深い海の底

深い海の底
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 わたしは海の底にいる。
 上のほうからかすかな光が差し込むだけの、深くて仄暗い青の世界。
 数えきれないような魚の群れが、ひとつの生き物のようにわたしの隣を通り過ぎていく。その下でうごめく濁った色の塊は、皺だらけの顔をした海亀だ。おののいて向きを変えたわたしの視界を、幽霊のような巨大なエイが遮りに来る。
 ふと、底のほうに影ができた。見上げると、はるか上のほうに、両手を広げて足りないほどの楕円が浮かんでいる。
 船だろうか?
 ううん、船であるはずはない。
 ここは深い海の底。人の気配が入り込むことなんて、あるわけがないのだから。

璃乃(りの)、いつまでそこにいるの?」
 フロアの端から端まである大きな水槽。わたしはその前まで歩いていって、そこに立っている妹の後ろ姿に声をかけた。
 今年の春に幼稚園の年長になった妹の璃乃は、身長が一メートルをやっと越えたばかり。同い年の子たちと比べても小さいほうみたいだ。その小さい璃乃が巨大な水槽の前に立って、分厚いガラス越しに水の中を覗き込んでいる。
「ガラスに触ったらだめだよ」
 わたしは璃乃の横顔に言った。
 夏休みに入って間もない七月下旬、水族館はたくさんの人で混みあっていた。その大部分がわたしや璃乃と同じ、親に連れられてきた子どもたちだ。水槽の中を指さして歓声を上げる子、走りまわって親に叱られている子、手にした図鑑を広げて熱心に観察している子、いろんな子どもがいるけれど、璃乃のようにひとつの場所に突っ立って、無言で水の中を見つめている子はいない。
 わたしに言われて璃乃はガラスから手を離したけど、視線は水の中から動かさなかった。群れになって泳ぐ小さな魚。底のほうからのっそりと動き出す海亀。影をつくりながら身を翻すエイ。まるでその中に交わりたいとでも思っているように、璃乃は黙ってガラスの向こうに見入っている。
 ――やっぱり、この子、ちょっと変なのかな。
 彩夏(あやか)の妹って変わってるよね。全然しゃべらないし、笑わないし。
 家に遊びに来た友達にそう言われた時、わたしはぎくりとした。自分でも前から同じことを感じていて、それを友達に知られるのが怖かったのだ。
 そうかな? ハハオヤに似ておしとやかなんだよ、わたしと違ってさ。
 なんとか笑顔をつくってそう言うと、集まっていた三人の友達も笑ってくれた。
 わたしは来年の春で小学校を卒業するけど、今のクラスメイトはほとんど同じ中学に進む。友達に変だと思われることほど怖いものはない。
「璃乃、もういいでしょ。パパとママは先に行っちゃったよ」
 わたしは言い、璃乃と水槽の間を遮るように手を差し出した。
 璃乃は数秒わたしの手を見つめて、それを握った。
「うん、お姉ちゃん」
 その声を聞いて、わたしは自分の顔がほころぶのを感じた。
 少し変わっているところはあるけど、素直で可愛い妹だ。年も六つ離れているし、家族で出かけた時はいつもわたしと行動する。
 わたしは璃乃の手を引いて大水槽に背中を向けた。歩き出した瞬間、急に視界が暗くなった気がして足を止める。
 振り向くと、水槽の上のほうを、大きな楕円形のものが横切っていくところだった。船の形に似ているけど船じゃない。この水族館のマスコットにもなっている鮫だ。ゆっくりと、それこそ船のように、水槽に影を落としながら動いている。
 ぞくりとした。水槽のまわりにいる見物客が急に消えたような、この世にわたしとあの鮫だけが取り残されたような、深い海の底に閉じこめられたような気分になったのだ。
 これだから水族館は嫌いだ。

 屋外にあるフードコートは人で溢れていた。わたしは璃乃の手をしっかりと握り、苦労してパパとママを見つけた。パラソルがある丸テーブルを囲んでパパが座り、ママが買ってきたらしい冷たい飲み物を差し出すところだった。もうすぐ小学校に上がる子どもがいるのに、まるで恋人同士みたいだ。
 わたしはパパとは血がつながっているけど、ママとはつながっていない。本当のママはわたしが四歳の時にパパと離婚した。父方のおじいちゃん、おばあちゃんの希望でわたしはパパに引き取られ、一年後に今のママができて、その一年後に妹の璃乃ができた。
「暑かったから、先に買ってきちゃった。ごめんね」
 ママはわたしと璃乃に気づいて笑い、椅子に座った。
「十一時からそこでイルカのショーだって。それまで休憩しようか。彩夏と璃乃も好きなもの買っておいで」
 そう言って財布を開け、わたしに千円札を差し出す。五歳の時から一緒に暮らしているから、もう本当の親子みたいなものだ。わたしはママをずっとママと呼んでいるし、ママもわたしを彩夏と呼び捨てにしている。
 わたしは冷たいレモンティーを、璃乃はアップルジュースを持ってテーブルに戻り、パパとママと一緒に座った。
「さっきは遅かったね。あの大きな水槽のところにずっといたの?」
 ママがわたしと璃乃に訊いた。
 パパは無言でアイスコーヒーを飲んでいる。家族でいる時はあまりしゃべらないのだ。
「そう。璃乃が水槽の前からずっと動かなくて」
「あそこが気に入ったの? 鮫さん、大きかったね」
 ママが笑顔で聞いているのに、璃乃はうなずいただけで笑わないししゃべらない。赤ちゃんみたいな真顔でジュースを飲んでいる。
 しばらくしてストローを口から離すと、璃乃は短く言った。
「水の中に人がいた」
「水族館の人? 水槽の掃除でもしてたのかな?」
 ママがわたしに目を移す。わたしは答えられなかった。あの水槽の中に人間なんていただろうか。
 璃乃はわたしの顔もママの顔も見ず、真顔で首を振った。
「お姉ちゃんだった」
「え?」
 ママが戸惑った顔で、璃乃とわたしを交互に見る。
 見られたってわたしも困る。わたしが水槽の中にいたはずがないのに。
「なんでお姉ちゃん? お姉ちゃんは璃乃と一緒にいたでしょ?」
「このお姉ちゃんじゃない。違うお姉ちゃん」
 璃乃はにこっと笑った。その瞬間、ママの顔が氷みたいに固まった。
 わたしは横目でパパの顔を盗み見た。あいかわらず黙り込んでコーヒーのストローをくわえている。
 璃乃が変なことを言うのはいつものことだ。ひとりでぬいぐるみに話しかけていたり、幼稚園に咲いているたんぽぽと友達になったと言い出したり、古くなった靴をママが捨てようとしたら、靴が泣いてると言ってすごい剣幕で嫌がったり。そんなだから変わってるとか言われて、わたしまで気まずい思いをさせられるんだ。ただでさえママと血がつながっていないから、家族の話を人にする時は気をつかっているのに。
「そっか、水の中にお姉ちゃんがいたんだ」
 わたしは適当に言ってあげた。内心は、ちょっとうんざりしていたけれど。
「うん」
 璃乃はめずらしく、嬉しそうに笑っている。わたしの気持ちになんてまったく気づいてないみたいだ。
 ママは璃乃を見たまま、まだ凍りついていた。わたしと同じで璃乃の空想には慣れているはずなのに、どうしたんだろう。
 話を変えようと、わたしはリュックを背中から下ろし、水族館のパンフレットを取り出した。
「イルカのショーって三十分くらいかな。観終わったらお昼ごはん食べたいよね。あと観てないのってペンギンと、淡水魚のとこと、クラゲ?」
「海のトンネルもまだだよ」
 わたしの話で回復したのか、ママが笑顔に戻って言った。
 反対に、わたしは顔をしかめた。
「トンネルはちょっと、いいかな」
 海のトンネルとは名前のとおり、水槽の中を突き抜ける丸い空洞を歩いていくエリアだ。たいていの水族館にはあるものだけど、ここのトンネルはこの地方の水族館では一番の長さらしく、それを売りにしている。
「彩夏、今も海のトンネル苦手? 前に来た時もそうだったよね」
 前にこの水族館に来たのは、確か四年前だ。小学二年生だったわたしは、トンネルに入ってすぐに出たいと言い出したのだ。
 海のトンネルは水族館の出口に続くところにあって、避けて通るにはそれまで観てきたところに戻って遠まわりしないといけない。パパはもう戻れないと言ってひとりでさっさと歩いていってしまった。わたしはトンネルの終わりまでママの陰に隠れるようにしながら、できるだけ水の中を見ないようにして必死で歩いた。
「おまえは気が強いくせに、変なところで怖がりだな」
 パパが急に口を開いてうすく笑った。楽しい会話には加わらないのに、こういう時だけ口を挟んでくるのだ。

 水族館が苦手だと気づいたのは、最初にここに来た四年前だった。
 大きな水槽に囲まれて立った時、生まれてはじめて感じるような恐怖がこみ上げてきた。海の底に閉じこめられているような、この世に自分ひとりが取り残されたような気分だった。
 陸上にいるペンギンやアシカはまだ平気だった。でも、彼らが水の中に入るのを見た瞬間、あらためて同じ恐怖に襲われた。
 水の下にはわたしの知らない世界がある。深くて仄暗い青の世界。いったんそこに迷い込んでしまったら、二度と外には出られない。
 でも、こんなことは誰にも言えない。水族館は動物園より大人っぽいイメージだし、友達はみんな大好きだと話している。ママにも海のトンネルが嫌だと言うのがやっとだ。璃乃が大きくなってからはじめての水族館だし、来たくなかったなんて絶対に言えなかった。

 イルカのショー会場は満席で、わたしたちが行った時には立ち見の場所しか残っていなかった。
 わたしとママは手すりにもたれかかって、イルカのジャンプに拍手を送ったり、おどけるような鳴き声に笑ったりした。イルカが水の中に飛び込んで高速で泳ぐたびに、わたしは怖がっているのを悟られないように気を張った。
 璃乃は手すりの下の段に足をかけて、わたしやママと違って無言でショーを観ていた。
 ショーが終わり、イルカとトレーナーさんの姿が見えなくなると、わたしたちは手すりから離れた。人の波に流されないよう、わたしは璃乃の肩に手を置いて、自分の前を歩かせた。
「お姉ちゃんがいた」
 わたしのおなかのあたりで、急に璃乃の声がした。
 わたしはため息を押し殺した。
「さっき水槽の中にいたお姉ちゃん?」
「うん」
 璃乃は立ち止まり、真上に首を傾けてわたしを見た。
「水の中で、イルカと一緒に泳いでた。こっちに来てって、言ってた」

 わたしは海の底にいる。
 上のほうからかすかな光が差し込むだけの、深くて仄暗い青の世界。
 いったんこの中に入ったら、二度と外に出ることはない。
 人の気配を感じることがないここで、わたしはひとり、泳ぎ続けている。

 結局、海のトンネルには行くことになった。
 璃乃は前に来た時のことを覚えていないから、トンネルを一度は見せてあげたいとママが言ったのだ。パパは早く外に出て休憩したがっていて、トンネルを避けて遠まわりするのは嫌だと言った。ママは、彩夏ごめんね、とわたしに謝り、怖かったら目をつむって歩きなよ、と笑った。
 目を閉じることなんてできなかった。視界を暗くした瞬間、これまで見てきた水族館の光景がよみがえるのだ。記憶の中にある仄暗さよりも、目の前の現実のほうが少しはましだった。
 わたしはできるだけ足もとに目を落とし、左右と上を囲む水の中を見ないようにした。
 パパは先にすたすたと歩いていってしまい、ママはパパを追って人ごみの中に紛れてしまった。わたしは水槽から目をそらしながら、璃乃がはぐれないように気をつけないといけなかった。
 璃乃はときどき立ち止まったり、水槽のガラスに顔を近づけたりしながら、水の中を無言で見つめていた。
 わたしは不思議だった。璃乃はわたしよりよっぽど怖がりなのに。暗いところにはひとりでいられないし、お化けが出てくる絵本やアニメも嫌がるし、よその大人に話しかけられただけで泣いてしまったりするのに。あまり怖いものがないわたしが怖い水族館が、どうして怖がりな璃乃には平気なんだろう。
 じっと見つめていると、璃乃の小さな頭が急に動いた。水の中の何かを追いかけるように、正面から斜め上へ向きを変えていく。わたしからは後ろ姿しか見えていなかったけれど、なんとなく璃乃は笑っているんじゃないかと思った。水の中に向かって手を振って見せたのだ。まるで仲のいい友達を見つけたみたいに。
「璃乃」
 わたしは近づき、璃乃の隣に並んで水の中を見つめた。
「かわいいお魚でもいた?」
 璃乃は振り向いてわたしを見上げた。思ったとおり、璃乃は小さく笑っていた。
「あれ――彩夏?」
 璃乃が何か言おうとしたのと同時に、背後から聞こえた声にわたしは振り返った。髪に分け目をつくった背の高い男の子が、わたしを目指して歩いてきたところだった。
「え、悠真(ゆうま)くん?」
 気づくのに少し時間がかかった。
 悠真くんはわたしのひとつ上で、小学校の陸上クラブで去年まで一緒だった。クラブでいちばん背が高かったのも、いちばん足が速かったのも悠真くんだ。
 出かける前に時間が余ったから、自分で髪型をアレンジしてきて良かった。この夏に買ってもらったばかりのワンピースを着ていて良かった。
「久しぶりだね。中学も夏休み?」
「うん。家族と一緒に来た。彩夏も?」
「そうなの、パパとママと――」
 わたしは振り返って妹の姿を捜した。
 璃乃はまた水槽に向かって、無言で立ち尽くしていた。
「璃乃、こっち来て。悠真くん、これ妹の璃乃」
 わたしは璃乃の頭に手を置き、振り向かせて悠真くんに会わせようとした。
 璃乃は悠真くんを一目見るなり、泣きそうな顔をした。人見知りで、特に男の子が苦手なのだ。
「璃乃、あいさつしてよ」
 わたしが言っても、璃乃はうつむいて首を振った。
「お姉ちゃんのとこへ行く」
「何言ってんの、お姉ちゃんはここにいるでしょ」
「水の中のお姉ちゃん。お姉ちゃんと一緒に泳ぐ」
 わたしは思わず、璃乃の口を手で塞ぎたくなった。
「え、水の中に人? なんかそういうショー?」
 悠真くんはきょとんとして頭の上の水槽を見ている。女の人の泳ぐ姿なんて、もちろんどこにもない。
 胸がむかむかしてきた。彩夏の妹って変わってるよね、と言う友達の声が頭に響いた。
「悠真くん、ごめん。この子ちょっと機嫌が悪いみたい」
 わたしは璃乃の手をつかみ、水槽から引きはがすようにして歩き出した。悠真くんに背を見せて、海のトンネルの入り口に向かって。

「いい加減にしてよ」
 トンネルのほとんど端まで来て、わたしは璃乃の手を離した。
「なんであんなこと言うの。変な子だと思われるでしょ」
 ううん、もう思われたに違いない。璃乃も、わたしも。
 わたしに怒鳴られた璃乃は一瞬きょとんとした。それから泣きそうな顔になったと思うと、急に唇をきゅっと締めてわたしを睨んだ。
「お姉ちゃんがいたもん」
「いないよ。水の中に人がいるわけないでしょ」
「いたもん。わたしに手を振って笑ってた。璃乃もおいでって言ってくれた」
「水の中にいたらしゃべれないでしょ」
「お姉ちゃんはなんでわからないの? 水の中にいるお姉ちゃんは、お姉ちゃんのお姉ちゃんなのに」
 わたしは思わず手を振り上げそうになった。
 もうたくさんだ。こんな妹がいるせいで、わたしまで変な目で見られる。わたしまで嫌われてしまう。
 こんな子、知らない。わたしの妹じゃない。
「わけのわかんないこと言わないで。わたしにお姉ちゃんはいない」
「いるよ。ほら、そこに」
 璃乃はわたしを睨むのをやめて、いつものような表情のない顔に戻っていた。その顔のまま左手を上げて、海のトンネルを指さした。
 わたしはむしゃくしゃした気持ちのまま振り返った。水槽の中にはもちろん人影なんてない。色も大きさもさまざまな魚が泳ぎまわっているだけだ。
 それなのに璃乃の手は、ひとつの生き物の動きを追うように、なめらかに動いていく。
「泳ぎながら手を振ってる。彩夏、璃乃、一緒においでって。お姉ちゃんにも見えるでしょう」
 ぞくりとした。トンネルにいた他の人たちが急に消えて、わたしと璃乃だけが取り残されたような気がした。人の住めない水の中の世界に。深い海の底に。
「だったら、そのお姉ちゃんのとこに行けば。わたしはもう知らない」
 わたしは璃乃に言葉を投げつけ、背を向けた。大嫌いな海のトンネルの中をひとりで歩いていく。

 わたしは海の底にいる。
 決して人の訪れがないこの場所で、ひとりで妹を待っている。
 素直で可愛い子だった。よその人にはなかなか慣れなくて、いつもわたしと一緒にいたがった。
 わたしがいなくなって、あの子は泣いているだろうか。
 ううん、あの子には、わたしのいる場所がわかるはず。
 わたしは海の底にいる。
 妹はいつここに来てくれるのだろう。

 水族館のロビーに出ると、わたしはベンチに腰かけているママに駆け寄った。
「パパが係の人と話してる。すぐに迷子放送してくれるって」
 海のトンネルを早歩きで抜けたわたしは、出口の手前でパパとママに追いついた。璃乃は? と訊かれて、知らない、と答えた。トンネルは一直線だし、待っていればそのうち璃乃も追いかけてくるだろうと思ったのだ。
 十分、二十分と待ってみても、璃乃の小さな姿がトンネルから出てくることはなかった。
「ごめんなさい、ママ。わたしがちゃんと見てなかったから」
 璃乃に対する怒りやいらだちはとっくに消えて、後悔だけがわたしの胸にのしかかっていた。
 ママは青ざめた顔で首を振った。いつもの明るい雰囲気はすっかり消えて、ベンチの背に倒れかかるようにもたれていた。
「彩夏のせいじゃない。ママとパパこそ、いつも彩夏に任せっきりでごめんね」
「ただの迷子だから、すぐに見つかるよ」
 水族館はその名のとおりひとつの建物に過ぎないし、出入り口は一か所しかない。子どもがひとりで外に出ることはできないはずだ。館内をくまなく捜してもらったら、璃乃はあっさり見つかるはず。
 ママはうなずいたけど、顔色は心配になるほど悪かった。ロビーにあるインフォメーションに駆け込む前、わたしとママは海のトンネルを逆走して、璃乃を捜しまわったのだ。
「ママ、お茶でも買ってこようか」
「ううん。心配させてごめんね。ただ、ちょっと」
 ママは言い淀んで、思いきったようにまた口を開いた。
「ときどき不安になるの。璃乃は彩夏よりも――もうひとりのお姉ちゃんに似ている気がするから」
 自分の胸が大きく高鳴るのを、わたしは聞いた気がした。
「もうひとりの、お姉ちゃん?」
 ママがはっと顔を上げ、おずおずとわたしに尋ねた。
「彩夏、覚えていないの? ――実緒(みお)ちゃんのこと」

 わたしは海のトンネルを再び逆走していた。夕方に差しかかっていても人ごみは引かず、たくさんの人がわたしと逆向きに押し寄せていた。その人たちに変な目で見られるのも構わず、わたしはひたすら走った。
『実緒ちゃんは、おとなしい子だった』
 ロビーのベンチに座って、ママが話してくれた。
『人見知りで、あまりしゃべらなくて。暗いところやお化けは怖がるけど、好きなものには夢中でのめり込む子だったみたい』
 ママの話を聞きながら、わたしは少しずつ、本当に少しずつ、思い出していった。わたしの両親が夫婦だった時のこと。わたしのお姉ちゃんのこと。
 お姉ちゃんの名前は実緒と言った。年はわたしと九つも離れていた。
 わたしがうっすら覚えているのは、病院の白いベッドに寝ているか、座っているお姉ちゃんだけだ。お姉ちゃんは子どもにはめずらしい重い病気で、何年も入院していたとママは教えてくれた。ママはわたしの本当のママの友達で、お姉ちゃんの病室にも何度かお見舞いに来てくれていた。
『特に海が好きだったみたい。病気になる前に一度だけ行った水族館のことをよく話してて、また行きたい、いつか海にも行ってみたいって、何度も言っていたんだって』
 覚えている。病院のベッドによじ登ったわたしに、お姉ちゃんは本を見せてくれた。海の写真がたくさん載った本。
 海の底にはこんな生き物がいる。こんなきれいな景色がある。いつかわたしも行ってみたい。
 楽しそうなお姉ちゃんとは反対に、わたしは怖い思いを押し隠していた。海の底は深くて、暗くて、人間は誰もいない。いったんそこに入ったら、二度と出ることができず閉じこめられてしまう。そんなふうに感じていることをお姉ちゃんに知られたくなかった。
 ――彩夏、いつか海に行こうね。海の底で一緒に泳ごうね。
 お姉ちゃんとわたしの約束は守られなかった。わたしが三歳の時、お姉ちゃんは十二歳で亡くなった。両親が離婚する一年前、璃乃が生まれる三年前だった。
『半分しか血がつながっていないのに、璃乃は実緒ちゃんに似ている気がして。こんなこと、言ったらいけないんだけど――ときどき怖くなるの。いつか、あの子も実緒ちゃんみたいに』
 わたしは海のトンネルを出ると、水族館のいたるところを片っ端から走りまわった。
 深海魚の水槽、クラゲの水槽、ペンギンの水槽。どの場所でも璃乃は言っていた。――水の中にお姉ちゃんがいる。
 ――水の中にいるお姉ちゃんは、お姉ちゃんのお姉ちゃんなのに。お姉ちゃんはなんでわからないの?
 わたしは、璃乃になんて言った?
 ――わたしにお姉ちゃんはない。
 そう言った。
 ――だったら、そのお姉ちゃんのとこに行けば。
 そして、こうも言ったのだ。
 わたしは夢中で水族館の中を駆けた。
 璃乃。わたしの妹。いつもわたしと一緒にいて、わたしと手をつないでくれる、素直で可愛い妹。もう知らないなんて、妹じゃないなんて嘘だった。
 お姉ちゃんのことも、好きだった。病気の治療で辛かったはずなのに、会いに行けばいつも笑顔で迎えてくれる、穏やかで優しいお姉ちゃんだった。どうして忘れてしまったんだろう。
 璃乃はお姉ちゃんを知っているのだろうか。
 こんなひどい姉のわたしよりも、もうひとりのお姉ちゃんのことを慕って、会いに行こうとしているのだろうか。
 お姉ちゃんのいるところに。水の中に。
 大きな水槽のある場所はみんな捜したけど、その中に璃乃の姿はなかった。お姉ちゃんの姿も。
「彩夏?」
 途方に暮れるわたしの肩を、誰かが叩いた。振り向くと、心配そうな顔が見つめていた。悠真くんだった。
「さっき、放送聞いて。璃乃ちゃんって、彩夏の妹だろ。迷子なんだって? おれも一緒に捜すよ」
 わたしは力なく首を振った。悠真くんの優しい目も、優しい言葉も、何の慰めにもならなかった。
「捜しても見つからない。璃乃はきっと、水の中にいる」
 悠真くんの顔がみるみる戸惑いの表情になった。璃乃のことを変だなんて言えない。わたしもじゅうぶん変な子だ。
 でも、悠真くんが続いて口に出してくれたのは、わたしが予想したのとはまるで違う言葉だった。
「水の中に入れるとこなんて、ほとんどないよ。イルカショーの会場くらいしか」

 ショーの時間を終えた客席には、混みあっていた時が嘘のように、人の姿はひとつも見えなかった。
 低いところに設けられたステージにも、トレーナーさんも誰も立っていなかった。ショーに使われたループやボールもきれいに片づけられていた。
 プールの中を泳ぐイルカも見えなかった。ただ、端のほうにひとつ、プールと客席を隔てるガラス板のこちらがわに、小さな人影があった。ガラス越しに水の中を覗き込んでいる小さな女の子。
 わたしは転ぶように客席の階段を駆け下り、ただひとりの妹を目指して走った。たどり着く前に、信じられないものが目に映った。
 プールの水が大きくうねる。浜辺に打ち寄せるような波が起き、こちらがわにいる妹の上に落ちてくる。妹はまるで構わずに同じ場所に立っている。
 波に触れようとするように、小さな手を伸ばしている。水の中に迎え入れてもらおうとするみたいに。
「待って」
 わたしは叫んだ。自分の声がまるで響いていない気がした。
「待って、行かないで。璃乃――お姉ちゃん!」
 わたしはプールのガラス板に飛びかかり、よじ登って向こうがわに身を乗り出した。体が深い海に飲み込まれていくのを感じた。

 気がつくと見知らぬベッドに寝かされていた。
 わたしはイルカショーのプールで溺れているところを救助され、水族館から病院に運ばれたのだという。
 わたしが手当てを受けている間も、水族館の人たちとパパは璃乃を捜していた。わたしのように溺れたのではないかとも言われて、同じプールを隅々まで見てもらったそうだ。
 でも、水族館のどこにも、周囲のどんな場所にも、璃乃の姿は二度と見つからなかった。
 退院の日にわたしにそれを話してくれたママは、わたしの前で耐えきれずに泣いていた。でも、わたしは一緒に泣くことができなかった。璃乃がどこにいるのか、わたしだけが知っていたから。
 お姉ちゃんは海が好きだった。いつか海の底に行ってみたいと、わたしに何度も話してくれた。けれどもその夢は叶わなかった。
 璃乃は、お姉ちゃんに似ていた。小さくて、おとなしくて、怖がりで、自分にしか見えない世界を持っていた。わたしはそれを一緒に見ることができなかった。
 ふたりは水族館の小さな水槽を抜け出し、一緒に泳いでいるのだろう。二度と出ることのない青の世界で。深い海の底で。



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