蝋人形の右手 [ 2 ]
蝋人形の右手

後編
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「アル」
 エマが声をかけると、蝋人形は窓辺で振り返った。エマは微笑み、ゆっくり部屋の中を歩いていった。
「ただいま。長い間ひとりにしてごめんなさいね」
 アルベルトはエマを見つめ、首を横に振った。エマはそんな彼を見て目を細めた。
 薄暗い窓の前で、ふたりは向き合う。エマはもう、思いきり顎を持ち上げなくても、アルベルトと目を合わせられるようになっていた。エマの背はちょうど、アルベルトの肩あたりまで伸びていた。
 伸びたのは背丈だけではない。ふわふわと波打っていた金色の髪は、この秋から丁寧に結い上げられている。ドレスの裾も長くなり、もう前のように走り回ることはできそうになかった。
「わたしがいない間、元気にしていた?」
 出先から家に帰ってくると、エマは決まってこうたずねた。母親と服や靴を買いに行ったり、それらを身に着けて父親の友人を訪ねたり、従姉が開いた小さなパーティーにお呼ばれしたり、ここ数年で家を空けることが急に多くなった。
 アルベルトはエマの問いかけに、いつも決まってうなずいた。
「舞踏会は楽しかったけれど、少し疲れたわ。ずっと立ちっぱなしなんですもの」
 苦笑してダンスのステップを真似して見せたエマは、その拍子によろけて倒れそうになった。慌ててバランスを取り直したが、同時にアルベルトが支えようと手を出したのに気がついた。
「だめよ」
 小さく叫んで身をかわす。
 アルベルトはいつかと同じように、少しだけ悲しい顔をして、すぐに右手を引っ込めた。
「……でも、ありがとう」
 エマが微笑を浮かべてそう言うと、アルベルトも悲しそうな顔をやめた。
「じゃあ、着替えてくるわね」
 エマは身をひるがえし、逃げるように蝋人形の側を離れた。
 胸がどきどき鳴っていた。

 小さなころからエマは、アルベルトと手をつなぎたいと思っていた。ほんとうの兄妹のように手をつないで、一緒に庭園を歩きたかった。アルベルトが手を差し出すたびに、「だめよ」と言わなければならないのがとても悲しかった。
 十六歳になった今も、それは同じだった。
――もう、子どもじゃないのに――
 差し出されたアルベルトの手に触れたくて、そのまま肩を寄り添わせたくてたまらなかった。アルベルトの白い手が近付くたびに胸が鳴り、遠のいていく時は締め付けられるように苦しかった。
――アルが触れてくれたら――
 手をつなぎ損ねるたびいつも、エマはそう願うようになっていた。自分から拒んでいるというのに、なんてわがままなのだろう。けれど「だめよ」という声を無視して、アルベルトが手を握ってくれたらと、エマは思わずはいられなかった。そのことを考えるたびに、胸を何かに貫かれるような痛みが走った。
 しかし蝋人形の手が近付くたびに、エマは「だめよ」と言い、アルベルトはそれに従うのだった。

 ある日、長く家を離れていた父親が帰ってきて、エマを自分の部屋に呼んだ。
 話を終えて部屋を出るなり、エマは自分の部屋に引きこもった。誰とも口をきかず、女中のひとりも部屋には入れさせなかった。大好きな本を読むことも、父親がくれたお土産を見ることもせず、窓にもたれて景色をひとり見つめていた。外は雨で、庭園に出ることはできそうになかった。
 ふと、自分に近付いてくる人影に気がついた。
「アル」
 蝋人形はエマの様子がおかしいことを知っているようで、心配そうに覗き込んで首を傾げて見せた。エマは笑いかけもせず、黒い瞳を見つめ返した。
「アル」
 もう一度呼ぶ。アルベルトは動かない。
「わたし、お嫁に行くの」
 アルベルトは動かない。
 静かな部屋に、雨だれの音だけが続いている。
「お父さまが、相手の方にお会いしてきたんですって。それで正式に決まったらしいの」
 見つめたまま待ってみたが、アルベルトは何も応えようとしなかった。首も、口も、瞼も動かなかった。
「わかっている? わたし、この家を出て行くのよ」
 思わず声を高めたエマは、昔のような駄々っ子になっていた。
「もう、一緒にはいられないのよ」
 それでもアルベルトは動かなかった。感情の浮かばない顔を貼り付けたまま、しばらくしてから手だけが動いた。白い手が持ち上げられ、エマのほうに近付いた。
「だめっ」
 いつもより強い調子で拒み、後ろに下がる。
 それから、エマはふいと顔を背けた。
「あっちへ行って」
 会ったばかりのころに戻ったようだった。

 それからしばらくの間、エマはアルベルトとは口をきかないつもりだった。けれど、わざわざ心に決める必要もなかった。婚約者が決まってからというものエマは大忙しで、アルベルトに構えないどころかひとりになる時間もほとんどもらえなかった。
 エマは、アルベルトが寂しがって自分に付きまとってくるものと思っていた。アルベルトが家にやってきたばかりのころ、冷たいだけのエマに彼はそうしていたからだ。しかし今度のアルベルトは、あっけないほど聞き分けが良かった。忙しいエマの邪魔になることは決してせず、ひとりでいるエマにも近付いてくることはほとんどなかった。
 エマは裏切られたような気分だった。
――アルは寂しくないのかしら――
 自分ひとりが胸を痛めて、アルベルトが平気な顔でいるのが許せなかった。もうすぐ永遠に引き離されてしまうのに。ずっと一緒にいようと約束したのに。
 何よりも、お嫁に行くと打ち明けた時のアルベルトの様子。
 もしかしたらアルベルトは、お嫁に行くことがどういうことかわからないのかもしれない。エマがよその男性の恋人になり、花嫁になり、奥さんになるということを知らないのかもしれない。
――知っていたら、アルは嫌がってくれるのかしら――
 輿入れの準備をしているというのに、エマの頭はアルベルトのことでいっぱいだった。何度か顔を合わせた婚約者は背が高くてハンサムで、話も上手で優しそうで、とてもすてきな若者だった。けれどもエマは、彼のことはどうでも良かった。

 アルベルトの顔もろくに見られないまま、輿入れの日だけが近付いてきた。エマと婚約者はお互いの家を行き来し合い、それぞれの両親や親戚ともずいぶん仲良くなった。式を挙げる場所も決まり、花嫁衣裳も嫁入り道具もほとんどぜんぶそろっていた。けれどもエマはそれらを見ても、浮き立つどころか沈み込んでいくばかりだった。
 婚約者が家にやってきたある日、彼はエマにお屋敷を案内してほしいと言った。エマがうなずいてふたりで一通り歩き終えると、今度は庭園を見てみたいと言われた。
 エマは迷った。あそこはアルベルトとエマのふたりだけの場所だったが、ここのところふたりで訪れたことはまったくなかった。庭園に住む妖精たちがどうしているのか、隠しておいた宝箱がどうなったのか、エマはしばらく考えてもみなかった。
 婚約者が不思議そうな顔で促すので、エマはつい微笑んでうなずいてしまった。並んで外へ向かう途中、エマはふと目を奪われた。廊下の奥にアルベルトが立っている。
 何食わぬ顔で婚約者の話に応えながら、視界の隅にいるアルベルトのことを、一瞬も忘れずに歩き続けた。
 これから庭園に行くのだから、アルはついてきたがるに決まっている。そうしたら、もちろん一緒に連れて行ってあげるのだ。エマは心の中で何度も繰り返した。あそこは、わたしとアルのお庭なんだから。
 伏し目がちに廊下を歩いて、気がつくと玄関の前まで来ていた。数秒ためこんで、エマは思い切って振り返ってみた。
 蝋人形はついてきていなかった。
「ああ、くもってきたね」
 何も知らない婚約者が、空を仰いでそう言った。

 ひとりになってから、エマは女中を下がらせて部屋にこもった。薄暗い室内で、窓辺に左手をかざしてじっと見つめていた。
 婚約者と庭園を歩いた時、隣の彼に握られた手だった。びっくりしたけれど、違和感は少しもなかった。人と手をつなぐのは小さいころ以来で、握った指の堅さも、てのひらから伝わるぬくもりも、何もかもが懐かしかった。
――どうして、アルではないのかしら――
 婚約者の彼はとても優しくて嫌いではないけれど、手をつないで庭園を歩きたいのは彼ではなかった。エマは見つめていた左手の指で、目尻にたまったものをぬぐった。
 アルと手をつなぎたい。
 てのひらをすり寄せて、指をしっかりからめ取って、お互いを捕まえたまま並んで庭を歩きたい。晴れの日にはお日さまの下で一緒に光を浴びたい。雪の日には暖炉の側で寄りそって、お互いの冷えた頬を溶かしたい。自分のあたたかさはぜんぶ彼にあげて、代わりに彼のあたたかさはぜんぶ自分がもらいたい。
――どうして、アルは人形なのかしら――
 小さなエマは十六歳になっても小さなままで、自分の想いに付ける名前を知らなかった。

 輿入れの日が迫ってきていた。
 早くから慌ただしくしていた甲斐あって、準備のほうは予定の数日前に片付いた。その日までの短い日々を、最後にゆっくり家で過ごすといいと両親に言われ、エマはうなずいた。
 それで、予定のない日の昼間には、エマは庭園に出かけることにした。季節は春から夏へと移り変わろうとしていた。あたたかい光と風に満ち溢れた日和は、エマがいちばん好きな天気だった。
 アルベルトには声もかけてあげなければ、どこにいるのか確かめることさえしなかった。アルベルトがやってくる前と同じように、庭園はエマだけのひみつの場所だった。
 花たちのじゅうたんも、隠れ家のようなあずまやも、みんな昔のままだった。けれどもエマはもう、ここがおとぎの世界ではなく、庭師の手で丹念に世話されたつくりものであることを知っていた。妖精が住んでいると信じていた池には、あめんぼしか住んでいないことも知っていた。
 ある日、エマは庭園の中を歩き疲れて、あずまやの中に腰かけてうとうととまどろんでいた。小さなあずまやは昔に比べてずいぶん狭く感じたが、エマがうたた寝するくらいの広さは十分にあった。古びた柱に頭を軽く押し付け、ほんとうのおとぎの世界へ遊びに行くところだった。
 瞼の向こうに感じる光が弱まってきたと気付いたころ、不意にすべてが真っ暗になった。雨雲かと驚いて目を覚ますと、目の前に黒いものが立ちふさがっていた。アルベルトだった。
「……どうしたの?」
 今日は晴れの日なのにと言いかけて、あずまやの屋根の向こうが白いことに気がついた。
 アルベルトはエマに手を伸ばすこともせず、隣に座ることもせず、根が生えたように前に立っているだけだった。
 あずまやの中にアルベルトがいる。その向こうには、大好きな庭園の風景がある。それだけでエマは胸がいっぱいになり、しばらく何も言うことができなかった。アルベルトももちろん何も言わないので、ふたりは長い間、じっとお互いを見つめているだけだった。
 そのうちエマは輿入れまでの日々が短いことを思い出して、いてもたってもいられなくなった。
「アル」
 上ずった声で名前を呼ぶ。
「こちらへ来て」
 アルベルトは数秒戸惑ってから、歩み寄りエマの隣に腰を下ろした。ふたりは隣り合って座ったが、昔そうした時とは違い、エマの頭はずっと高いところにあった。ちょうど首を傾げれば、アルベルトの肩にもたれられる位置だった。もちろん、足をぶらぶらさせたりはしなかった。
「アル」
 からだをくるりと向けて座り、エマはアルベルトに切り出した。
「わたし、もうすぐにもお嫁に行くのよ」
 蝋人形はまっすぐに見つめ返してくるが、表情が変わることはない。エマはいら立って声を高めた。
「ほんとうに、もう一緒にはいられなくなるのよ」
 お嫁になんか行きたくない。ずっとアルと一緒にいられたらそれでいい。
 手をつないで歩きたいのは、いつだってひとりだけだった。
「――わからないの?」
 それでも、アルベルトは表情を動かさなかった。ただ黙ってエマを見つめ、しばらくするとゆっくり首を振った。
「あなたはやっぱり人形ね」
 押し殺した声でそう言うと、エマは立ち上がった。座っているアルベルトを一瞬睨み、長い裾をひるがえしてあずまやから飛び出した。

 その晩、エマは高い熱を出した。
 アルベルトと別れたあと、ひとりであてもなく庭園をさまよったせいだった。天気がくずれてきても何も羽織らずにからだを冷やし、雨が降り出してからもすぐにお屋敷に戻らず、髪とドレスを濡らして帰ってきた。
 両親も女中たちももちろん、ひどく心配した。
 エマは部屋のベッドに寝かされて、こんこんと眠り続けた。何も食べる気にはならず、女中が持ってきてくれた水や薬も口にしなかった。暑いのか寒いのかもよくわからず、毛布にくるまって震えながら汗を浮かばせた。額に当てられた濡れた布が、冷たくて気持ちがいいとだけ感じていた。
 小さいころ熱を出して寝込んだ時は、決まってたくさんの夢を見た。大きくなってからもそれは変わらないようで、エマはこの時、いちばん見たかった夢を見ていた。
 アルベルトと手をつなぐ夢だった。
 お互いの手を握りあって、あの庭園を歩いていた。昼下がりのあたたかい晴れの日で、ふたりのまわりをやわららかい日ざしが包んでいた。庭園は昔ふたりで迷い込んだおとぎの世界そのものだった。触れあった指から、てのひらから、お互いのぬくもりが溶けあってひとつになっていた。
『うれしい。ずっとこうして、アルと手をつなぎたかったの』
 エマが笑顔で見上げると、夢の中のアルベルトはにこりと笑った。確かに、笑った。
『アルの他には誰もいらない。アルといるのがいちばん好きよ』

――これからもずっと、一緒にいましょうね……

 触れあって、お互いの存在を確かめて、夢とうつつの境でエマは穏やかに微笑んだ。
 熱のせいで重かった頭も、苦しかった息もみんな忘れてしまった。口もとをゆるめたままうっすらと目を開けると、夢の中で見たのとよく似たやわらかい光を感じた。ただ、いま見ているそれは午後の日ざしではなく朝日だった。
 まだ半分、夢の中をただよいながら、エマは熱の引いたからだを起こした。無意識に捜したのはアルベルトの右手だった。あんなにあたたかかったのに、しっかりと握りあっていたのに、夢であったはずがない。
 右手より先にアルベルトの黒い瞳を見つけて、エマはほっと再び微笑んだ。
「そばにいてくれたの?」
 エマがたずねると、蝋人形はうなずいた。
 やわらかい日ざしの中、手をつないだのは夢ではなかった。アルベルトは一晩中ここにいて、熱に浮かされたエマの手を握っていてくれたのだ。
 絶えることなく浮かべたエマの微笑は、しかし視線を動かした瞬間、凍りついた。
 エマの枕もとに置かれた蝋人形の腕。服の袖口から先に、あるはずの右手がなかった。
「――アル!」
 エマはとっさに叫んだが、アルベルトは何も言わなかった。あの悲しそうな表情も浮かべなかった。
 袖にのぞく白い手首から、溶けだした蝋がぽたぽたと落ちていた。


 輿入れの朝、エマは、両親や親戚や、お屋敷の使用人たちや、たくさんの人たちに見送られて部屋を出た。みんなが心配した熱は一晩で下がり、数日でもとどおりすっかり元気になった。
 お屋敷から馬車を出し、式場で花嫁衣裳に着替え、婚約者と誓いを交わしたあと、そのまま新しい家に向かう予定だった。
 エマは、品のいいよそゆきのドレスに身を包み、両親にはさまれてお屋敷から外へと歩いた。玄関を出ると、母親と父親が交互にエマを抱きしめてくれた。女中たちはみんな泣いていて、年老いた執事や庭師は穏やかに微笑んでいた。エマは泣かないことにして、彼らににっこり微笑み返した。
 お屋敷を見上げて最後のお別れをすると、エマは両親の手に導かれて馬車に乗ろうとした。
 けれどもその時、少し離れたところから、黒い人影が見つめているのに気がついた。
 エマは父親を見上げた。
 父親は少し困ったふうに笑ってから、エマの背に手を当ててうなずいてくれた。エマはみんなの側を離れて人影のほうに近付いた。
 アルベルトはエマが走り寄ってくると、小さく目を見開いてエマを見下ろした。エマはその視線の真下に立ち止まった。
 動かない黒い瞳を見つめてから、ゆっくりと下に目を移した。右の袖口からは白い手は出ていない。溶けて消えてしまったのだ。あの晩、熱を出したエマの手を握っていてくれたから。
「アル」
 再び顔を見上げて、エマは蝋人形の名前を呼んだ。アルベルトの瞳が少し揺れた。
「式が終わったら、右手を直してもらえるよう、お父さまに頼んでおいたから」
 アルベルトはいつものように、小さく首を傾げて見せた。きっと、エマの言った意味はわかっていないのだろう。自分の右手がなくなったことも、どうしてなくなってしまったのかもわかっていない。
 エマはアルベルトを見てうすく微笑み、そしてにわかにそれを打ち消した。
「ごめんね」
 もう一度、右手のない袖口に目を落とす。
 ずっと手をつなぎたかった。てのひらをすり寄せて、指をしっかりからめ取って、お互いのあたたかさを分けあいたかった。
 他の誰よりも、触れたいと思った人。触れてほしいと思った人。
 ――エマの手はあたたかいから、触ると溶けてしまうんだよ……。
「ごめんね……」
 エマが繰り返すと、アルベルトは戸惑いながらも、ゆっくり首を横に振ってくれた。
――もう二度と、手をつなぎたいなんて思わない――
 エマは自分の両手を後ろにやり、背中で合わせてしっかりと握った。そしてかかとを上げると、蝋人形の顔の前で目を閉じる。
 くちびるとくちびるが、一瞬だけ触れあった。
 すぐに離れると、エマは目を開き、アルベルトをまっすぐ見つめた。
「さよなら」
 アルベルトは首を傾げもせず、ただ黙ってエマを見つめ返すだけだった。
 エマはきびすを返すと、立ち尽くす蝋人形をそこに残し、輿入れの馬車へと戻っていった。



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