地球儀のある部屋

地球儀のある部屋
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「うまく紛れ込んだな、フランク」
 ウェイランド船長は私の斜め向かいに腰を下ろし、背もたれに大きく身を傾け、テーブルごしに私の姿を舐めまわすように見た。
「この名前ももしかすると偽りか。本当は何と呼ばれているんだ?」
 私は答えない。船長と同じ椅子に掛け、テーブルに目を落とすふりをしながら上目に船長を盗み見ている。
 膝に置いている手首には痣ができてじわじわと痛み始めているが、そのことを船長に知られないように平静を装っていた。半ズボンの下に覗く脚には甲板で擦りむいた傷があるし、短く刈り込んだ金髪もおそらく逆立ってぼさぼさだろう。みんな、この船長室に連れ込まれる前に起きた小競り合いのせいだ。
「教えてくれないのか? 君のような妙齢の女性にふさわしい、可愛い名前があるだろう?」
 私は頑として口を閉ざした。
 ここに連れてこられる数分前、私は甲板に座り込んで床磨きをやっていた。柄の悪い水夫たちにとって、私のような線の細い若者はからかいの対象だ。働きぶりが女のように甲斐甲斐しいとはやし立てられたが、私は無視して仕事を続けた。だが、両手首をつかまれて立たされ、服の下を見てやろうなどと言われると、抵抗しないわけにはいかなかった。私は一人の男の顔を爪で引っかき、もう一人の顔に床磨きの雑巾を投げつけた。
 結果から言うと、これが良くなかった。甲板にいた他の水夫たちが集まってきて――喧嘩を止めようという者も、野次を飛ばしながら見物しようという者もいた――大勢の間で揉まれた私のシャツがはだけ、布を巻いてふくらみを隠していた胸を見られてしまった。
 異郷の海を旅する船乗りたちの中に女がいるはずがない。私はただちに船長の前に引き出され、この船長室に入れられた。
 船長の姿を間近で見るのも、船長室に入るのも初めてだった。テーブルの上には海図や羅針盤が散らばっている。天井や壁に華美な装飾はないが、そのぶん目立つのがテーブル横に置かれた大きな地球儀だ。この船は地球の裏側――いわゆる新世界を目指して大洋を駆け抜けている。
 ウェイランド船長はと言うと、想像していたよりもずっと若く、椅子の上にある背はすらりとしていた。帽子とコートを置き、身軽になってくつろいでいるせいか、話に聞いていたほど恐ろしげな男には見えなかった。あらわになった髪はくすんだ銅色で、首の後ろで小さく結ばれていた。
「あんたに教える名前なんてない」
 もう男を装う必要のなくなった私は、声を偽らずに言った。二十歳も近い私にとって、体つきはもちろん声でも少年を演じるのは至難の業だった。
「そうか。この船に忍び込んだ理由については?」
「もちろん話す義理はない」
「男装は重罪だぞ。俺は国教徒としても船長としても、君を罰しなければならないことになるが」
「あんたのような海の犬が、神を語るな」
 私が叫ぶと、船長は唇の端をつり上げた。
「その言葉でわかった。君はセルデン伯爵の使いだな」
 セルデン伯爵は高潔で誠実な紳士で、国王陛下の忠実な臣下だ。私の眼前にいるような海の犬とは、まるで違う。
「セルデン伯爵と言えば、国王陛下に次ぐこの船の高額出資者だ。そうとわかれば君を歓迎しなければ」
 船長は手近にあった杯に赤黒い液体を注ぎ、テーブルの私の前に置いた。それから自分の杯も満たすと、私に向かってそれを掲げて見せた。
 私は杯と船長の顔を交互に見た。
「毒入りではないよ」
「私をどうする気?」
「どう、とは?」
「セルデン伯爵との関わりに気づいたのなら、私が何のためにここにいるのかもわかるだろう。密偵を生かして野放しにしておくほどウェイランド船長は優しいのか?」
 船長は酒を飲み干すと、横目で私に微笑んだ。
 歌に聴くような海賊の姿とはずいぶん違う、穏やかな眼差しだった。
「国の港を出てからたったの二日。我々はまだ一隻も獲物を捕らえていない。君もセルデン伯爵の元に持ち帰れるような情報を何一つ得ていないだろう」
 私は手首の痣をもう片方の手で握りしめた。
 海を駆けて船や港を襲い、財宝を奪って遊興に明け暮れる海賊たち。ウェイランド船長はそうした自由奔放な海賊ではない。
 国王や貴族、豪商から出資を受けて海に繰り出し、敵国の船を襲ってそこに積まれている富を持ち帰り、その多くを出資者たちに還元する、いわば国家公認の海賊だ。新世界への進出で遅れをとっていた私の故国は、一世紀以上の長きに渡ってこうした存在に頼ってきた。
 故国に大きな利益をもたらす一方で、権力や財力におもねらなければならない彼らは、侮蔑と嘲笑を込めて時にこう呼ばれる。海の犬、と。
 しかもその犬どもは、常に主人に忠実とは限らない。国に持ち帰るべき収穫を帰路の途中で使い込んだり、部下の船乗りたちに勝手に分け与えたり、故国とは離れた陸地に密かに隠したりすることが珍しくない。私はこのことをセルデン伯爵から教わり、彼の命を受けてウェイランド船長の船に乗り込んだ。海の犬の不正を暴くために、身分と性別を偽って。
 手首の痛みにも構わず力を込めてしまったのは、船長の言うことが的を射ていたからだ。伯爵のためになる証拠証言を一つも掴めないまま、私はこうして正体を見破られてしまった。
「なあ、フランク」
 杯に手をつけない私を見つめ、船長は言った。
「本当の名を教えてくれないうちはこう呼ぶが、君はまだうら若く美しい娘さんだろう。セルデン伯爵をじかに知っているということは、生まれ育ちも悪くなさそうだ。明らかに、こんな荒れくれ男どもの船にはふさわしくない。セルデン伯爵は、なぜ君にこんな任務を与えたんだ?」
「私を信頼してくださっているから」
 即答すると、船長は帆にできた裂け目でも見るように顔を歪めた。
「男に化けて、男の中に潜り込んでも、上手くやれると疑わないほどに?」
「そうだ。この務めを果たせるのは私の他にいないとまで言ってくださった」
「実際は、君は三日目にして尻尾を掴まれたわけだが」
「あんたの水夫が卑劣だったからだ」
「海の犬のそのまた犬どもが、君の伯爵様のように高潔な男だと思ったのか?」
 私はもう少しで杯を手に掴み、目の前にいる船長の顔に中身をぶちまけるところだった。自分の不手際を指摘されたからではない。船長の言葉に伯爵を揶揄する響きが含まれていたからだ。
「あんたにセルデン伯爵の何がわかる」
「そういう君は、伯爵の何を知っているんだ?」
 船長は鷹揚な動作で椅子の背もたれに身を任せ、にやにやと厭らしい笑みを浮かべた。
「ああ、わかったぞ。君と伯爵は特別な間柄にあるというわけか。お互いのことを隅々まで余すことなく知っている――」
 目が眩むほどの怒りを感じ、気がつくと私は口走っていた。
「セルデン伯爵は私の兄だ。彼は妹をそんなふうに扱う人ではない」
 船長の顔から笑みが引いた。
「妹?」
「私たちは兄と妹だ」
「伯爵令嬢が、なぜこんな仕事をさせられている」
「私は令嬢ではない。先代のセルデン伯爵が外でつくった落とし子だ」
 あからさまな私の物言いにも、船長は眉一つ動かさなかった。
「なるほど」
「母を亡くして路頭に迷うところだった私を、兄は一族の反対を押し切って迎え入れてくれた。兄のことを侮辱する者だけは許さない」
 初めて兄に会った日のことを、私はよく覚えている。
 私の母は宮廷に仕える女官の一人で、類稀な美貌を先代伯爵に見初められて私を産んだ。私は父が母に与えた郊外の美しい館に住み、王女のように大切に育てられた。十三の時に父を亡くすまでは。
 先代伯爵が亡くなると、伯爵家の人々は母から屋敷を取り上げ、着の身着のまま路上に放り出した。宮廷女官の職を手放し、実家とも縁が切れていた母は、縫い子をして自分と私の食い扶持を稼いだ。が、それまでとはまるで違う困窮した暮らしに耐えかね、一年も経たないうちに病を得て天に召された。
 遺された私は母と同じ縫い子をして生き延びようとしたが、住居を借りていた仕立屋の亭主に目をつけられ、次第にそこにいることが苦痛になっていった。とうとう部屋に忍び入られた晩、私は亭主の顔を爪で引っかき、夜着のまま店の外に飛び出した。そこで、見上げるほど背の高い、上質な外套に身を包んだ男性とぶつかった。
『この娘に何をするつもりだ』
 追いかけてきた仕立屋の亭主を、その人は低い声で制した。痩せ細った私の背中を大きな手で守るように包んでくれていた。
『この娘は先代セルデン伯爵の大切なご息女だ。髪の毛一筋でも傷をつけたらただでは済まない』
 私より十四も年上の兄は、この時すでに二十代の後半だった。馬車に揺られて伯爵邸へ誘われる道すがら、兄は私に時間をかけて説明してくれた。生前の父から私の話を聞いて、ただ一人の妹に会ってみたいと思っていたこと。父の死後も私と母のことを気にかけていたが、先代伯爵夫人の気持ちを思うと口には出せなかったこと。その夫人が亡くなって以来、私の行方をずっと捜してくれていたこと。
『もう心配はいらない。これから君は私の妹として、伯爵邸で幸せに暮らすんだ』
 兄は、初めて会ったはずの私の名前を教えられもせず呼んだ。父と母が呼んでいた愛称とは違う、本当の名前で。
「兄のためなら、どんな危険でも冒してみせる。私はあの晩にそう決めた」
 実際、私は兄のためにどんなこともしてみせた。
 国王陛下の忠臣である兄には、宮廷の内外に目には見えない敵がいた。陛下の愛妾が不義密通している証拠を得るため、私は侍女に成りすましてその愛妾に近づいた。不穏な動きを見せているという地方貴族の館に入り、使用人たちから情報を聞き出した。外交で有利な札を兄に掴ませるため、異国の大使に近づいて誘惑した。
 私にできるのは兄の目や耳になることだけだ。生まれが卑しく、美しくも賢くもなく、何の取り柄もない私にできることと言ったら。
「なるほどね」
 私の話を聞き終えた船長は、すっかり感心した様子でこう言った。
「セルデン伯爵は噂に違わず、抜け目のない男らしい。こんな使い勝手のいい犬を飼い慣らしているのだから」
 あまりのことに私は一瞬、息も吸えなかった。
「な――どういう、意味」
「そのままの意味だよ。君はそんなに美人だし、すばしっこくて頭もいい。庶子とはいえ伯爵の娘として宮廷に出ればそれなりの立場にありつけるだろうに、伯爵はそれを君に気づかせずにまんまと手元に置いているわけだ」
 この海賊はいったい何を言っているのか。私は母と違って美人ではない。兄はいつも綺麗だと褒めてくれるけれど、その言葉からは憐れみが混じった優しさしか感じられない。きっと、容貌に恵まれなかった異母妹を不憫に思い、慰めようとして言ってくれているのだ。
 頭の出来にしたってそうだ。兄の役に立つためにさまざまなことを学んできたが、兄を満足させられたことは一度だってない。優しい兄はそれでも不満を表に出さず、私をねぎらってくれる。良くやった、上出来だ、おまえはろくな教育も受けていないのだから、人並みにできなくても仕方がない――。
「自分でも、薄々おかしいと思ってるんじゃないのか」
 穏やかではない私に、船長は言った。
「『伯爵の妹として幸せに暮らす』――この言葉から考えられる暮らしと言ったら、使用人にかしずかれながら着飾って過ごし、年頃になれば条件のいい男に嫁いでいく人生だろう。ところが君は薄汚い水夫に化けて、海の犬が漕ぐ船に潜り込まされている」
「黙れ」
 私は言葉を船長にぶつけた。短い台詞しか言えなかったのは、声が震えていることに自分で気づきたくなかったからだ。
「君は俺のことを海の犬と呼ぶが、そういう君も伯爵の立派な忠犬だ。ああ失礼、俺たちと違って主人を裏切ったりしないぶん、君のほうがよっぽど――」
「黙れ!」
 私は酒で満たされた杯を掴み、船長の顔に向かって投げつけた。船長は瞬時に身を傾けてかわしたので、杯は船室の壁に当たって床に落ちた。赤黒いしみが広がっていく上で、空になった杯が船の動きに揺られて転がった。
 船長は立ち上がり、テーブルにあった新しい杯を持ってきた。それを酒で満たして私の前に置き、再び腰を下ろした。
「すまない、言い過ぎてしまった」
「あんたに私のことがわかるはずがない」
「ああ。だったら今度は、俺の話をしようか」
 私が船長の顔を見ると、船長はうっすら微笑んでいた。
「君の言うとおり、俺は海の犬だ。海賊でありながら王様やお貴族様から援助を受け、彼らが命じるままに敵の船を襲って収穫を持ち帰る」
「そんなことは知ってる」
「まあ聞いてくれ。君がその呼び名を知っているということは、宮廷側の人間にも俺を海の犬と呼ぶ者が少なくないということだろう。誰にも媚びへつらわずにやってる海賊仲間ならともかく、俺を使っているはずの人間が俺を犬呼ばわりするのはなぜだ?」
「あんたが無様だから」
「違うな。俺を信用できないのだったら、もっとご立派な海軍さんにでも仕事を任せればいい。そうせずに犬に資金をつぎ込むのは、それを上回る収益が見込めるからだ」
「でも、あんたは――」
「収穫を横流ししている? 俺の船に出資している高貴な皆さんは、そんなことはとっくに承知しているよ」
「嘘だ」
「嘘じゃない。承知していないのは君の大事な兄上くらいだ。彼は融通が利かなさすぎるんだ」
 再び兄のことを侮られたが、言い返す気になれなかった。それよりも、他の出資者が海の犬の不正を見逃しているという事実に気をとられていた。
「考えてもみろ。昨日まで好き放題に海を荒らしていたならず者が、一度や二度の出資くらいで王様の忠臣になるはずがないだろう。出資したほうもそれを見越して、それでも損が出ないよう計算して俺を使っているんだ。海の犬と呼ぶのはそのためだ。彼らは俺を飼い慣らすのと同時に、俺に飼い慣らされているのを知っていて、その関係を皮肉っているんだよ」
 私は船長の顔を見つめ、黙り込んだ。
 いったん聞いてみれば、いかにもありそうな話だった。いや、むしろ、今までなぜそれに気づかなかったのか理解できない。国王陛下や廷臣が海賊を信用しきっていないことなんて、少し考えればわかりそうなものなのに。
「海賊の船というのはな、陸上や堅気の船から弾かれた人間の吹き溜まりだ。親のない者、職にあぶれた者――君と同じ貴族のご落胤もいるよ。俺は彼らに寝床と食事を保証してやらなければならない。そのためなら犬呼ばわりされるくらい何でもないし、そう呼ぶ奴らを俺も犬と呼んで使い倒してやる」
 笑みを絶やすことのない船長の目に、熾火のような強い光が灯った。
 でも、この船長に気を許すつもりにはまだなれなかった。
「その話を私に聞かせて、どうするつもりだ」
「君はやっぱり賢いな、フランク」
 面白がるように言われ、私はついそっぽを向いた。
「フランクじゃない」
「本当の名前はまだ教えてくれないんだろう」
 船長は自分の杯を再び酒で満たすと、それを呷った。
「俺にはどうするつもりもない。肝心なのは、君がこれからどうするかだ」
「私が?」
「俺は海の犬だが、こうして主人を飼い慣らしている。君はどうする?」
 私は再び押し黙った。この海賊に同じ犬扱いされたも同然だが、もう腹を立てるつもりにはなれなかった。
 ウェイランド船長は犬と呼ばれながらも主人から自由だ。対して私は、兄に操られていることに薄々気づきながら、決してそれを認められなかった。
 他人の言葉でそれを暴かれたからと言って、これからどうすればいいのかすぐには決められない。
 船長は杯を傾けながら、抜け目なく私の顔を窺っている。
「――ファニー」
 差し当たり思いついたことを、私は口にした。
「うん?」
「ファニーだ。私の本当の名前」
 正式にはフランセス・アディソンという。兄の求めに応じてフラン、フラニー、フランクと名を変えてきたが、父と母はいつもファニーと呼んでいた。
 この船長にそれを名乗ったところでどうなるわけでもない。
 でも、今やるべきことと言ったら、それしか思い浮かばなかった。
「そうか。ファニー」
 船長はそう呼び、今までで一番人好きのする笑顔を見せた。
「もうフランクとは呼ばないぞ」
 私は頷き、船長に倣って杯を持ち上げた。



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