バタフライ
ちょうちょの形の髪飾りは、姉が誕生日にプレゼントしてくれた。クリップの形になっていて、羽の部分を指でつまんで閉じたり開いたりする。ラメがかったピンク色で、ふたつあって対になっていた。
とても可愛くてお気に入りだし、姉がくれた大事なものだ。
それがあいつの手に渡ってしまったのには、こういういきさつがある。
「れでぃー!」
騒がしい教室に更にうるさい声が響く。机の上に肘をついた、二人の男子生徒の側で。
これは昼休みの暇つぶしのひとつ、腕相撲トーナメント。
勇ましく参加している女の子もいたけど、腕力ゼロに近い私はギャラリーの一人だった。今日は特に机の真横で、熱い声援を送っていた。だってあいつが闘っていたから。
「おー!」
という歓声とともに、勝敗が決まった。相手の腕を机に打ちつけたのは、あいつだった。
「三連勝!」
なんて言ってガッツポーズまでしている姿は馬鹿だし子供だと思う。それでも憎めないと思ってしまう自分が不思議。
気がつけば私は、その場にいた誰よりも盛大に拍手を送っていた。
それに目ざとく反応したのがあいつ。
「惚れ直した?」
本当に馬鹿な子供。
だけど私も負けていない。
「おめでとー」
顔で笑って心でため息ついていると、あいつはこんなことを言った。
「賞品は?」
拍手を止めて、数秒間うろたえる。
さりげなく周りを見回してみたけど。あいつの言葉は間違いなく、私に向けられたものだった。
どうしよう。
どうしよう。
腕相撲に勝ったぐらいで賞品をねだるあいつも馬鹿だけど。
それに応えたいと本気で思う私はもっと馬鹿。
だって、嬉しくて仕方なかった。
あいつが私に笑顔を向けてくれて。
あいつが私に軽口で話してくれて。
だから何としてでも応えたかった。明るく楽しく可愛らしく。気のきいたリアクションをすれば、あいつの中にほんの少しでも私が残るかもしれない。
いちばん最初に浮かんだアイデアに、私はとっさにしがみついた。
「じゃあ、これあげるー」
弾んだ声とともに私が差し出したのは――自分が付けていた、ちょうちょの形の髪飾り。
ギャラリーから笑いが起こった。
けどそんなことはどうでもいい。私にとって重大なのは、あいつが笑ってくれるかくれないか。
可愛いちょうちょをあいつは見つめる。そしてその顔は、すぐにくしゃっとなった。
笑いながら手にとって――その時一瞬、あいつの指がてのひらに触れた――あいつはそれを自分の髪に持っていく。
「似合う?」
なんて言うあいつはやっぱり馬鹿だけど。
私はその時ちょうちょになって、世界中のお花畑を飛び回っている気分だった。
髪飾りがないことに気が付いたのは、家に帰ってからだ。
すぐに昼休みのその出来事を思い出した。
ちょうちょはあいつの手に渡ったまま、私の元に帰り損ねたのだ。それ以外に考えられない。
確かに、あげるとは言った。でもそれが本気だなんて、あの場にいた誰も思っていなかっただろう。これは完全な事故だ。
大好きなちょうちょが、私の元から飛んでいってしまった。
しくりと胸が痛んだ。
あいつになら譲ってもいいなんて、心の広いことは思えなかった。だってこれは事故だから。私は冗談で差し出しただけで、あいつも冗談で受け取っただけ。
そんな不意の隙間でちょうちょを失うなんて、悲しすぎる。
私は部屋の窓を開けて、星空を仰いでため息をついた。
もしも、もしも。これが事故じゃなかったら。あいつが髪飾りを故意に持っていったのなら。そしてそれを大事にしていてくれるなら。
だったら私は、喜んで手放すことができるのに。
ここにいないちょうちょに聞いてみる。
あなたは今、どうしている?
あいつはあなたを大事にしてくれる?
答えが返ってくるはずもなかった。
いっそのこと私がちょうちょになって、あいつの心に聞けたらいいのに。
その夜私は不思議な夢を見る。
気が付いたら夜空を飛んでいた。
天上の星と地上の明かり。宝石箱みたいな夜が私を包み込んでいる。
ぱたぱた羽を動かしながら、その中を舞っていた。
私はちょうちょになったのだ。
そうとわかれば道は決まり。夜空に負けない夜の街で、私はひとつの星に目を止めた。あそこにあいつがいる。
ちょうちょの羽は小さいのに、少し羽ばたいただけでたくさん進む。あっという間にたどり着いた。
私は窓を通り抜け、あいつの部屋に飛び込んだ。
あいつは机に向かっていた。ノートを広げるでも本を読むでもなく、ただぼんやりと座っていた。
私はふわりと机の上に着地する。
気付くかな。気付くかな。
あいつの目は宙を眺めたまま。
下を向いてよ。気付いてよ。会いに来たんだよ。こうしていつでも見つめているよ。
早く私に気が付いて。
さんざん私を焦らしておいて、あいつはやっと私を見つけた。羽をつまんで手に載せて、何の気なしにじっと見つめる。ちょうちょの心臓がどきどきする。
あいつの目がふっと笑った。それから前に手をかざす。
私はそこから飛び立って、あいつの部屋の空を舞った。
ひらひらひら。
風をつくってはためく羽は、まるで私の心みたい。いつでもあいつに揺らされている。
楽しそうに見守りながら、あいつは部屋の電気を消した。そのままベッドに入り込む。
暗くなった部屋の中で、私はしばらく舞っていた。あいつの寝顔は猫みたい。
おやすみなさい。飛ばせてくれてありがとう。
明日もちょうちょを可愛がってね。忘れないで側に置いてね。
そしていつか。時間がかかってもいいから。
ほんとの私に気付いてね。
おやすみなさい。いい夢を。
私はしばらく舞った後、窓から外へ飛び出した。
明日は夢の中じゃなく、ほんとのあいつに聞いてみたい。
私のちょうちょはどうしてる? って。
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