蝋人形の右手 [ 1 ]
蝋人形の右手

前編
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 人形の名前は、アルベルトと言った。
 背が高くてちっとも笑わないその青年は、八歳の誕生日にエマの家にやってきた。お兄さんがほしいと言ったエマに、父親が買ってくれたプレゼントだった。
「彼は、動くんだよ」
 床に立ったアルベルトの隣で、父親は言った。
 エマは青年の人形をじいっと見つめた。背伸びしても、思いきり見上げなければ彼の顔は覗き込めない。
 人形はエマの視線に気がついたのか、微かに首を下に向けた。突然目が合ったので、エマはびっくりした。黒い瞳だ。深すぎて、その中には何も映っていないように見える。
――ちっとも笑わないわ――
 エマは心の中で、不満げに呟いた。
――わたしは、ほんとうのお兄さんがほしかったのに――
 娘のご機嫌ななめに気付かない父親は、はりきって人形の説明を続けている。
「アルベルトは人間と同じように、歩くことも、走ることもできる。しゃべることはできないけどね。でもだからって、彼が何も感じていないなんて思っちゃいけない。彼には、心だってあるんだ。人間と同じようにね」
 人形の黒い瞳が、再びエマを見つめた。にこりともしなければ、口を開いてあいさつもしない。
――ふん、つまんないの――
 これなら、普通の大きさをした女の子の人形のほうが、よっぽど良かったのに。
 その時、人形のアルベルトが突然、右手を持ち上げた。ちょうど小さなエマの目の前だったので、エマはびっくりして叫んでしまった。
「きゃっ」
「握手がしたいんだよ」
 父親はエマを見て優しく言った。
「でも残念だ。アルベルトと握手はできない。いいかい、エマ。アルベルトとは仲良くするといい。でも、彼に触るのだけはだめだ。アルベルトは、蝋でできているからだ。エマの手はあたたかいから、触ると溶けてしまうんだよ」
 人形はエマが手を出さないのを見て、自分の右手も引っ込めた。その手も、黒い瞳を載せた顔も、確かに溶けそうなくらいなめらかで、真っ白だった。
「気をつけるんだよ。わかったね?」
 父親があまり楽しそうに言い聞かせるので、エマは仕方なくうなずいてあげた。ほんとうは人形なんか放っておいて、早く外に遊びに行きたかった。
 父親は満足そうな笑顔を見せて、エマとアルベルトを置いて部屋から出て行った。
 エマは残された蝋人形を、改めて見上げた。年上で、背が高くて、手が大きい。これだけならエマがほしかったお兄さんにぴったりだ。
 でも、もっとかんじんなところが違うのだ。お兄さんはもっと優しくて朗らかで、楽しいおしゃべりをしてくれて、手をつないで遊びに連れて行ってくれなければならないのだ。
 それに比べて、この蝋人形ときたら。
――こんなの、お兄さんじゃないわ――
 エマは口をとがらせたが、人形は動きもせずにエマを見つめ返すだけだ。
 うんざりしたエマは、仕方なく口を開いた。
「わたしは、エマよ」
 アルベルトは小さく首を傾げたが、口を開くことはなかった。
「今日からあなたの妹よ」
 アルベルトはそれきり、動かなかった。
「でも、あなたとは手もつなげないし」
 動かなかった。
「抱きしめてもらうことも、抱きしめてあげることもできないわね」
 それきり、エマは何も言わなかった。アルベルトももちろん何も言わなかった。その代わり何を思ったのか、エマの前に右手を差し出してきた。長い指が頬の近くまで伸びてきたので、エマは思わず後ずさりをした。
「だめだったら。お父さまに叱られてしまうわ」
 きつく言うと、アルベルトは少し悲しそうな顔をして、右手を引っ込めた。エマはますますうんざりした。
「それじゃあね」
 それだけ言い放つと、きびすを返して部屋から出て行く。後ろで人形が動く気配がしたけれど、気にしないで扉を閉めて歩き出した。

 エマは外で遊ぶのが好きだった。ふわふわの金色の髪の上に、お気に入りの帽子を載せて、青空の下へ飛び出していく。エマの住むお屋敷は広い庭園を持っていて、そのほとんどが小さなエマの遊び場所だった。
「付いて来なくていいわ」
 玄関を出たところで、エマは振り返った。
 そこには、長い背筋をすっと伸ばしたアルベルトが立っていた。蝋でできた肌は、日光の近くで見ると余計に白く見える。
「なんど言ったらわかるのよ。あなたは、お日さまの下には出られないでしょう」
 アルベルトは悲しそうに首を傾げたが、エマは見なかったふりをした。
 外へ遊びに行こうとするたびに、アルベルトはこうして後を追いかけてくる。もちろん声はかけてこないが、しっかりした広い歩幅で近付いてくるので、すぐにエマと並んでしまう。
 けれど、そのまま一緒に外に出たことは一度もない。
 蝋でできているアルベルトは、エマの手だけではなく、あたたかいものすべてに触れられない。今日のようなお天気の日に外に出れば、日の光に当たってすぐに溶けてしまうのだ。
――ふん、つまんないの――
 エマはつんと鼻先を背けて、今日もひとりで庭園へと飛び出した。外で一緒に遊んでくれないなんて、そんなお兄さんはいらない。たとえ外に出ることだけはできたとしても、この人形と遊んだってちっとも面白そうじゃない。
 庭園には背の高い木々がそこここに植えられていて、ちょっとした林のようだった。お屋敷の玄関からまっすぐに伸ばされた小路を走り抜け、幾重にも連なる花と煉瓦のアーチをくぐると、そこはエマだけが知っているおとぎの世界だった。
 青、赤、白、黄色、橙、紫。色ごとに分かれて広がる花たちのじゅうたん。妖精が住んでいるに違いない、空の鏡のような池。そのほとりにたたずむ古いあずまや。若草色の小路を抜けると、植え込みの木々でつくられた風変わりな迷路。
 エマはそこを駆け回り、花や鳥に話しかけ、時にはうたた寝もした。ひとりで遊ぶ方法はいくらでもあった。小さなエマにとって、手の届くものはみんなすてきな遊び相手だった。
 日が高くなってお屋敷に戻ってくると、玄関には朝とそっくりな光景があった。アルベルトが背筋を伸ばしたまま立っていた。
「まだいたの?」
 帽子を取りながら、エマは横目で彼を見た。
「昼ごはんのあとは先生がいらっしゃるの。うちの中でもあなたとは遊べないわ」
 冷たく言って、お屋敷の中に入っていく。アルベルトはやはり、何も言わずに後ろをついてきた。

 エマがどこかへ行こうとすると必ずついてきて、エマが何かをしようとすると必ず一緒にしようとする。それをエマに止められると、悲しそうに黙ったままその場で待っている。これがアルベルトのすることのすべてだった。
 はじめはうっとうしかったエマも、だんだん何も感じなくなっていた。何しろ彼は何も話さないし、エマが止めれば近付いてこないのだ。応接間に飾ってある鎧兜と同じだと思えば良かった。
 誕生日からふた月ほど経ったある朝、外は夢のように天気のいい日だったが、エマは庭園には行かなかった。自分の部屋で、ベッドに腰かけて泣いていた。非常にめずらしいことに、父親に叱られたあとだった。
 何時間も延々と説き伏せられ、二言三言は大きな声で怒鳴られた。父親の言うことはみんな正しくて、何も言い返せなかった。エマが悪かったのだとわかっていた。けれど、自分の味方がこの世にひとりもいないような気持ちになって、心細くて怖かった。部屋に閉じこもって、誰にも会わずに泣いていた。
 うつむいてしゃくり上げていると、誰かが近付いてくる気配がした。使用人たちは気を使って部屋には入らずにいたので、考えられるのはひとりしかいない。エマのいるところならどこにでもついてくるアルベルトだった。
 アルベルトは、エマと肩を並べてベッドの端に腰かけた。エマは気付かないふりをして顔を上げなかった。涙を拭いて彼を追い払うのが面倒くさかった。
 アルベルトはいつもと同じく、何も話さなかった。ただ黙ってエマの隣に座っているだけ。エマも黙って泣き続けているだけだった。
――どうして何も言わないのよ――
 目尻を拭きながら、エマは横目でアルベルトを睨んだ。話せないのは仕方がないけれど、何か別の方法でなぐさめようとしてくれたっていいのに。エマのほしかったお兄さんなら、きっとそうしてくれるだろう。アルベルトは何のために部屋に入ってきたのかすらわからない。
 そんなことを考えながら、エマはさらに泣き続けた。アルベルトはさらに押し黙るだけだった。
 そのうち涙が枯れて、小さな嗚咽はしゃっくりに変わり、それも少しずつ消えていった。エマは目をこすり、肩のふるえが止まるのを待っていた。アルベルトはやはりしゃべらず動かなかった。ただエマの隣に、いつまでも静かに座っていた。
 しばらく沈黙が続いたあと、涙でかすれたエマの目の前に、突然細長いものが割り込んだ。思わずのけぞってから見つめると、蝋人形の白い指だった。
「何をするのよ」
 この時はじめて、エマは顔を上げてアルベルトを見た。アルベルトは右手を差し出したまま、黒い目を見開いて固まっていた。びっくりした彼を見てエマもびっくりして、それ以上せめることはできなかった。すると、アルベルトが再び指を近付けてきた。
 エマの顔には流れたばかりの涙が残っている。ただでさえあたたかいのに、その上濡れているところに触れば、蝋人形の指は簡単に溶けてしまうだろう。
「だめっ」
 エマは思わず、アルベルトの腕を払い落とした。アルベルトは叩かれた腕を下ろしたまま、さっきと同じように固まった。
 その顔を見た瞬間、エマの目から再び涙が溢れ出した。
 どうしてなのかわからない。ただ、アルベルトをびっくりさせてしまったことを後悔した。
「ごめんなさい」
 はらはらと涙を流しながら、エマは言った。今度は、うつむいたりはしなかった。
「あなたが溶けてしまうと思ったの」
 アルベルトは固まったまま、エマの目をじっと見つめていた。
「触られるのが嫌だったわけじゃないわ」
 そう言ってから、エマは初めて気がついた。アルベルトは、涙を拭こうとしてくれたのだ。彼は何も言わないけれど、ちゃんとエマをなぐさめようとしてくれたのだ。そう思うと、また涙が止まらなくなってしまった。
「ごめんね」
 話せないアルベルトに代わるように、エマは何度も声に出してしゃくり上げた。自分が叱られて悲しかったことは、もうすっかり忘れていた。アルベルトはやはり、何も言わずにエマの隣に座っているだけだった。
 やがて日が高くなり、エマの部屋にもお日さまの光が差し込んできた。
 アルベルトは、エマよりも窓に近いほうに座っていた。だからエマはなかなか気付かなかった。窓から指す光が蝋人形を包み、そのからだをあたためていることに。
 気がついたのは、部屋が明るくなったのに、エマはまったくあたたかく感じなかったからだった。アルベルトの肩にさえぎられて、光はエマのところまで届かなかったのだ。
 ふと見ると、蝋人形の手は日ざしを弾いて白く光っていた。
「たいへん!」
 エマがとっさにつかんだのは、アルベルトが着ている服の袖だった。小さなエマに引っ張られて、蝋人形のからだが傾いてくる。下敷きになりそうになったエマは、慌てて身をそらし自分もベッドに倒れこんだ。
 上手に着地できず、ふたりそろって床に転がり落ちてしまう。
「だいじょうぶ!?」
 起き上がってすぐに、エマはアルベルトを覗き込んだ。アルベルトもゆっくりと起き上がった。その顔は相変わらず愛想なしで、自分がどれだけ危なかったのかもわかっていない。エマは何を慌てているのかと、不思議そうに首を傾げる。
 拍子抜けしたエマは、アルベルトと並んで床に座り込んだ。やがて胸の底から、くすくすと笑い声が上がってくる。
 泣いていたかと思えば突然怒り、また泣き、突然慌て、今度は笑い出した妹を、アルベルトはただ目を丸くして見つめていた。エマはその様子がおかしくて、ますます笑いが止まらなくなった。
 もう涙は出てこなかった。

 次の日の朝、玄関を出て庭園に向かう時、エマはひとりではなかった。アルベルトが戸惑うようにゆっくりと軒の下から空の下へと歩み出てきた。
「だいじょうぶ。今日はお日さまが出ていないから」
 言ってしまってからエマは、アルベルトが日ざしを怖がっているわけではないと思い出した。彼は自分が溶けてしまうことなど気にしていないのだ。今はただ、初めて見る外の世界に戸惑っているだけ。
 わたしが気にかけてあげなくっちゃ。
 小さなエマはなぜか楽しい気持ちになって、にっこり笑った。アルベルトはわたしのお兄さんなのに、これではまるでわたしのほうがお姉さんみたい。
「ついて来て。わたしのひみつの場所に、とくべつに入れてあげる」
 エマは後ろ向きに歩きながら、アルベルトに向かって手招きした。背の高い蝋人形はゆっくりとした足取りでエマのところまで歩いてきた。
 大好きな庭園に、自分以外の人を連れてくるのは初めてだった。
 いつもはひとりでくぐるアーチを、アルベルトと並んでくぐった。小さなエマは頭の上なんか気にしないで小走りに抜けてしまうけど、アルベルトは少し首を傾けながらゆっくり歩いて通り過ぎた。エマは彼を気にかけて、アーチをくぐり抜けるのを気長に見守っていてあげた。
 無事にこちらがわに来ると、アルベルトは早足でエマのところまで追いついた。エマはまたにっこりして、アルベルトを先へ促した。
 目に入った花の名前を片端から教えながら、エマは庭園の小路を進んだ。アルベルトはその一つ一つをいちいち目で確かめながら、エマの後ろをついてきた。それからふたりで池のまわりを歩き、花の中に立っている石のドワーフたちにあいさつして、小さな林の中で小鳥たちの歌を聞いた。
 ひとしきり庭園を案内すると、エマはあずまやに入ってその中に腰かけた。アルベルトもその隣に習った。
「気に入った?」
 アルベルトは黒い目でエマを見つめ返し、ゆっくりうなずいた。
「これからは、くもりの日には毎日ここに連れてきてあげる」
 エマはあずまやの椅子で、床につかない足をぶらぶらさせていた。アルベルトはもちろん両足をしっかりつけておとなしく座っている。
「ほんとうは晴れの日がいちばん好きなの」
 エマはあずまやの外に目をやって、足をますます強くゆすった。
「でもこれからは、毎日くもりの日が続くといいわね」

 エマだけの庭園は、アルベルトとエマのふたりの場所になった。お日さまが雲の中に隠れるごとに、ふたりは外へ出た。エマはアルベルトに花や鳥の名前を教えてあげるのが好きだった。あずまやで本を読み、時には並んでうたた寝をした。
 エマが見つけた鳥の雛たちも、アルベルトとふたりで見守るようになった。木の枝の間に隠していた小さな宝箱も、アルベルトにはとくべつに見せてあげた。中には庭園の中で見つけた不思議な形の石や、自分でつくったバラの花びらのポプリや、従姉がくれた古いペンダントヘッドが入っていた。
 雨の日にはふたりで部屋の中で遊んだ。家庭教師が来る午後を除けば、エマは自分の時間を好きなように使うことができた。ふたりはたいてい本を読むか、カードやボードを使ったゲームをして遊んだ。アルベルトはエマとあまり変わらないくらいの腕前だった。
 もちろん、晴れの日に一緒に出かけることはできなかった。それだけではなく、アルベルトは熱い紅茶は飲めないし、暖炉には近付くこともできなかった。それでもエマは、そんなことはちっとも気にしなかった。
 ただひとつだけ悲しいことは、アルベルトと手をつなげないことだった。並んで庭園を歩いていると、アルベルトの手がエマの手を握りにくることがあった。そのたびエマは自分の手を後ろに引っ込めて、「だめよ、アル」と言わなければならなかった。
 やがて季節がめぐり、アルベルトがエマのお兄さんになってから一年が過ぎた。九歳の誕生日にエマが欲しがったものは、母親や従姉が持っているような日傘だった。
「お人形はいらないの?」
 不思議そうにたずねる母親に、エマはご機嫌よく笑ってこう答えた。
「これがあれば、晴れの日にもアルとお庭に行けるもの」
 十歳の誕生日には、さし絵のたくさん入った青い表紙の本を買ってもらった。お人形を欲しがらなくなったエマのことを、父親も母親もお姉さんになったとからかった。エマは微笑み、アルベルトに本を見せに走った。
 十一歳の時はお気に入りの本を入れておくために、木でできた小さな本棚を買ってもらった。
 十二歳になると、誕生日のプレゼントは両親が選ぶようになった。さいしょにもらったものは、エマがずっと憧れていたかかとの高い靴だった。赤茶色の皮製で花の飾りが左右ひとつずつ付いており、エマの小さな足によく似合った。それさえもエマは、真っ先にアルベルトに見せてうれしそうに微笑んだ。
「エマはほんとうに、アルベルトのことが好きなんだね」
 そんな光景を見るたびに、からかうように父親が言った。
「もし、もっと他にきょうだいや友達がほしければ、いつでも言いなさい。エマと同じくらいの女の子の人形だっているんだよ」
「ううん。わたし、アルの他には誰もいらない」
 エマはすぐに答えながら、隣にいるアルベルトに笑いかけた。
「アルといるのがいちばん好きよ。これからもずっと一緒にいましょうね」
 それから何度も季節がめぐり、エマは何度も誕生日を迎えた。アルベルトよりずっと小さかった背丈は、日に日に大きくなっていった。金色の巻き毛も豊かに波打ち、見違えるようにきれいになった。
 けれどアルベルトはずっと変わらず、初めて会ったころのままだった。新しい蝋人形がやってくることもなく、エマとアルベルトはいつもふたりで一緒だった。
 そうして長い月日を数えて、エマは十六歳になった。


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