蛍の光 [ 1 ]
蛍の光

前編
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『地球の品質保証期限がやってきます。七月三十一日をもって、地球は人類の生息できる場所ではなくなります。原因は数多くありますが、決定的なものは確定できません。強いて言うなら、地球にも寿命がある。それだけのことです。
 七月三十一日深夜、全ての人類が地球上から姿を消します。――以上です』

 地球の期限が切れるその日の夕方、母が死んだ。私が買い物から戻ると、母はベッドの上で、亡き父の写真を抱いて眠っていた。何度呼びかけても、体を揺すっても目を覚まさなかった。ベッドの脇に、瓶からこぼれ出した錠剤が散らばっていた。
 そして私はひとりぼっち。
 本当なら母と一緒だったはずのこの駅前に、一人で座っている。膝の上には、母の故郷に向かう二人分の切符と、眠る母の枕元にあった白い封筒。
 カラスが集まってきて、ゴミの山をつついている。通りを挟んで向こう側の歩道では、若い男の子がギターを掻き鳴らして歌っている。改札を通る人、駅員さん。派手でもなく地味でもない町並み。サラリーマン風の人も学生もお年寄りも子供も、それぞれの行き先に向かって私の前を通り過ぎてていく。
 私は一つ息を吐き出して、封筒の端を破いた。薄い紙切れに見慣れた几帳面な字。
『ごめんね。気をつけて』たったの一行。
 ……何が『気をつけて』なの。どうせ、夜にはみんな死んでしまうのに。今死ぬことと、期限が切れるまで生きることに、何の違いがあるの?
 どうして私を置いていっちゃったの、お母さん……
神崎(かんざき)梨香(りか)
 突然名前を呼ばれて、私は顔を上げた。
 肩にギターを背負って、前に立つ同い年くらいの男の子。さっき見たギター少年だ。
「やっぱり。神崎サン」
 その人懐こい笑顔は紛れもない、同じクラスの千原(ちはら)直哉(なおや)くんだった。
「こんにちは……」
 私は愛想笑いをした。
「ここで何やってんの?」
 直哉くんが聞いた。
「……」
 私が答えられずにいると、
「おれと一緒か」
「え?」
「暇だもんな。宿題のない夏休み」
 直哉くんは透き通るように笑った。
 なんてひと!
「宿題がない理由……知らないの?」
「二学期が来ないから、だろ?」
「……じゃあなんで、そんなに楽しそうなの」
「神崎は楽しくなかった? この十日間」
 目を合わすのをやめてうつむいた。ついていけない。なんて神経してるんだろう。
「で? 神崎サンはこれからどうするの?」
「どうって?」
「いるじゃん。最期の時を特別な場所で過ごそうとか、実家に帰ろうとかする人。神崎の家族は?」
 その時。みるみるうちに涙が溢れてきて、止められなかった。涙は頬をつたって、手元の遺書を濡らした。見上げなくても、直哉くんの顔から笑みが引いていくのがわかった。
「……ごめん。悪いこと聞いた?」
 私は黙って首を振る。まだ泣くだけの気力が残っていたのは意外だった。
「ごめんな。おれ消えるわ」
「……」
「じゃあな、神崎。元気で」
 そういって向きを変え、歩き出してしまった。そのとたん、胸に大穴が開いて北風が突き抜けた。
 寂しい寂しい寂しい。
 ただのクラスメイトでも、ついていけない直哉くんでもいいから、もう少ししゃべっていればよかった。
 溢れる涙を拭って再び前を見た、そのとき。
 直哉くんがいた。魔法のように。
「……どうしたの?」
 彼は笑顔のまま答えた。
「ちょっと思うところありましてね。神崎さあ、料理できる?」
「え? うん、まあ……」
「じゃあ、夕飯作ってよ」
「え……」
「嫌?」
「そういうわけじゃ……」
「よっしゃ! 決まり」
 直哉くんは小さくガッツポーズを取ると、私についてきてと言った。立ち上がると、空の高さに目がくらんだ。陽射しの強さにも。
 そっか、夏だったんだ……。

 千原直哉が中学のときにご両親を亡くし、一人暮らしだということは前から知っていた。こういう噂が流れるのは早いし、本人も別に隠そうとしていなかったから。
「キッチン借りていいの?」
「もちろん」
「何を作ればいいの?」
「なんでも。神崎の得意料理で」
 直哉くんはギターをかついで家の奥に消えた。
 広い家だ。ダイニングキッチンとリビング。廊下の反対側にもたくさん部屋があるみたいだった。それに二階も。亡くなった家族と住んでいた家なんだ、きっと。
 私は少しためらってから、冷蔵庫を開けた。やっぱり大した食材はない。卵と、野菜が少しと……さて、何を作ろうかな。
「何もないだろ?」
 直哉くんが戻ってきた。
「普段、何食べてるの?」
「コンビニ、レトルト、インスタント」
 不健康だよといって背を向けた。ニンジンの皮を剥く。背後でテレビの声がした。
『――の繁華街では御覧の通り、期限切れの日を迎えて大パニックになっております』
 ざわつき、悲鳴、ガラスが割れる音。チャンネルが変わっても同じ音がする。世界が壊れていく音。
 耳をふさぐかわりに、包丁をトントン立てて動かす。
「なんだよ、こんなんばっか。まともな番組やってねぇな」
 直哉くんはテレビを消して、キッチンに入ってきた。
「何か手伝おうか?」
「いいよ。座ってて」
 卵を割りながら答える。
「この町は平和だな」
 直哉くんが急に言った。
「……そうだね、とても信じられない」
 今夜、みんな死んでしまうなんて。こうして卵に牛乳を加えている現実とは、あまりにもギャップが大きすぎる。
「神崎はどう思う? 『地球期限切れ宣言』」
 不意を突くように直哉くんが聞いた。
「……わからない。直哉くんは?」
「原因はたくさんあり過ぎっていうの、妙に納得した。いつかこんな日が来るんじゃないかと思ってたよ」
 卵がじゅうじゅう悲鳴をあげて、フライパンに流れ込んだ。

「いただきます!」
 直哉くんはできたてのオムライスを前に手を合わせた。
「……嬉しそう」
「嬉しいよ。こんなまともなモン食えるの、何年ぶりだろ」
「おいしい?」
「すげぇうまい。神崎の分は?」
「私はいいよ。お腹空かないの」
 そう言って、直哉くんが出してくれた麦茶を口に含む。
 直哉くんはスプーンを手に語った。
「腹減ってる時ってさ、なんかシアワセじゃない?」
「なんで?」
「生きてるーって気がする」
「そう……」
 ほんとにこのひとは……。今夜、人類が死に絶えても、このひとだけは世界のどこかでちゃっかり生きていそうだ。
 ……ううん、人類はもう死んでいるのかもしれない。『地球期限切れ宣言』が発表された時から。リアルな“死”を、目の前に突きつけられた瞬間から……。
「……直哉くんは、死ぬのが怖くないの?」
 彼はもちろん食べるのをやめて顔を上げた。私は思わず口元に手を当てた。突然、何を聞いてしまったんだろう。
 でも彼は表情を固くして答えてくれてた。
「怖いよ」
「……うそ」
「死ぬのは怖い。あたりまえ」
「でもすごく、悠々としてるじゃない!」
 叫びが口を突いて溢れてきた。
「どうしてそんなに余裕があるの? 私は絶対、そんなふうにはなれない……」
 惨めで涙が出てくる。このひとを前にすると、自分が限りなく弱くて小さな人間に思えてくる。
「神崎」
 まともに顔が見れない。私は目を押さえて言葉を返した。
「ごめんなさい……」
「謝るなよ」
「……母が自殺したの」
「えっ……」
「置いていかれちゃった……」
 母と二人で暮らしていた日々が次々と思い返されて、涙を抑えられなくなった。
「神崎……」
 直哉くんが心配そうに顔を覗き込む。
「大丈夫……じゃないな」
「……ごめんね……」
「謝るなって。悪い癖だ」
「ありがとう。私……帰るね」
 私が立ち上がろうとすると、直哉くんは聞いた。
「あるのか? 帰るところ」
「……」
 ない。母が自殺した今、おばあちゃんのところになんか行けない。
「ないんだろ? ここにいろよ」
 直哉くんがきっぱり言った。
「でも……」
「だってこのままじゃおれ、自殺未遂の現場を見て見ぬフリするみたいじゃん?」
 無神経さと明るさが服を着てるみたいな人だ。そう思うと、ちょっとだけ笑えた。
「あ、笑った。笑ったな?」
「うん……ここにいていいの?」
「いつまででもどうぞ。あ、今夜までか」
 直哉くんはやっぱり無神経に言ったけど、私は嬉しかった。
 とても、救われた気がする。

 最後の太陽が、ゆっくりと沈んでいった。
 静か。
 ラジオが話している。
「本日、当局では午後十一時半まで、特別スタッフによる生放送をお送り致します。ラジオの前のみなさん、どうか良い夜を……」
 わずかな雑音と共に、明るい音楽が流れた。
「よくやるね……最後の日なのに」
 私はぽつりと呟いた。
「番組作るのが生きがいなんだろ」
 直哉くんがアイスコーヒーのグラスを差し出したので、両手で受け取った。ガラスの表面に付いた滴がてのひらを濡らす。
「死ぬまで好きな仕事やっていられるなら、本望だろ」
 直哉くんが言った。その言い方は珍しく意味ありげで感傷的な響きさえしたので、気になって聞いてみた。
「直哉くんもそういうのあるの?」
「生きがい? おれの?」
 彼は一瞬、上を向いて考え、それから部屋の隅に視線を送った。
「俺は……これかな」
 彼が手にして見せたのは、あの時弾いていたギターだった。木目の表面が光を映した。
「死ぬときはこれ弾いていたいな」
「そんなに好きなの?」
「これで食べていきたいと思ってたよ」
 そうして彼はまた、意味ありげで感傷的な顔をした。その顔が眩しかった。私はそんな顔はできない。私には、直哉くんにとってのギターに匹敵するようなものはない。
「うらやましいな」
「そう?」
「私は生きがいって言えるものなんて……」
「料理、上手じゃん」
「あれは……家事としてやってただけよ」
 私はアイスコーヒーを一口飲んだ。
 直哉くんが言った。
「特技が生きがいになることもあるよ」
「あるかな?」
「あるさ」
「でももう……遅いよ」
「ああ、そっか」
 たとえ私が料理を生きがいにしていたとしても、もう遅い。今夜で私は、永遠に料理なんてできなくなる。直哉くんもギターを弾くことはできなくなる。
「もったいねー。地球の期限、先延ばしにならねぇかな」
「ほんとね……」
「生まれて十六年で地球と心中なんてな」
「生まれ変わったら、もっと上手に生きられるかな……」
「んー、それは、死ぬたびに誰もが思うんじゃないですか?」
「死んだことあるの?」
「さあ」
 直哉くんは会話をやめて、アイスコーヒーを飲んだ。私もそれに習った。沈黙を補うように、続けてグラスを傾けた。“ひんやり”が喉をつたって胸に流れ込んだ。
「でも、絶対に死ぬんだよな」
 突然、直哉くんが沈黙を破ったので、私はコーヒーにむせそうになった。
「……ええ?」
「どうあがいたって、絶対に今夜死ぬんだよな」
 彼の表情は暗くはないけど、真摯だった。
「人ごとじゃない、空想でもない、おれたち死ぬんだな」
「――」
 ……死が、影も形もないくせにものすごくリアルに迫ってきた。
『絶対ニ死ヌンダ』
 黒い闇がパックリ口を開けて、目の前に現れた。
 助けて。助けて!
 飲み込まれてしまう!
 闇の中に誰かいる。
 細い人影。母だ。
 お母さん!
「梨香……早くこっちにおいで」
 いや! 私は行きたくない!
「わがままを言うんじゃない。死は絶対なんだよ」
 母の隣に、顔さえうろ覚えの父も現れた。
 その父が私の腕をつかむ。
「さあ、逃げないで。こっちに来るんだ」
 いや!
 誰か助けて――助けて!
「――神崎?」
「あ……?」
 直哉くんが目の前でてのひらを振っていた。
「大丈夫かよ。起きたままうなされてたぜ」
 腕も肩も震えている。私は白昼夢を見ていたの? 今のは幻?
 ……違う、現実だ。数時間後、間違いなくやってくる現実だ。
「神崎?」
 直哉くんがもう一度呼んだ。
 私は自分の腕を抱きしめ、震えを止めて言った。
「平気……なんでもないの」
「なんでもあるだろ」
「大丈夫よ」
「でも顔色悪い。少し休むか?」
「いいの……」
「二階に空き部屋があるよ。心配すんな、おれ襲ったりしないから」
 直哉くんが真顔で言うので、震えが止まってしまった。
「ありがとう。ほんとに大丈夫よ」
「ほんとに?」
「うん……」
 直哉くんは一息ついて、近付けていた顔を離した。
「死ぬのは怖いね」
 私は言った。
「神崎……?」
「絶対に死ぬって意識すると、本当に怖い」
「……」
 その時直哉くんは何を思ったのか、私の手首をつかんだ。
「脈、あるな」
「え?」
「自分で触ってみ」
 私は言われた通り、もう片方の手を脈の上に当てた。ピクリピクリと動いている。血が流れている。
「息吸って」
 吸った。
「吐いて」
 ――吐いた。
「今度はここ触って」
 直哉くんは自分の額に手を当てた。私もそれに習う。
「熱いな?」
「熱い……」
「神崎は今、生きてるよ」
「え?」
「血管が脈打って、酸素吸って二酸化炭素吐いて、熱もある。生きてるだろ?」
「……うん」
 リアルな死は劇的だったけど、リアルな生はひどく平凡だった。あたりまえだった。
「じゃあ、想像してみて。死んだら、今あるこの脈も呼吸も熱もなくなるんだ。パッと」
「……」
「でも、今はちゃんと動いてる。神崎は生きてるよ」
「生きてる……?」
「そう。いつか死ぬってことが、今は生きているってことだ」
 直哉くんはまっすぐな目で言った。


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