがて人類も誕生する」
私の胸に、一つの青い星が浮かんだ。
「それから何十万、何百万も経って、神崎は別の人間として生まれ変わるんだ」
「……ん……」
「そしたら今度は、自分のやりたいことを見つけて、嫌ってほど長生きする。今みたいに、星と心中するなんてことには、絶対にならない」
私は目を閉じたまま笑った。
「飽きるくらい生きて生きて、年をとって、いつか、死ぬ」
直哉くんは静かに言った。
「いつか死ぬんだ。でも死ぬまで生きる。いつか死ぬから生きている」
ゆっくり、目を開けた。
蛍の光が飛んでいた。
こんなにキレイなのに、いつかは死んでしまう。死んでしまうから、彼らは光っているんだ。死ぬまで光っているんだ。
「ありがとう……」
蛍の光を目に焼き付けて、目を閉じた。
もう一度、直哉くんの『蛍の光』が始まる。
風が髪を撫でる。
背中には大地の感触。
湿っぽい草の匂い。
私は生きている。
心臓が脈打っている。
空気が吸い込まれ、吐き出される。
てのひらが熱い。
私は生きている。
私は死んでいく。
「神崎」
闇の向こうで、直哉くんが呼んだ。
「また会おうな。どこかの星で」
「うん……」
目を閉じたまま、私は彼の手を探した。直哉くんはすぐに私の手を取ってくれた。触れ合った手はやっぱり熱い。
目を閉じた闇の中にも、蛍は輝いていた。光りながら飛んでいた。空高く高く飛んで、やがて星の光と重なった。
私が生まれ変わるのは、どの星かな。
そこにも、蛍はいるだろうか。またこの光が見れるといいな……。今度は、お父さんとお母さんも一緒に。
地球は夜に支配されていた。人類がいなくなるまで、あとどれくらいだろう。
それまで私は生きている。この手のぬくもりと蛍の光を全身で感じながら、生きていく。
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